川田葉子は原拓海の言動に動揺する
翌日はよく晴れていた。今が梅雨だと思われないくらい季節感のない晴天だった。
昼休み、俺と永瀬は現代国語の教科書を開いていた。右隣に座っている帰国子女はまだ現代国語の教科書が馴染みにくいと言っていた。
「私は英語で考えるの」転校して二日目だったか永瀬が俺にこっそり言った時、俺はかなり驚いた。
英語で思考する少女は集中して教科書を読みこんでいるが、俺は昨日の放課後のことばかり思い返していた。
「山口君、永瀬さん、ちょっといい?」俺と永瀬が同時に眼を上げると、またも辻村と川田がいた。
「うん、辻村さん、川田さん、何かな?」隣の席の少女はいつも微笑みながら返事をするように見える。
「ちょっと、外でお話しできないかな?」辻村の黒縁眼鏡の奥の瞳が教室の中央を一瞬見た。俺は頷いて永瀬を見た。
「うん、いいよ」永瀬が小声で答えると、俺たち四人は教室を出て外廊下の外壁近くに移動した。
「朝のホームルームで本田さんが学園祭のクラスの出し物のこと言ったでしょ?」
「うん」永瀬は頷いた。
「クラス全員で合唱をしましょうって、あれはもう決まっちゃったのかな?」辻村は不服そうだ。
「どうなのかな?」永瀬は少し思案顔で俺を見た。
「丸岡たちが文句言ってたけど」俺は昨日の食堂の会話を思い出した。
「そうだけど、丸岡君たちが反対しても本田さんが言うと決まっちゃうと思う」辻村はそう言ったが納得してないようだ。
「合唱曲は『いちご白書をもう一度』と『あの素晴らしい愛をもう一度』だろ?」拓海が辻村と川田の後ろからそう言った。
「キャ!」川田はそう叫ぶと反射的に左手で辻村の白いカッターシャツの制服を掴んだ。彼女の丸くて白い頬は一瞬で真っ赤になった。
「どうして拓海が知ってるんだよ」俺は拓海も地獄耳かと疑った。
「いや、さっき本田たちが俺に伴奏を依頼してきたから」拓海は平然と答えた。
「ねえ原君、その曲を合唱するってもう決まっちゃったのかな?」辻村はまだ不服そうだった。
「どうかなぁ。でも女子はみんな合唱したいって本田は言ってたぜ」
「エーッ、そんなことないよ、ねえ葉子?」
「うん」川田は右手を口元に当てて小さく頷いた。
「永瀬さんも合唱するってこと聞いたの?」
「ううん、聞いてないよ」永瀬は辻村の問いかけに首を小さく捻った。
「辻村が納得してないのは、合唱するってことを全く聞いてなかったからかな。それと川田さんも伴奏を頼まれたからだろ」拓海は少しにやけながら文芸部員二人に訊いた。
「そうなの。何かもう合唱やるって決まってる、みたいな感じで本田さんは言うのよ。ねえ葉子」川田は小さく頷くだけだった。
「川田さんはクラシックピアノだからポップスやフォークソングの伴奏はしたことないだろ?」
「あっ、はい」川田はすがるように拓海を見た。
「俺たちみたいにコードで演奏してないから、いきなり言われてもなぁ」
「川田さんはクラシックピアノ弾くんだぁ」永瀬は羨ましそうな声をあげた。
「川田さんは凄くいいピアノを弾くぜ。俺、去年の学園祭でシューベルトを一回聴いたけど」
「ふーん、そうなの。聴いてみたいなぁ。あっ、麻倉さんもピアノ上手いって聞いたけど」永瀬は嬉しそうに喋っている。
「遥も上手いけど、俺は川田さんのピアノがグッと胸に来たな」
「オイオイ」辻村は相変わらず川田のお腹辺りを右肘で突いている。川田は何も言わずに両手で顔を覆っている。
「俺もそうだけど、張本、金田っちも川田さんと一緒に演奏したいって言ってるぜ」
「あわわーっ」川田は両手で口を覆い眩しそうに拓海を見つめている。
「葉子、こうなったらもう原君たちと一緒に伴奏しちゃったら?」
「あっ、でも楽譜が・・・」
「ピアノ譜だったら張本が何とかするよ。あいつの家、楽器店だから」
「へぇーっ、そうなんだぁーっ」辻村は拓海の言動に感心している。
「辻村さん、話って何?」俺は気になっていることを訊いた。
「あーっ、そのことはもういいの。解決したから」同じクラスの図書委員はあっけらかんと言った。
「エッ、そう?」俺は何がなんだか分からない。
「ねえ山口君」永瀬の指が俺の右肩に軽く触れた。
「ん?」
「2―Bの学園祭出し物は合唱ということになりそうだね」
