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図書委員の辻村智子は「吾輩は猫である」を勧めた

「お疲れ」俺は同じクラスの図書委員、辻村智子に声をかけた。

「あっ・・・・・・どうも」小柄な彼女の声は小さくて聞き取れないくらいだ。図書室には彼女のほかは誰もいない。

「ごめん、ちょっと用事が出来て遅れた」放課後、俺は拓海からLPレコードを借りたのだが、奴のうんちく話が長かった。「クリムゾン・キングの宮殿」というアルバムでロバート・フィリップのギターが凄いとうるさいのだ。

「いえ・・・」受付の椅子に座っている辻村は一瞬俺を見て、そして俯きながらそう言った。俺が来るまで彼女は文庫本を読んでいたようだ。俺も小柄な同級生の横に座ってナップサックから文庫本を出して読もうとした。

「ここ、ここだよーっ、水希ちゃーん」出入口の引き戸の向こうから聞きなれた騒がしい声がした。俺は嫌な予感がした。そして胸がときめいた。

 図書室の白い引き戸が音もたてずに滑るように開いた。

「ヨーッ、お勤めぇ、ご苦労さん!」北川に車椅子を押されながら幸太郎が右手を上げながら入ってきた。北川の後ろから永瀬も入ってきた。永瀬は珍しそうに室内を見回し始めた。

「水希ちゃーん、ここが不愛想な久志が週に一回、お勤めする図書室でーすぅ。オイ、久志ィ。そんな怖い顔したら誰も図書室に寄り付かなくなるぞぉ。ねっ水希ちゃーん」

 俺はムッとしてヘラヘラしている幸太郎を睨んだ。

「オイ、山口。ここには漫画本、ないのか? ガラスの感性を持ったあたしがウルウルするやつとか」北川も珍しそうにあたりをキョロキョロ見回した。

「ないよ」俺は呆れて言った。

「プッ」何故か辻村が噴き出した。

「あっ、ごめんなさい」隣に座っている図書委員は顔を赤くして笑いをこらえている。

「何で、お前たちが図書室に来たんだ? 幸太郎と北川には縁のない場所だろ」

「アーッひどい。あたしたちだって本くらい読むよねーっ、幸太郎」

「オウッ、俺なんか一日に三冊は本を読んでるぜぇ」

「漫画かエロ本だろ」

「な、な、な、なにおぅー」図星のようだ。

「まあまあ幸太郎。山口は愛しい水希ちゃんの前でイイカッコしたいんだよ。分かってやれよ、イヒヒヒヒ」

「にゃるほど―ッ、ふっふっふっ」

「山口みたいにマジメそうな奴ほどエッチかも。あいつ部屋でコソコソとエッチな本を見てるぞ」

「そうだなぁ。水希ちゃーん、久志には気をつけてねぇ」二人はニタニタしながら俺と永瀬を交互に見た。俺は悪友のふざけた眼差しを無視して、何故か微笑んでいる永瀬に訊いた。

「永瀬さんはどうして図書室に来たの?」

「あっ、私、まだこの高校のいろんな教室の場所が分からなくて。それでどうしょうかなって思っていたら、北川さんと片田君が放課後来てくれて」そういえば俺が拓海と話しているときに、この二人組が2―B教室にやって来て永瀬と話していた。

「それで北川さんと片田君に学校案内をお願いしたの」

「どうだぁ、参ったか久志! エライだろーっ」幸太郎は偉そうに胸を張った。

「コラコラッ、幸太郎。ホントは山口が水希ちゃんを案内したかったんだぞ。見てみろ、あの悔しそうな顔」

「グフフゥ、あーっ、そうだったねぇ。久志クーン、余計なことして、ごめんなちゃーいィ」北川と片田は合掌して俺にペコペコお辞儀をした。俺はこんなふざけた奴らを無視してそっぽを向いた。隣の席の辻村はまた体を震わせて笑いを我慢している。

「それから私、漢字があまり分からなくて。それで日本語の小説かエッセイを読んで漢字に慣れようかなと思って。山口君、何かお勧めの本、あるかな?」永瀬は少しだけ首を傾けた。ウエーブのかかった髪が少しフワッと動いた時、俺の胸の鼓動は大きく鳴った。

