「山口君! 片田君が階段から落ちた!」高橋弥生がそう叫んだ。
「山口君! 片田君が階段から落ちた!」放課後、高橋弥生が蒼い顔をして2―B教室の出入り口ドアのところで叫んだ。俺は一瞬隣にいる永瀬を見て駆け出した。
「こっち!」高橋が校舎の中央にある階段を走りながら指さした。二階と一階の途中にある踊り場に幸太郎は顔をしかめて横たわっていた。北川が幸太郎の頭の傍に正座していた。彼女は右手に持ったハンカチを幸太郎の頭に当てている。そのハンカチは鮮血に染まっている。
「幸太郎、北川」俺は幸太郎の顔を見て、腕と足を見た。幸太郎の両手両足は脱力していた。車椅子は見当たらない。
「山口、水希ちゃん」北川は少し安心したようだった。
「舞ちゃん、養護の先生は?」永瀬が心配そうに幸太郎と北川を見ながら言った。
「今、ハルカが呼びに行ってる」
「ハイハイ、みんなどいて、ハアハア」踊り場の下の方から養護教諭の白井弘美の息が上がっている声がした。太ったか白衣姿の養護教諭は幸太郎の傍に膝をついて、倒れている男子高校生の顔を覗き込んだ。
「幸太郎、私、誰だか分かる?」養護教諭は低い声でゆっくりと尋ねた。
「あーっ、養護のぉ、白ブタ先生ッ」幸太郎は顔をしかめながら答えた。
「誰が、白ブタじゃ。幸太郎、吐き気はある?」
「うんにゃ、ない・・・イタッ」
「そうか。足とか腕とか痛くないか?」
「ウーッ、たぶん、ないっ」白井教諭は北川を見て「ありがと」と呟いた。そして養護教諭は白衣のポケットからカーゼハンカチを取り出した。それを見て北川は血に染まったハンカチを幸太郎の頭から離した。
「あたしが訊いても、幸太郎、頭は痛いけど他は痛がっていませんでした」蒼ざめていた北川の顔も少し赤味がさしてきた。
「わかった。幸太郎、もうすぐ救急車が来るから。私が付き添うし安心しろ」
「エーッ・・・舞がいいっ・・・・・・」
「救急車は一人しか乗れないの。我慢しなさい。最後に訊くけど片田君、二階からここまで転げ落ちたのか?」
「そう・・・。どうしてか分からんけどぅ」幸太郎は顔をしかめながら答えた。
「わかった。もう喋らなくていいよ」
「ウッ・・・」幸太郎は顔をしかめながら眼を閉じた。
「白井先生、片田君のこと、私が那須先生たちに伝えます」麻倉がクールに言った。
「ああ、ありがと」白井教諭はそれだけ答えた。
校庭の方からヒステリックな救急車のサイレンが聞こえた。いつもは耳障りに聴こえるその音が今日は頼もしく聴こえた。
幸太郎を乗せた救急車を見送ったあと、俺は2―B教室にもどりロッカーからモップとバケツを取り出した。
「山口君、私も手伝うよ」永瀬はモップを持ってくれた。俺と永瀬は幸太郎が倒れていた踊り場に行った。俺は力を込めて床に貼りついている血痕をふき取った。
「山口、幸太郎が転げ落ちてケガしたのか?」拓海が階段を数段下りて訊いてきた。
「ああ、救急車で運ばれた。頭が切れてかなり出血した。意識はあったし骨も折れてないと思うけど」俺はバケツのローラーでモップを絞った。赤と灰色の混じった水がモップから滴り落ちた。
「そうか・・・」
「軽音楽部に行ってたのか?」
「練習していたから救急車のサイレンも聞こえなかった。悪いな」
「いや」
俺たちは踊り場の血痕を拭き取ってモップをすすいだ後、2―B教室に戻った。俺はモップとバケツを清掃用ロッカーに入れた。拓海は俺の席の後ろに立って永瀬に「驚いただろ?」と声をかけていた。
「ねえ、原君。あの車椅子の男子、大丈夫なの?」拓海の前に韮崎と小野がやってきた。
「分からない。病院で検査受けるはずだ」
「ふーん」韮崎はそれだけ言うと小野に目配せして、その場を離れた。その二人組は本田、花田、武居が集まっている場所へ戻って行った。
「原君、片田君は大丈夫かな?」今度は辻村が心配そうに訊いた。川田も不安そうに親友の横にいる。何故この二人が最近、俺のいる場所の近くにいるのか俺は分からない。
「おい、山口。あいつが倒れてた様子はどうだった? 俺はそこにいなかったから分からないのだ」
「えっと・・・あの・・・」
「あっ、山口君、いいかな?」
「あっ、うん」
