事務職、遠山美智子のアドバイス
放課後も雨は降り続いていた。空の高いところから落ちてくる雨粒が世界を薄い灰色に塗りつぶしている。
「アレッ?」永瀬は意外な声を発した。
「どうした、水希ちゃん」傘立てから紅い傘を取り出した北川が怪訝そうな顔をした。
「私の傘が・・・ないの」永瀬は傘立てを満遍なく見回している。
「確かにこの傘立てだったよなぁ」北川も永瀬と同じように傘立ての周囲を見渡している。俺は他の傘立てをチェックしたが、あのユニークなデザインの傘は見当たらない。俺たち三人は十分くらいの間、三つの傘立てを見て回ったが永瀬の傘は見つからなかった。
「うーん、ないみたい」エッフェル塔と凱旋門が描かれた傘の持ち主は落胆していた。
「やだな・・・」北川は目の前の傘立てを見ながら呟いた。
「永瀬さん、とりあえず傘の紛失届を出しに職員室に行こう」俺はざらついた胸の感触を抑え込みながら言った。そして自分が折り畳み傘をナップサックのポケットに入れたことに後ろめたさを感じていた。
俺たちは職員室に行き、永瀬は紛失届に記入した。彼女はその用紙を事務職員の遠山美智子に提出した。
「フーン、エッフェル塔と凱旋門が描かれた傘ねえ」肘掛回転椅子に座っている遠山は椅子を回転させ俺たちの方を向いた。そして彼女は永瀬のなくなった傘をイメージしているのか三白眼のような目になった。
「先ほど傘立てに取りに行ったら、その傘がなかったのです」永瀬はやや緊張していた。
「なかなか珍しい傘だけど、エッフェル塔とか大きく描かれているの?」事務職員は杏子色の湯飲みに入っているほうじ茶をすするように飲んだ。
「ハイ、エッフェル塔は赤い色です。黒い傘の生地の六分の一くらいの大きさで描かれています。凱旋門は黄色でその大きさはエッフェル塔と同じく六分の一くらいです」
「フーン、それじゃあ誰かが間違えて持って帰ったというわけじゃなさそうだなぁ」
「そーだよ、ミッチャン。あたしも水希ちゃんの傘見たけど、カッコ良かったよ。あんな素敵なデザインの傘、初めて見た。だから間違えて持って帰るってありえないと思う」北川は何故か目の前の事務職員と仲が良いらしい。
「まあ私から担任の那須先生にはちゃんと伝えておくわ。出てきたらいいけどねぇ」遠山事務員は右手でおかっぱ頭をボリボリと掻いた。
「エッ、ミッチャン、水希ちゃんのカッコイイ傘、やっぱり盗まれたのか?」北川は周囲を見ながら小声で言った。
「舞たちは高校二年生だから言ってもいいけどな。人間ってのは、いろいろいるわけよ。家が裕福でも盗みをする奴とかいるんだ」
「エッ、何で?」
「ある種の精神的特質ですか?」永瀬は探るように訊いた。
「そう。さすが永瀬さん、評判通り聡明だな。一種のビョーキだよ。盗むって行為が快感で止められない奴がいるのさ」
「エーッ、そうなの。ミッチャン、よく知ってるねーっ」
「ふふーん。仕事柄、けっこうそういう情報は入ってくるんだよ。大きな声では言えないけどな」小太りの事務職員はまた湯飲み茶碗に口をつけた。
「それから永瀬さんに一つアドバイス。今回のことは永瀬さんが被害者だけどね、永瀬さん、あなたはなるべくユニークなものを学校に持ってこない方がいいよ」
「・・・・・・」転校生は固い表情だった。
「例えば今回なくなった傘はとてもカラフルなものみたいだね。私も見たかったけど。舞みたいに『カッコイイ!』ていう子もいれば、『なに、アレ、目立っちゃって』と反感を持つ子も残念ながらいるのよ。うちの高校はかなり自由な校風で校則もきつくない。私はそういうところは良いと思っている。だけど『みんな一緒ってのが良い』って形式に拘る子も結構いる。ファッションなんかもそう。だから永瀬さんが当たり前だと思っていたりすることが、一部の子には全く当たり前じゃないって感じていると思う。私の言っていること分かるでしょ?」
「あっ、ハイ」永瀬は遠山の小さい眼を見ながらに答えた。
「永瀬さん、あなたは勿論悪くないよ。だけど、私の言っていることを時々感じているんじゃないかな?」
「エエ、ハイ」永瀬ははっきりと言った。
「永瀬さんにとっては不満なことも多いかもしれないけど、その辺は我慢して上手くやった方がいいよ。まああなたは頭が柔らかそうだし、良い友だちも出来ているから大丈夫だと思うけど」遠山は小さな眼で俺と北山を素早く見た。
「分かりました。アドバイス、ありがとうございました」永瀬は嬉しそうに頭を一度下げた。俺はなぜ永瀬の表情が変化したのか分からない。
「へぇーミッチャンもたまにはマトモなこと言うんだ」北川は不思議そうに目の前に座っている中年女性を見た。
「当たり前だろ。私はこの仕事を十年以上もやっているからね。それより舞、あなたのスカート短すぎることない? 担任に何か言われないの?」事務職員は北川のスカートを見て、それからその短いスカートを得意そうに身に着けている少女の顔を見た。
「松浦っちは何も言わないよ。っていうか、あたしを見ると何か恥ずかしがってるみたいだよ。へへへっ」
「アーッ、松浦先生かぁ。彼は若いし、おとなしいしねぇ。舞、あなた、松浦先生をからかったり苛めたりしてない?」
「してないしてない! あたしは松浦っちの言うことを何でも『ハイ、ハイ』って素直に聞いてるよ」北川はスカートの裾を持って軽やかにステップを踏んだ。
「本当? まあ、いいや。ところで永瀬さん、置き傘があるから、それ使ってく? まだ雨が降っているでしょう」
「ふっふっふっ、ミッチャン分かってないなぁ。今日は水希ちゃん、この山口君と相合傘で帰るんだよ、なっ山口久志君?」北川は両人差し指でツンツンと俺を指さした。
「エッ? アッ・・・あのぅ」俺は北川の言ったことなど全く考えていなかった。
「ほーぉ、それは申し訳なかったなぁ」北川と親しく話している事務職員は少しにやけながら俺を見た。
「い、いや、俺の傘は折り畳みで小さいから濡れるし・・・」
「ププッ、じゃあ山口の傘とあたしの傘を交換しよう。それだったら水希ちゃんは濡れないだろ」北川は悪戯っぽい茶色の瞳で俺を急かしている。
「永瀬さん、置き傘借りる?」この事務職員は意地悪だ。
「いえ、結構です。わたしも舞ちゃんの傘を使うので」永瀬は平然と答えた。
「あっ、そう。分かった。じゃあ永瀬さんの傘の件はちゃんと気にかけておくから」そう言うと遠山事務員は椅子を百八十度回転させてスチールデスクに向かった。俺たちは彼女に挨拶をして職員室を出た。そして靴を履き替え生徒専用出入り口から外を見ると、雨は既に上がっていた。
「ありゃー、水希ちゃん、残念だったね」
「ホント。もう少しだけ雨が降ればよかったのに」永瀬はそう言うと俺を見た。そして彼女は一瞬、自分の傘があった傘立てを灰色がかった瞳で見た。