「あっ、あ、そうだな」俺は頭がカッと熱くなるのを感じた。そして俺の脳はこれ以上ないほど高速回転し始めた。

「うーん、椎名誠の『怪しい探検隊』シリーズは読みやすくて面白いけど」

「シーナマコト? アヤシーィ探検タイ? 幸太郎知ってるか?」

「知らんのう」幸太郎は両腕を組んで考えている。

「あの・・・山口君、椎名誠もいいけど漱石の『吾輩は猫である』とかはどうかな?」辻村が黒縁眼鏡を右手で動かしながら呟くように言った。

「確かに・・・」俺は同じ図書委員の言葉に納得した。

「おう、俺っちも『吾輩は猫である』知っちょるぞ」

「あーっハイハイ、あたしもぅ」北川が小学生のように右手を挙げた。

「ふーん、じゃあ幸太郎と北川。漱石の本、他には?」俺は冷たく言ってやった。

「おう、えーっと、アレだよ、アレ。なあ舞」

「あっ、そうそうソーセキといえばアレだな。幸太郎」

「やっぱ、ソーセキはアレだな」幸太郎と北川は知ったかぶりの表情を浮かべ「アレだよ、アレ」と言いながらウンウンと頷いている。

俺が冷たい眼で二人を見ていると、またも辻村は口を押さえて体を震わせている。

「漱石といえば『坊ちゃん』でしょ。私も読んだ記憶があるよ」永瀬が思い出すように言った。

「そうそう、ソーセキといえばボッチャンだな」

「あたしもそれが言いたかったんだよ。ボッチャン、ボッチャンだぁ」

「永瀬さん、『吾輩は猫である』は面白いと思うよ」俺はボッチャン、ボッチャンと騒いでいる輩を無視して、何とか永瀬に言いたいことを伝えた。

「確か『吾輩は猫である』はこの図書室にあると思うけど」俺が蔵書ファイルをチェックすると辻村は貸出カードの記録をチェックした。

「山口君、プッ。貸出カードの記録には『吾輩は猫である』はないから、クスクスッ、図書室にあると思う」辻村は笑いを必死に我慢しながら、そう言った。

「ああ、ありがとう」意外に笑い上戸なクラスメートが言う通り、蔵書ファイルに『吾輩は猫である』の文字があった。

「じゃあ、俺、本取って来るよ」俺が受付の席を立った。

「あっ、私も行く。これから図書室をたびたび利用すると思うから」永瀬はスッと俺の左横に来た。

「あーっ、じゃあ僕ちゃんもぅ一緒に探しに行こうかなぁ?」幸太郎は車椅子のハンドリムを握り動こうとした。俺はジロッと幸太郎を睨んでしまった。

「おーっ、怖っ。舞ちゃーん。久志が無っ茶、睨んでるぅ」車椅子に座っている軽薄男はのけ反って北川を見た。

「馬鹿だな、幸太郎は。今、山口図書委員の邪魔したら、お前、車椅子ごと階段から突き落とされるぞ」

「ヒェー、こわぁーいぃ」

 俺は二人を無視して日本の小説が収まっている書架の場所に行った。

「たくさんの本があるね」

「うちの高校の図書室は結構充実している」

「ふーん、良いね」

 俺が『吾輩は猫である』を探していると隣で永瀬も同じような姿勢で目的の本を探している。また甘くて爽やかな香りが俺の鼻腔を刺激した。

「あっ、これかな」永瀬は灰色のハードカバーを手に取った。

「ああ、それだな」俺のプライドが少し傷ついた。

「結構、分厚いね」

「うん、長いけど面白い。俺、二回読んだ」

「そうなの。山口君は本を読み返すんだ、凄いーっ」永瀬のピンクの頬が色鮮やかに見える。

「いやっ、一回読んだだけじゃあまり分かんないし」

「私は本を一回読んだら、読み返さないなぁ。あっ、でも詩集はお気に入りのところは読み返すけど」

「詩集を読むの?」

「うん、イエィツとか好きだよ」

「イエィツ?」

「アイルランドの詩人、向こうでは有名だよ」

「あのさ、永瀬さんの読む本、英語?」

「うん、そうだよ」

「凄い!」

「でも日本語の文章が苦手だから」

「うん、まあ、そうだよなぁ」俺は訳も分からずウンウンと首を縦に何回も振っていた。入り口のドアが開いて人が入って来る気配がした。

「あっ、受付に戻らないと」俺は小さな声で永瀬に言った。

「山口君、これ、ありがとう」転校生は両手で灰色のハードカバーを俺の目の前にかざした。『吾輩は猫である』は永瀬の顔を半分隠している。本の上から覗く転校生の瞳は優しく輝いている。

「あっ、ああ・・・」それだけしか答えられなかった俺は、お喋りな幸太郎や北川を一瞬羨ましく思った。



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