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姉の千尋はビールを飲みながら「ビッチェズ・ブリュー」を聴く

「久志君、愛しの遥ちゃんからお電話よ」姉の千尋が含みのある笑みを浮かべて俺の部屋をノックした。俺はラジオカセットレコーダーの電源を切った。それから二階の階段を下りて、玄関にあるアイボリーのプッシュホンの受話器を取った。

「もしもし」

「もしもし、こんばんは山口君。麻倉です。ごめんね、こんな時間に」生徒会長のやや硬質な声が受話器から聞こえた。

「いや、別に・・・。どうした?」

「今日、拓海から舞がかなり落ち込んでいるって聞いたから心配になって。今日の放課後、舞と一緒に帰ったかな? 山口君」受話器から聞こえる麻倉の声は淡々としていたが冷たい響きはなかった

「ああ、幸太郎と三人で帰った」。

「舞は先週の金曜日、お父さんと会ったのでしょう?」

「うん、その時に北川、父親から二人目の子どもができたって聞いたんだ。えっと・・・北川はそれまで父親に子どもがいるってこと、知らなかったみたいで。凄くショックを受けたって。それで北川、落ち込んでた」俺は相手が麻倉だと何故か言葉が滑らかに出てしまう。

「そうなの・・・。それは舞、とてもショックだったよね」

「ああっ、北川、幸太郎の手を額に付けて泣いていた。そのあと、だいぶスッキリしたって言ってたけど」

「そうだったの・・・。舞もあなたたち二人なら、安心して話せるし心の内も晒せると思う」

「そうか・・・」俺は照れてしまった。そして少し考えた。

「あのさ、麻倉」

「ん、何かな?」

「北川が父親と会ってから、自分が母子家庭で、それから小料理屋の娘だってことをかなり意識するようになったって言ってた」

「それは周りと違うってことかな、あまり良くない意味で」

「うん、そうだ。北川は車椅子の幸太郎もそうだし、永瀬さんも違う目で周囲から見られてるんじゃないかって心配していた」

「舞がそんなこと言っていたの? それは辛いなぁ。山口君、あなたは舞や片田君たちを周囲とは違うとは思っていないでしょ」

「うーん、そう言われればそうかもしれないけど、よく分からない」

「フフッ、あなたらしいわね」

「そうか・・・」

「山口君みたいに自分の価値観を持っている人は殆どいないと思うわ」

「・・・よく分からないけど」

「そうでしょうねぇ」麻倉は微笑んでいるように思えた。俺はしばらく受話器に耳を付けて聡明な生徒会長の言葉を待った。

「山口君、今週の土曜日の昼から例のメンバーで遊びに行かない? テスト前だけど」

「ああ、そうだな」北川を励ますためだと思った。

「それから、あなたのお隣の席のキュートなバイリンガールもね」

「エッ! 何で?」俺は動揺した。

「だって男子三人と女子三人の方がバランスがいいでしょ?」

「あっ、ああ・・・」

「私からみんなに声かけておくから。山口君も永瀬さんにお声かけをしてね。それから何処に行きたいのかも訊いてくれる?」

「エッ、あっ」

「フフッ、山口君、大丈夫よ、大丈夫。いろいろありがとう。じゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」麻倉は俺の愛想のない声を聞いても電話を切らなかった。俺の脳裏にはいろんな人間の顔が浮かんできた。そして俺は手元に受話器があることに気づいた。俺は麻倉が最後に言った言葉を思い返しながら受話器をフックスイッチに置いた。そして階段を上がり自分の部屋に戻った。

「ヤッホー」俺の部屋のベッドに緑色のジャージ姿の千尋が腰かけ缶ビールを美味しそうに飲んでいた。

「久志君、愛しい遥ちゃんからデートのお誘い?」姉は高校生の時から飲酒している。

「毎日、よくビールが飲めるな」俺は机の椅子に座りカセットテープレコーダーのスイッチを入れた。マイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」の入り組んだ音が流れる。