「片田君は意識がしっかりあって、吐き気もしないって言っていた。そして傷口の頭は痛いけど、足や腕とかは痛くないって言っていたわ。養護の白井先生もそれを聞くと少し安心したように見えたけど」永瀬の淀みなく言った。
「アレッ、辻村と川田さんは片田のこと知ってるの?」今日の拓海は黒縁眼鏡をかけていた。
「先週、図書委員の当番で図書室にいたら、片田君が永瀬さんとⅮ組の北川さんがやってきて、そのとき彼と初めて話したの」
「幸太郎と北川がいたら、図書委員としては迷惑じゃなかった?」
「ううん、そのときは図書室、他に誰もいなかったから。片田君たちの話が面白くって楽しかった・・・」辻村はそう言うと眼を落した。
「あの・・・どうして・・・片田君は二階から落ちたのかな・・・」川田は隣の辻村を見て拓海を見た。
「うーん」拓海は腕を組んだ。
「そのことは白井先生も片田君に訊いたけど、片田君は分からないって答えていた・・・」永瀬の言うことはいつも明確だけど、今の言葉は何か引っかかるものがあるような言い方だった。
俺はそれまで幸太郎の怪我のことばかり気になっていた。だから改めて永瀬の言ったことを聞いて、鳩尾の辺りが急に重くなった。拓海も辻村もあることに気づいたようだった。
「あっ・・・ごめんなさい。変なこと・・・言って」川田は泣きそうな顔になった。
「いや、そんなことないよ。確かに川田さんの言うとおりだ。なあ山口」
「ああ、うん」俺は頷いた。川田は安堵の色を浮かべた。ドタドタドタという音が出入り口引き戸の方から聞こえた。
「原くーん、練習どうする? ハァハア」引き戸から覗くように、階段を上ってきた丸い体形の金田知浩が訊いた。
「悪い、すぐ行く」拓海はバンド仲間に右手を軽く上げた。
「原君、片田君のこと、いいの?」金田の背後から張本史良が顔を覗かせて遠慮がちに言った。
「ああ、バンドの練習が終わったら片田の家に行くから」
「ハア、じゃあ待ってるね、フゥ」原のバンド仲間はそう言うと小走りに階段に向かった。
「ということで俺は軽音部にもどるわ。山口、お前たちは幸太郎の家に行くだろ?」
「ああ、あいつの車椅子を家に持っていくつもりだし」
「そうか。車椅子は壊れてなかったか?」
「うん、さっきチェックしたけど大丈夫だった。少しハンドルが曲がってたけど・・・」
「ふーん、そうか。じゃあまた片田の家でな」拓海はそう言うと、俺たちに向かって右手を軽く上げて教室から出て行った。川田だけ拓海に向かって上げた右手を小さく振っていた。
「じゃあ私たちも文芸部にちょっとだけ覗きにいくし。あのっ、片田君の怪我、大したことがないといいね」辻村がそう言うと隣の川田も小さく頷き、自分たちの席に戻って行った。
「あのさ・・・」俺が永瀬に問いかけようとしたときだった。
「山口、幸太郎の家に寄るだろう?」青いジャージ姿の北川が2―B教室に入ってきた。
「アラッ、舞ちゃん、制服に片田君の血が付いたの?」
「そうだよーっ。幸太郎が踊り場でウンウン唸って倒れてるから、慌てて駆け寄ってさ」
「うん、ビックリしたでしょう?」
「すっごく血が出てたから何とか止めようと思ってさ、跪いてたらスカートに血が付いちゃったのよ。ホントにもうあいつは」北川は心配そうな表情を浮かべた。
「俺、あいつの車椅子を家に持ってくし・・・」俺は北川と永瀬を見た。
「私も行きたい。でも私が行っても片田君のお家、迷惑じゃないかな?」
「あーっ、大丈夫、大丈夫。幸太郎の家族はあたしたちのこと、いつも歓迎してくれるんだ。水希ちゃんだったら、猶更だよ、なあ山口?」
「あ、ああ、永瀬さんなら歓迎される」
「おっ、山口君が珍しくハッキリ言ったな。どうした?」
「いや、べ、別に・・・」言い淀んだ俺を見て、幸太郎の喧嘩友だちは少しだけ笑った。
「おう、じゃあ、行こうぜ」北川は自分を奮い立たせように言った。
「んん?」俺は首筋に違和感を覚えた。
「どうしたの、山口君?」永瀬は小さな声で訊いた。
「いや、別に」俺はそう答えた。俺の隣の席の少女は後ろを振り返り教室全体を険しい眼差しで見回していた。
「おーい、何してんの? 早く行こう」既に教室の外に出ていた北川が俺と永瀬に呼びかけた。




