川田葉子の無防備な直感
「テスト前なのに、利用者少ないね」辻村は囁くように言った。
「うん・・・」クラスメイトが言うように図書室内には女子生徒が二人しかいない。彼女たちは奥の自習スペースでテスト勉強している。
「片田君のケガ、大したことなかったのね・・・。良かった」
「うん。今日、休むと思ったけど」朝、幸太郎からいつも通り登校すると電話があった。
午後四時四〇分に自習していた女子二人が「さようなら」と言って退室した。
「今日はもう、誰も来ないね」
「たぶん」俺がそう答えると女子図書委員は小さく笑った。
「先週は片田君たちが来て面白かったなぁ」
「他の人がいなかったから、良かったけど」そう言いつつ、俺は辻村が以前よりも話すようになったことが理解できないでいた。
「昨日ね、私と葉子、二人とも片田君のケガでビックリしちゃったから、とりあえず部室に行ったの。文芸部の部室って落ち着くの。好きな本に囲まれると安心するって言うか」
「ふーん・・・」
「それでね、部室には同じクラスの松下君がいたの。彼、私たちが入ってきたことに驚いたのよ、変なの。でも葉子も松下君がいたことに驚いていた。松下君の目つきって鋭いからね」
「うん?」
「そして松下君が「車椅子の男、どうなったか知ってる?」って訊いたのよ。その時、アッ、彼も片田君が怪我した現場を見たのかなって思ったんだけど・・・」
「・・・・・・」俺は隣の女子が何を言いたいのか分からない。
「何か引っかかるのよねぇーっ」
「引っかかる?」
「うん、松下君の言ったことがね」俺は笑わない松下の顔を思い浮かべた。
「あれだけ血が出たら松下も驚くんじゃない?」
「確かにね。ねえ山口君、君だから言うけど葉子って不思議な子だよ」辻村は誰もいない図書室を見回した。俺は彼女の話の展開についていけない。
「葉子はね、他人に対して悪口や愚痴や不満を言うことが全くないの。ほら私たち人間も生物だから闘争心とか攻撃性とかある程度必要でしょう。そういうのがおそらくゼロなの。まったくないって私は感じるの。だけどその代わりと言っては変だけど、葉子はその場の空気の特徴や変化をものすごく敏感に感じる繊細な感性があるのよ」
「・・・うん」
「それで、昨日の片田君のケガしてる場面を見たときに、とても嫌な感じがしたって葉子、言ってたの」
図書委員の黒縁眼鏡が光っている。
「えっと、それは・・・幸太郎が誰かに突き落とされたってこと?」
「そういう風には言ってないけど・・・」辻村はそのことを認めたくないようだった。しばらく俺は黙っていた。辻村の話は脈絡がないように思えた。だけど突然、昨日の放課後、川田の泣きそうな顔が俺の脳裏に浮かんだ。
「じゃあ川田さんは辛いのかな、今? そんなに感性が繊細だと」
「うん、私も心配してたけど、授業が終わったあと、原君が葉子のために学泉祭のピアノ譜を渡してくれたんだ」
「エッ! もう」俺は拓海の行動の速さに意外な気がした。
「葉子、凄く喜んで、かなり元気になったみたい」
「ふーん、本当の音楽好きは楽譜貰うだけで元気になるのか?」
「ハァー、もうーっ山口君はぁーっ」川田葉子の親友は何故か長いため息をついた。そして左腕の腕時計を見た。
「五時になったから片付けましょうか」辻村が言う通り図書室の時計は午後五時を回っていた。俺と辻村は室内を見て回り読書カードをチェックして部屋を施錠した。
「今日は永瀬さん、来なかったね。まだ借りた本を読み終わってないのかな?」職員室に続く渡り廊下に涼しい風が吹き込んできた。初夏の匂いがする。
「永瀬さん、今日は北川と二人で幸太郎を送ってる」
「あっ、そうなの。今日は利用者が少なかったから、私一人でも良かったのにね」
「いや、幸太郎は自分のために俺のやることが制約されるのを嫌がる。それに北川は車椅子の扱い慣れてるし、永瀬さんもいるし」
「ふーん。フフッ」大人しそうだと思っていた辻村はちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「一緒に帰りたかったでしょ?」学生用出入口で靴を履き替えながらクラスメイトは俺に訊いた。俺は曖昧に頷きながら、永瀬がユニークな傘を置いた傘立てを見た。その傘立てには一本の傘もなかった。




