消耗した永瀬水希は俺に「充電して」と告げた
「うわぁー眩しい! 梅雨が明けたようだね」水色の麦わら帽子を被った少女は振り返りながら明るく笑った。土曜日の俺たちの全員集合はやはり延期になった。だけど俺と永瀬は週末の授業が終わって帰宅した後、海に行くことを金曜日の帰り道で約束したのだ。
俺たちが住んでいる街の一つ東の駅を降りた。その駅から目指す海岸まで細い道が続いている。
「夏が来たねーっ」海岸に続く道のアスファルトは熱を持っている。
「永瀬さんは夏が好き?」
「うん、季節の中で夏が一番好きだよ、久志君は?」永瀬の左手に俺の右手は捕まった。
「俺も夏が一番好きだ」
「私はロサンゼルスで生まれたからかな。汗をかきながらいろんなことをするのが好きなの」
「エッ、そうなの?」
「フフッ、意外でしょ。久志君はどうして夏が一番好きなの?」
「何かの詩で、『夏は新しい物語が始まる』って言葉があって、積乱雲を見てると、そんな気になる」俺の口と舌は勝手に動いている。
「やっぱり、あなたは詩人だね」永瀬の左手に力がこもった。
「いや、そんなに詩集とか読んでないし」
「そうかな? アッ、もう松林に来ちゃった。駅から意外と近いね」アスファルトの道から土の道へと変わっている。
「ここの松林は涼しい」
「本当、涼しいねぇ。これだけ枝が茂ってるって見たことないよ」永瀬は麦わら帽子を右手に持って体をクルクルと回転させた。薄いピンクのワンピースがフワッと膨らんで黄色のポシェットも宙に浮いている。
彼女は立ち止まり俺を見た。
「フフッ、はしゃいじゃいました」永瀬は何か言いたそうだった。彼女は松林の隙間から光の粒子を放っている水面を見た。
「砂浜に行く?」俺は当たり前のことを訊いた。
「うん」麦わら帽子を被った少女は頷いた。
「うゎーっ、広い」東西に広がっている砂浜には、犬と散歩している人が一組しかいなかった。
「人が殆どいない・・・」ワンピース姿の少女が呟いた。
「この砂浜は波が荒いし風も強い。穏やかな見た目と違って事故も多い」
「さすがに良く知ってる」その時、強い北風が吹いた。その北風は少女の被っている水色の麦わら帽子を吹き上げた。
「アッ!」永瀬の小さな叫びを聞いて俺は駆け出した。彼女の麦わら帽子が波打ち際に落ちる前に俺は飛ばされた麦わら帽子を捕まえることが出来た。
「あーっ、ありがとう、久志君。すごーい! アッ、でもスニーカー濡れちゃったね。ごめんなさい」永瀬は嬉しいような困ったような顔をした。
「いや、別に・・・。いいよ、どうせ直ぐ乾くし」
「本当? 靴下まで濡れちゃったでしょう?」
「ああっ、まあ少し」
「じゃあ、濡れた靴下を乾かそう。ねえ久志君、その靴下を私に貸して」
「ん? ああっ」俺は永瀬に言われるままに、片足立ちになって濡れた白い靴下を脱ぎ彼女に手渡した。
俺のクラスメイトは左肩から斜めにかけてある黄色いポシェットの紐に俺の濡れた靴下を結んだ。
「エッ、あの、それ・・・汚れっ」
「物干し竿じゃなくて物干し紐でーす。こうすれば少しは乾きやすくなるでしょ」
「あっ、あのっ、ありがとう」
「いえいえ、だって私の帽子を助けてくれたために久志君の靴と靴下が濡れちゃったでしょう。これは当然のお礼です」
「そうか」俺は胸の奥が暖かくなった。
「ねえ、久志君。この砂浜はとてもスベスベして気持ち良いね。ガラスとか危ないものも落ちていないようだし」
「うん、ここはガラスとかないと思う」
「ねっ、波打ち際を裸足で歩こう」
