西の空の彩雲
西の空は茜色に薄っすらと染まっていた。そして流れるように伸びている雲はピンクやオレンジ、水色、黄緑、赤紫と様々な色を有していた。
「あの雲は彩雲って言うらしいよ」
「初めて見た」北川の家からの帰り道、俺と永瀬は橋の上に立ち止まって西の空を見上げていた。
「私も久しぶりに見るなぁ」クラスメイトの前髪が瞳にかかり右手でそれをそっとかき上げた。
「舞ちゃんのお母さん、菜々さん、素敵だね」永瀬はまだ西の空を見上げている。
「うん」
「和服で割烹着って似合う。最初は舞ちゃんのイメージと違うと思ったけど、話しているとさっぱりして、ああっ親子だなぁって思ったよ」
「顔も似てる」
「うんうん、よく見ていると眼も鼻も口元も似ている。じゃあ舞ちゃんは和服も似合うってことだね」永瀬は俺の方を見ながら言った。
「ああっ、そうか」俺はそういうことを考えたことはなかった。
「今日はいろいろあったけど、舞ちゃんの家に行ってお母さんに会えたし、山口君と一緒に素敵な景色を見れて良かった」
「あっ、・・・う、うん」俺は永瀬の傘が紛失したことを失念していた。
「そろそろ帰ろうか、山口君」永瀬は藍色に染まり始めた東の空を見ながら言った。
「ああ」俺たちは橋の左側の歩道を再び歩き始めた。
「ねえ、山口君。帰り際に舞ちゃんが『今日はごめんね』って言ったでしょう。あれはどういう意味かなぁ。私は舞ちゃんのお家に行ってとても楽しかったし、気分転換もできて良かったけど・・・」
「うーん、急に誘って迷惑じゃなかったかぁっていうのもあるし、それと」
「それと?」
「永瀬さんだから来てほしかったと思う」
「私だから?」隣の女子高校生は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。それは左隣を歩く帰国子女の癖なのか分からないが、俺はその仕草に慣れない。
「北川、ときどき俺と幸太郎に自分の家に来ないかって誘う。最初の頃は気が合う者同士だから、遊びに行くって感じだった」
「うん」
「だけど二年になって気づいたけど、北川は俺たちを誘うのは、一緒に遊びたいっていうだけじゃなくて、他の理由もあるような気がしてきた」
「ふーん」
永瀬と俺の周囲に少しずつ闇が忍び寄ってきた。その仄かな闇は何故か親密さを含んでいた。
「北川は凄く母親を大切にしてる」
「うん」
「北川の母親も北川のことを凄く気にかけていると思う」
「そうだね」俺と永瀬は橋を渡り切って国道の歩道に出た。
「俺は分からないけど、北川と母親の菜々さんの関係がうまくいかない時があるみたいで、その・・・親子関係が煮詰まるって感じ?」
「ああーっ、それは分かるよ。私もお母さんとの距離が上手くとれない時があるもの」
「ふーん、そうかぁ。北川が幸太郎と俺を誘うときって、北川が父親と会ったあとが多いような気がする」
「なるほどね。山口君、鋭いねー。それでどうして私が舞ちゃんに呼ばれたのかな?」
「幸太郎、口は悪いけど、あいつといると楽なんだ。あいつ、裏があまりないし。あいつがいるとその場が遠慮しなくていいみたいな感じになる」
「うんうん、確かにそうだね」永瀬が頷いて納得してくれると、俺は自分が正しいことを言っている気持ちになる。
「永瀬さんも一緒にいると幸太郎とは違った意味で自由にものが言える雰囲気になる」
「エッ、そう。嬉しいな」
「永瀬さんも幸太郎も煮詰まった空間を中和することができると思う」
「へぇーっ、やっぱり山口君って洞察力が凄い。それに文学青年」永瀬はそういいながら右腕を俺の左腕に絡めてきた。永瀬の白い右腕は冷たくて滑らかだった。
「あっ、えっと・・・」
「んん、どうしたの?」この隣の席の女子高生は悪戯っぽく俺を見つめた。
「あの、えーっと、遅くなったので送るよ」
「ありがとう。よろしくね」永瀬は絡めた右腕を解いて、右手で俺の左手を握った。その手は小さかった。俺の左手は汗ばんでいるようで。そのことが気になっていた。
「舞ちゃんのお母さんのお店、小料理屋っていうの? 素敵だったねぇ」
「あっ、ああ」
「わたし、ああいう日本的なお店はほとんど行ったことがなかったから新鮮だったよ」
「そうか」俺も幸太郎も北川の母がやっている店に新鮮さは感じていないと思う。
「山口君たちは何回くらい舞ちゃんのお家に行っているの?」
「うーん、十回くらいかなぁ、アレッ」俺は自分がかなりの回数、北川の家に行っていることに驚いた。
「フフッ、どうしたの、山口君」
「いや、こんなに北川の家に行ってるとは思っていなかった」
「あまり舞ちゃんのお家に行っている実感がなかったのかな?」永瀬が少し顔を傾けて俺を見た。その銀色の瞳の眼差しは涼し気だった。
