紫の残照
松林を抜ける風が吹いた。その風は爽やかなのか暖かいのか分からなかった。陽光はオレンジ色に変わっていた。
「ねえ久志君、私、帰る前にあそこに行ってみたい」永瀬が指さした先には岩で固められている突堤があった。砂浜の西の端にあり海の方に三〇メートルほど突き出ている。
「あそこは俺の気に入った場所だ」
「やっぱり」勘が抜群に良い少女は微笑んだ。
砂浜を歩いて行くと茜色の雲が水平線に下りていく光景が俺の眼を捉えた。永瀬といると世界の風景がより美しく見える。
南に伸びる突堤は足場が悪く風も強い。クラスメイトの黒髪が時折大きく吹き上がる。永瀬と俺は自然とお互い腕を腰に巻きつけ寄り添って歩いた。
「潮の香りが素敵」
「・・・・・・」
殆ど言葉を交わさずに突堤の先端に来た。東の空は青から蒼に変わっていく。
「私ね、夜遅くに時々、自分の両手を観ることがある」永瀬は麦わら帽子を右脇に挟み、両手を俺の目の前にかざした。
「この手を観ていると、両手がばんやりと霞んでいるような気がする時があるの。この手は何も生み出さないんじゃないかって思うときがある」
「そうかな? 永瀬さんの手はとても器用だと俺は思うけど」たぶん俺の答えは間違っている。
「ありがとう・・・・・・。ねえ久志君っていい名前だね。志を久しく永く持ち続けるって・・・」
「あ、ああ・・・」
「水希って名前はママが付けたの。水はほとんどの生き物に必要だし、久志君が言ったように激しいものを中和させて落ち着かせる作用もあるって」
「うん、俺も水希って名前、好きだ」俺は永瀬が何を言いたいのか分からず、ただそう答えた。
「ありがとう・・・。夕焼けが綺麗だね、久志君」淋し気な少女は眼を細めながら西の空を眺めた。俺は永瀬の腰の上に回している右腕の力を少し込めた。
「私ね、まだ一六歳だけど時折、自分がすごく長く生きてきた気がするの。ずっと一人で長い旅をしてきたような。そしてこんな綺麗な景色の前にいると、あの夕陽をずっとどこまでも追いかけていきたい気持ちになる」
「あの夕陽をずっと追っかけるって海の中に入るってこと?」
「うん、そう。どこまでも、どこまでも・・・。何も考えなくて何もなくて・・・・・・」夕陽を見ている少女はとても遠い場所にいるような気がした。
「・・・・・・」俺は右腕に更に力を込めることしか出来なかった。
「久志君、一緒に、行ってくれる?」
「あっ・・・・・・」俺は息が止まった。波の音が聴こえた。時間が伸びているように感じた。
俺の腰に巻かれている少女の左腕に力がこもった。俺は息を吸い込んだ。
「ごめんね」永瀬水希の瞳は涙で潤んでいた。俺の頭の中には激しい潮の流れに巻き込まれている俺と永瀬の姿があった。
「俺・・・・・・、一緒に行ってもいい・・・」
「エッ・・・・・・」永瀬は息を飲み驚いたように俺を見た。俺はそのとき悲しみを隠している少女を激しく抱きしめたいと願った。
「・・・ありがとう」永瀬はそう言うと俺の貧弱な胸に顔を埋めた。
「また充電」永瀬は呟いた。俺は自分の中にあるエネルギーが少しでも彼女に伝わればいいと本気で祈った。
そして俺と水希は長いキスをした。
波の音は聴こえなかった。
「ねえ久志君」少女は水色の麦わら帽子を被りながら言った。
「私には誰にも言っていない秘密の場所があるの」
「んんっ?」
「悲しいこと、辛いことがあると私はそこに行く。その場所は蒼い海の岬で草原があって潮風が吹いている。そこで私は一人で草原に寝転がったり、優しい潮風に吹かれていたりするの・・・」俺のクラスメイトは遠い景色を眺めているように少しだけ瞳を細めた。