「うん」俺がそう答えると永瀬は片足立ちになり白い右のヒールサンダルを脱ごうとした。だけど砂地の僅かな傾斜と足場の悪さでバランスを崩し俺の腕に捕まった。彼女がヒールサンダルを脱ぐと俺も濡れた白いスニーカーを脱いだ。俺はジーンズの裾を捲り上げ、ワンピースの少女は水色の麦わら帽子を右手に持った。
永瀬と俺は波打ち際を東に向かって歩いた。時折荒い波が来てクラスメイトは楽しそうに泡立った波の先から逃れていた。
「あーっ、濡れちゃった」薄いピンクのワンピースの裾が海水に濡れ僅かに蒼みを帯びている。俺のジーンズやTシャツ、灰色のパーカージャケットも永瀬の浴びせる水滴で濡れてしまった。
七月の陽光は少しずつ黄色さを増している。
「喉渇いちゃった。ねえ久志君、何か飲もう」
「ああっ、松林のところに自販機あるし」
俺はコーラ、永瀬はオレンジジュースの缶を手にして古びたベンチに座った。
「ここはやっぱり涼しいねーっ」俺の横に座っている少女は麦わら帽子を脱ぎ右手で前髪をかき上げた。
「今日は羽目を外しちゃった」
「確かに」俺は頷いた。
「嫌いになった?」
「いや、そんな」俺は慌てて左手を左右にブンブン振った。
「久志君のご両親って、どんな人かな?」いきなり話題を変えた永瀬はいつものように首を傾げた。
「エッ、ああっ、俺はあまり親と会わないっていうか、二人で洋菓子の店してるから」
「ふーん、じゃあ、あまり久志君やお姉さんに対してアレコレと言わないのかな?」
「まあ親として最低限のことはしてるけど、自分たちの仕事が忙しいからなぁ。放任主義って言うのかな。俺は気楽でいいけど」
「ふーん、そうなの・・・」
「永瀬さんは女の子だから親はいろいろ心配するのか?」
「うーん、ママは日本に帰ってきていろんな面で反動が出てきてるみたい。しつこい親戚付き合いとかご近所の目とか。それと弟が反抗期でもう大変。ママの言ったこと全てに口答えして喧嘩ばっかり。ママと弟が喧嘩を始めると、私はオーマイガー! って感じね」俺は隣の少女の瞳が灰色に曇ったように見えた。
「お父さんは忙しいの?」
「うん、忙しいよ、帰って来るのは夜の九時以降かな」
「うーん、それは大変だ」
「うん、でもパパが忙しいのはずっとだから。それはママも慣れてる。一番の問題はここ数年でパパとママの考え方が違ってきたってこと。例えば子育てとかね」
「うん?」
「パパはさっき久志君が言ってたように放任主義みたいなところがあって、ママは子供にはきっちりマナーや考え方を学ばせたいみたいなところがあって・・・。その二人の言うタイミングが悪いのよ」
「喧嘩しちゃう?」
「そう・・・・・・最近はいつも」
「そうか・・・」俺は永瀬に慰めの言葉を探したが見つからなかった。
「ごめんね、変な話・・・して」
「いや、いや、そんなことない」俺は必死で言った。
「ねえ、久志君。私、今の話で少し消耗しちゃったから充電してくれない?」永瀬の瞳に明るさが戻ったような気がした。
「充電?」
「そう充電。こうするの」永瀬は俺に抱きついてきた。
「おっ」俺は慌てて右手に持っていたコーラの缶をベンチに置いた。
「うーん、まだ電力不足だよ」帰国子女の瞳は輝きを増した。俺は両腕に力を籠めると彼女の柔らかな胸の感触を覚え、そして熱い鼓動が聞こえた。
「久志君・・・・・・」
俺が答えようとすると俺の唇が永瀬の唇で塞がれた。熱くて冷たいものが俺の体を貫いていった。
永瀬の柔らかな唇が離れていった。
「充電完了しました」小悪魔的な表情とはこういう顔なのかと、俺の働かない脳は少しだけ機能した。