「フフーン、久志君、お酒は文化なのよ、分かるかな? 私が考古学を勉強しているのはこの国の文化を知りたいから。お酒を飲むのもこの国の文化を知るためなのよ」

「ビールは日本発祥じゃないだろ」

「あら、文化は時代と共に変わっていくものよ。日本のビールを飲むことは日本を理解することでもあるのよ」姉はそう言って缶ビールを煽った。

「ハイハイ」俺はマイルス・デイヴィスの音に集中しようとした。

「ところでさっきの遥ちゃんからの電話で良いことがあったの? 彼女とデートするんでしょ?」酒好きの大学生は缶ビールを頬に当てながら探るような眼をしている。

「別に」

「今度の土曜日にどっか行くのかな?」俺の姉は地獄耳かと思った。

「うるさいな。それに麻倉とはただの友達だし」

「ほーお、ただの友達がこんな時間に電話かけてくるのかな?」

「知らないよ。俺だって何で麻倉が電話かけてくるか分からないし」

「へぇーそうなの。まあ遥ちゃんはそこいらのアイドルよりもずっと綺麗だから、彼女にアタックする男子も多いだろうしねぇ。カッコいい彼氏がいてもおかしくないのに。うーん、なぜ彼女が久志君に電話をするのか謎ではある」

「・・・・・・」姉は何を言いたいのか?

「ところで久志君、面白い曲聴いているね。これ、なーんだ」姉は左手にカセットテープが入った水色紙袋をぶら下げて見せた。

「止めてくれる」俺は少し怒りが湧いた。

「遥ちゃんからのプレゼントかな? でも彼女とはイメージが違うようだし」

「クラスの友達から借りたんだ」

「フーン。高校生でマイルス・デイヴィス聴くとはいい趣味しているね、その子」姉はそう言うと青い紙袋を俺に返した。そしてビールを一口飲んだ。

「なあ、姉さん」

「ん?」姉はビッチェズ・ブリューを聴いていたのか体をゆっくり揺らしていた。

「由美さんは幸太郎のことで何か言ったことあるのかな?」

「うん? 何かって」千尋の頬は少し紅くなっている。

「愚痴っていうか文句みたいなこと」

「うーん、そういうことは聞いたことないな。幸太郎君がやんちゃで困るとは言っていたけど悪い意味じゃないと思う。由美は家族思いだし」

「そうだよな」俺は姉の言葉に安堵した。

「何かあったの? アッ、ちょっと待って」酒好きの女子大生は缶ビールが空になったので、台所に下りて行った。そしてトントントンと軽やかな音が近づき俺の部屋のドアが開いた。

「ウエーイ」緑色のジャージ姿の千尋は右手に持っている缶ビールを掲げて俺のベッドに腰を下ろした。俺は真面目な話を少し酔っている姉にしてよいか若干躊躇した。

「訊きたいことは何?」姉は二つ目の缶ビールのプルタブを引っ張り、飲み口に淡いピンクの唇をつけた。俺は千尋が一口ビールを飲み込むのを待った。

「ハァー」彼女は満足そうに息を吐いた。

「幸太郎、車椅子を使ってるだろ。それから左半身も不自由だし。見た目が違うからおばさんや由美さんはいろいろ言われたてきたのかな?」

「まあ面と向かってはそんなに言われなかったと思うけど・・・」饒舌な姉が言い淀んだ。

「・・・うん」俺は何かを言おうとして逡巡している姉の顔を見た。

「陰では結構ひどい話もあったそうよ、由美から聞いたけど。例えば先祖の行いが悪いので、幸太郎君があんな体で生まれてきたとか。具体的には幸太郎君のおじいちゃんが結構暴れん坊でよく警察沙汰になったから幸太郎君があんな風になったとか。まあそんなこと」

「そんなこと言われたのか」

「うん、まあ根も葉もない下らない話だよ。まったくバカげた話だけど、そういうことを言う人間はいるよ、久志君」姉は機械的にビールを飲んだ。

「うん」俺は頷いた。

「幸太郎君ほどじゃないけど、私だって考古学やっていると結構変な目で見られる時があるよ。女子学生は遺跡の穴掘りなんかしないで、簿記とか資格とって、料理ができてお茶とか習っていた方がいいとか言う奴がいるんだ」

「そんなこと言われてどうだった?」

「そいつに回し蹴り喰らわせてやろうかと思った」

「やったら良かったのに」

「やったらスッキリするかもしれないけど、問題は解決しないでしょ」

「確かに」

「久志君、常識は怖いよ」千尋は何かを回想するように呟いた。俺の胸の中には姉の言っていることを否定できない感覚があった。その感覚を逸らすように俺はベッドに座っている姉を見た。姉の千尋は「フン、フン、フーン」とリズムを取りながらビールを美味しそうに飲んでいる。すると今日の昼休み、転校生の少女が声を出さずに「またね」と言って微笑んでいる姿が脳裏に浮かんできた。マイルス・デイヴィスのトランペットの音が遠くから聴こえてきた。その音は雑踏の中を迷っている俺を何処かへ導いてくれる、そんな音かもしれなかった。



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