「うん、幸太郎につられて行ってたから。俺は奴の付け足しだし」
「そうかなぁ?」
「・・・・・・」俺は永瀬と手を繋いでいることを強く意識した。
「あのさ」俺は次の言葉を伝えることに少し躊躇した。
「ん、何かな?」
「永瀬さんは最初からコーヒーをブラックで飲んでた?」俺は先ほど北川の母の店でコーヒーを淹れてもらった光景を思い出していた。
「ううん、最初はミルクもお砂糖も入れて飲んでいたよ」
「そう・・・か」
「でもパパが毎回ブラックで美味しそうにコーヒーを飲んでいて、あるとき試しにブラックコーヒーを飲んでみたの。そうしたらブラックコーヒーの方が美味しいって感じて。それかからコーヒーはブラックで飲むようにしたの」
「偉いなぁ」
「偉い? そんなことはないよ。味覚はその人の自由じゃないかな?」
「俺、前に一度、コーヒーをブラックで飲んでみようと一口飲んだら、酢っぽくて飲めなかった。だからブラックコーヒーを飲める人を尊敬してる」
「尊敬してくれて、ありがとう。でも山口君、その人が美味しいって感じる食べ方、飲み方が一番いいと思うよ」永瀬は手に力を込めた。
「うん、そのうちブラック飲めるようになるかな」
「フフッ、そうだね。味覚は変わるから大丈夫だよ」俺は繋いでいる左手に少しだけ力を込めた。そして西の空を見上げた。彩雲は消えていた。
「あのさ、北川の母さんの店、素敵だって言ったけど、どんなところが良いのかな?」
「えーっと、こじんまりして何か懐かしい感じがして良かったよ。落ち着いた雰囲気を感じた。店の名前『菜々』ってお母さんの。名前でしょう。その名前とお店の雰囲気がよく似合っているね」
「・・・うん」
「んん、どうしたの、山口君。私に何か訊きたいことがあるのかな?」永瀬はまた俺の眼を覗き込んだ。
「いや、永瀬さんがあの店、ホントに気に入ったならいい」
「・・・・・・」永瀬は納得していなかった。
「・・・北川の母親の仕事を良くないって言う奴がいるらしい」
「ふーん、そうなの。でも私は舞ちゃんのお母さんが頑張ってお店をやっていて、舞ちゃんをちゃんと育てているってことは尊敬に値することだと思うよ」
「うん」
「それぞれ、事情があるのにねぇ」珍しくクラスメイトは嘆息した。俺は前を向いている永瀬の白い横顔を見つめた。そして彼女に何かを無性に訊きたかった。だけど俺はいったい何を訊きたかったのか分からなかった。だからその言葉が出なかった。
西の空の茜色も消えかかっていた。
「山口君、舞ちゃんの部屋にはナイチンゲールやヘレンケラーの本があったけど、舞ちゃんは看護に興味があるの?」
「たぶん」
「看護婦さんになりたいのかな?」
「聞いたことないけど、たぶんそうだと思う」
「へぇー偉いなぁ」永瀬はえらく感心していた。それからしばらく俺と永瀬の会話は途切れた。
「幸太郎が、北川の部屋に行ったことがある」
「エッ、そうなの」
「一年の終わりの頃だった。幸太郎はその日、何故か二階の北川の部屋に行きたがった」
「でも階段しかないでしょ?」
「うん、手摺はあるけど階段は広くないし、幸太郎、左足で体を支えられないから、俺も北川も無理だって言ったんだ。だけど、あいつ・・・」
「でも片田君、一人だけで階段を上ったでしょう」
「あっ・・・」俺は帰国子女の聡明さに少し呆れた。
「どうして分かった?」
「彼が匍匐前進みたいな恰好で、階段を少しずつ這い上がったイメージが浮かんだの。片田君がずり落ちないように、山口君、舞ちゃんが彼の後ろ下にいたでしょ?」
「ああっ」今度は本当に彼女の聡明さに呆れた。
「片田君はもの凄いエネルギーを持っている感じがするの。他の人が無理だと言っても『俺はファイターだぁ、チャレンジャーだあ!』って挑戦するタイプじゃないかな」
「永瀬さん、よく分かるな」俺はこれまでこんなに俺の答えと一致する人間に会ったことがなかった。
「でもそれは山口君がいるから、片田君はチャレンジできると思う」
「そうかな」俺の足元の歩道がフワフワと柔らかくなったような感覚があった
気がつけば俺はいつも北川と別れる地点の反対側の歩道にいた。今日初めてこの場所に来て、永瀬と眺める周囲の風景は全く新しいものだった。そしてその空間には未知の怪しささえ秘めているように感じた。
「今日、あそこで私たちは舞ちゃんと別れるはずだったね」永瀬はある種の感慨を込めて呟いた。俺は数時間前に永瀬が言った場所に自分たちがいたことが信じられなかった。それは遠い昔の出来事のようにも思えた。
「送るよ」
「ありがとう・・・」転校生が答えると外灯が点灯し彼女を優しく照らした。