「あっ、そうか」俺は丸岡たちのことをまた少し思い出した。
「どうしたの?」
「いや、ほらっ、丸岡たちが合唱に反対していたし」
「そうねえ。でも今の状況だともう合唱に決定じゃないかな。それに川田さんや原君たちが伴奏するのだったら楽しそうだしね」
「あーっ、そうかぁ・・・」
「山口君、合唱で歌う曲って有名な曲かな?」
「うん、『いちご白書をもう一度』は荒井由実の作曲でバンバンが歌ってた。すごくヒットした良い曲。それから『あの素晴らしい愛をもう一度』は古いフォークソングでこれも良い曲だよ。知ってる?」
「うーん、二曲とも知らない」
「そっかぁ、そうだろうなぁ。『いちご白書をもう一度』は俺、カセットに録音していると思う。『あの素晴らしい愛をもう一度』は姉貴が持ってるかも」俺は記憶の糸を辿った。
「ねえ山口君。その曲はギターでは弾けるかな? 山口君もアコースティックギターを弾いているでしょ?」
「うーん、『いちご白書』はフォーク雑誌にコードが載っていて、あまり難しくなかった。『あの素晴らしい』はコード譜見てないけど、拓海に訊いたら分かると思う」
「原君、凄いね」
「あいつの耳と脳はどうなってるのか、分からん」
「そうなの。あっ、あのね。今度ね、その二曲を山口君が私に教えてくれない? ギターの弾き語りで」
「エッ! 俺、ギターも歌も上手くないし」
「そうかなぁ。山口君は何となく雰囲気があると思うけど」
「雰囲気?」俺の乏しい想像力では時々永瀬の言っていることが理解できない。
「ふーん、永瀬、向こうでバンドやってたの?」いきなり拓海が訊いた。
「へヘッ、インターナショナル・ハイスクールで少しね」バイリンガルは少し照れた。
「へぇーっ、原君、よく分かるねぇー」辻村が感心していたが俺も同じだった。川田は何故か嬉しそうに「ウンウン」と何回も頷いている。
「いや、何となく永瀬は音楽やってる感じ、しない? ピアノとかギターのことを楽しそうに話すしな。それで永瀬はバンドでボーカルやってたんじゃない?」
「ワォ! よく分かるね、原君。あとギターとかキーボードをちょこっとだけ」俺の右隣にいる少女は悪戯がバレた子どものような顔をした。
「原君って占い師?」辻村の言語感覚もユニークではある。
「違うよぅ、トモちゃん」川田が小さな声で否定した。
「どんな曲が好きなの?」拓海はいきなり真面目な顔をして永瀬に訊いた。
「私はジャズボーカルが一番好きだけど、バンドで歌ったのはアメリカのポップスが多いかな」
「例えば誰の曲を歌ったのかな?」
「えっとねぇ、キャロル・キングとかよく歌ったよ」
「エーッ、キャロル・キング! 私大好きーっ。ねえどんな感じ? 永瀬さん、ちょっと歌ってよ」辻村は黒縁眼鏡のフレームを右手で触りながら俺の右隣の転校生に迫った。
「ウーン」と言って隣の少女は深呼吸した。
「ウエンヨンダウンアンドトラブルゥド―」そして永瀬は本当に歌い始めた。中音域の美しい声が響く。彼女は体をユラユラと揺らしながら一分くらい歌った。
「ワー!」辻村、川田そして拓海まで拍手している。俺は茫然と永瀬を見ていると、彼女は俺の視線を感じ(どうだったかな?)と銀色の瞳で俺に訊いた。
「良かった」俺の胸に甘い痛みが走った。
「『ヨーガッタアフレンド』でしょ。カッコいいーっ!」俺は辻村が意外と感激しやすいタイプなのかと驚いた。
「永瀬、川田さん、今年の学園祭で俺たちと一緒に演らない? 数曲でいいから」拓海の発言に永瀬も川田も「エッ?」っていう表情を浮かべた。
「ワーッ、それ良いねーっ! 絶対カッコいいバンドになるよ。ねえ山口君!」辻村は当事者を差し置いて俺に迫るように訊いてきた。俺は辻村に若干圧倒されて「・・・ああっ」と答えるしかなかった。辻本は永瀬を文芸部に勧誘したいのではなかったのか?
永瀬と川田はお互いを見つめ合い「どうする?」「どうしよっか?」とか言っていた。
そのとき俺の左頬に違和感を覚えた。左の方を見ると外廊下の外壁の手摺に両手をかけている松下と眼が合った。すると彼はすぐに眼をそらし眩しそうに雲が少ない空を見上げた。そして左隣にいるクラスメイトの青山孝史に声をかけた。