「その場所は二人だけの秘密だよ」
「あっ、ああ・・・」俺はやはり何と答えていいのか分からなかった。
「この星は動いている」永瀬水希はオレンジ色に変わりつつある水平線を見ながら言った。俺も永瀬の隣で海と空と雲を見た。
この惑星はほんの少しずつだけど動いているように感じた。
駅の待合室には農作業着を着ている老婆が古い木製の椅子に座っていた。駅の前の電灯に灯りがともっている。俺と永瀬は老婆から離れた場所に座った。あと一〇分で街に戻る列車が来る。
俺は永瀬が言ったことを思い返していた。そして駅の壁に掛かっている丸い時計を見た。秒針が滑らかに回っている。
「アッ、そうか」俺はずっとスッキリしないことが明らかになるような予感がした。
「どうしたの、久志君。何か嫌なこと思い出したの?」
「いや、昨日、みずっ、アッ、永瀬さん言った、幸太郎が焦っているってことを思い出して思い当たることがあった」
「フフフッ、何かな?」ワンピースの少女は静かに微笑んだ。
「あのさ、幸太郎のことだけど、幸太郎って無茶する時があって、それって生き急いでいるのかなって今、思った」
「うん、私も最初に片田君に会った時からそう感じたよ」俺は永瀬の聡明さにずっと驚いている。
「やはり片田君の体の機能は衰えてきたの?」
「たぶん。でもどうして永瀬さんは分かった?」
「うん、みんなの話を聞いたり、片田君の行動を見ていると、彼がすごく今の時間を大切にしてるって感じたの。彼には自分にはもうあまり時間ないという自覚があるのかな」永瀬は眼を落し、そして俺を見た。
「永瀬さん、凄いな」俺は心底感心した。隣に座っているワンピースの似合う少女は俺の左手を握った。
「アッ、列車が来たよ。久志君」俺たちは慌てて自動改札機を通り二両編成の列車に乗った。各駅停車の列車は混んでいた。俺と永瀬は二両目の一番後ろの座席に座った。列車は「ゴトンゴトン」という音とともにスピードを上げていく。
「さっきの続きだけど、幸太郎は自分からバランスを崩して階段から落ちた可能性が高いのかもしれない。ひょっとしたら誰かに介助されて、それが上手くいかなくて落ちた可能性もあるし・・・」
「車椅子の操作は慣れないと難しいしね」麦わら帽子を膝に置いた少女は頷いている。
「一番嫌なことも可能性としてゼロではないけど」
「残念だけど、そうだね」
「でも、幸太郎、ひょっとしたら自分を落した奴を知っても、そいつをそんなに恨まないじゃないかと思ったんだ」
「エーッ、どうして?」永瀬は珍しく俺の言葉に驚いた。
「幸太郎にとってはさぁ、俺たちと一緒にいる時間が一番大切なんじゃないかなぁ。だから、そんな最低な奴に付き合っても時間の無駄だと。幸太郎が言ってるように何故転落したのか分からないのが真実かもしれないけど」
「そうだねぇ、うーん」聡明な女子高校生は考え込んだ。
「でも、もし幸太郎を落した奴が分かったら、俺はそいつをぶん殴ってやる」
「逮捕だね」
「だけど俺ケンカ弱いし」
「ううん、久志君はとても強いよ」
「そうかな?」
列車は八分間で俺たちの住んでいる街に着いた。
俺と永瀬は階段をゆっくり上り高架上の駅の改札を抜けた。薄暗い待合所の西側の窓から僅かに紫の残照と紅色の海が見えた。
俺の隣にいる少女と見る景色は美しかった。
「海の見える街・・」
「うん」
「もう少し見ていていい?」
「うん」
永瀬水希と俺は海面が闇に閉ざされるまで、駅の待合所で西の空と海を見続けていた。




