26.お見舞い
特に異常が起きる事なく、予定通り翌日曜日には退院できた。
だが、週が明けた月曜の学校は、風邪を引いたと仮病を使って休ませてもらった。
過去のトラウマが刺激されたせいで、人に会うのが怖くなってしまったためだ。
あの時周りから向けられた射るような冷たい視線──。
それは、その感覚と共に、記憶に刻み込まれている。
忌々しい事に。
振り払おうとしても、蔦のように絡まり俺を縛り付けるのだ。
俺の痛みに満ちた世界は、そういった過去の傷によって形成された。
ここ暫くは忘れられたような気もしていたが、やはり俺は、その呪いからは逃れられない宿命なのだろう。
──せっかく最近はネガティブさも薄れてきて、それなりに上手くやれてると思ってたのに、これじゃあ三年前に逆戻りだな······。
ベッドに仰向けに横たわって、ぼーっと天井を眺めながら、自嘲気味に心の中で呟き漏らす。
すり硝子越しに見る景色みたいに、思考がぼんやりとしている。
朝から食欲がなく、何も口に入れないまま、ただ数回ミネラルウォーターで喉の渇きを潤すだけして、何もする事なく怠惰に過ごしていた。
今ばかりは、好きな音楽を流す気にもなれない。
ただ、沈んだ気持ちを引っ掻くだけだろう。
ふと枕元の置き時計に目をやると、既に午後四時を回っている。
このまま何も食べずにいる訳にもいかない。
──とりあえず、何か軽い物でも食べて、それを夕食代わりにしよう⋯⋯。
そう考え、怠さを感じつつベッドから降りた時──。
──ピンポーン♪
玄関の呼び鈴が鳴った。
──誰だよ······今は人に会いたくないってのに······。
憂鬱な気持ちになりながら、重い足取りで玄関までいき、顰めっ面を作りながら、ガチャリとドアを開けた。
「やあ」
そこには、雪代がいた。
学校の制服のままで、彼女がよく向けてくる悪戯っぽい笑みを浮かべていて、手にはビニール袋を提げている。
「どう? 驚いたでしょ? ドッキリ大成功かな」
「······何しにきたんだ?」
俺が訝しげに問うと、雪代は手にしたビニール袋を掲げて見せた。
「お見舞い。風邪引いたって事だったからね。コンビニでスポドリとかゼリー飲料とかを適当に買ってきたよ」
「そうか。とりあえず、上がってくれ。スリッパはないからそのままで」
「うん。お邪魔します」
雪代はローファーを脱ぐと、いつもの白いニーハイソックスを履いた足で床を踏みながら、俺の後に続いてリビングに入った。
「そのソファにでも座ってくれ」
促されて、雪代が部屋の中央に置かれたソファに座り、俺はベッドに腰掛けた。
「へぇ、清潔感のある部屋だね。男の一人住まいなんて、もっとごちゃごちゃしてるかと思ってた。きちんと小まめに掃除出来るなんて、偉いね」
感心しながら視線を巡らせる雪代。
「綺麗にしてないと、美作先生が煩いんだよ」
「そう言えば、君の叔母になるんだっけ?」
「ああ。それでたまに抜き打ちチェックにくるんだ。小姑みたいだろ? まぁそれは俺の料理にありつくための口実だろうけどな」
「君の料理の腕は林間学校の時に見せてもらったからね。私も、君が作ったカレー以外の料理を食べてみたいなぁ」
「その内、気が向いたらな」
「約束だよ。言質は取ったからね」
と、ビシリと人差し指を突き付けながら。
「それより、見舞いにきたんじゃなかったのか?」
「あぁそうだったね。この中の物、適当に取っていいよ。風邪なら、固形物よりこういう物の方がいいでしょ。熱のせいで汗かいてるなら、スポドリで水分補給」
言いながら、ローテーブルの上に置いたそれを広げて見せた。
「ああ、助かるよ」
「でも君、見た感じ結構元気そうだね。もう身体の具合いは良くなったの?」
問われた俺は、本当の事を明かすかどうか躊躇った。
呆れられたら──。
軽蔑されたら──。
拒絶されたら──。
頭の中に、嫌な言葉ばかりが浮かび、心臓がぎゅっと握り締められたように苦しくなる。
が、数瞬の葛藤の後、彼女に対して嘘は吐きたくないと、意を決して事実を話す事にした。
「······実は、風邪を引いたっていうのは嘘なんだ」
「嘘? なんで仮病を使ってまで学校を休もうとしたの?」
不思議そうに首を傾げる雪代。
「先週の土曜日に、俺の地元で亡くなった祖父さんの七回忌があるって事は事前に伝えておいたよな」
「うん。そういう事だったね」
「法事については問題なく終わったんだけど、その後の家族でいったファミレスで食事会をしている時に、ちょっとショックを受ける事があったんだよ」
俺がそう告げると、雪代は深刻そうな顔になり、敢えてぼかして伝えた事の核心に触れてきた。
「······それってもしかして、君の内面をそんな風に歪にさせた原因に関する事?」
「······それは······否、でも······」
俺が逡巡しつつ言い淀んでいると、雪代はさらに語気を強めて続けた。
「以前私は君の内面を歪だと表現したけれど、それだけじゃなく、その片隅には、燃え盛る炎のような情熱と、蒼穹のような澄み切った清らかさも内包している。緋色と蒼色をその名前にあわせ持つ君に相応しく、ね。本来の君は、そう言ったポジティブな面が大部分を占めた人間だったんじゃないかな。だけど、それを歪ませてしまう出来事が起きてしまった」
そこまで一気に語ると、そこで彼女は一旦言葉を切り、自分を落ち着かせるように一つ深呼吸をした。
そうしてから、その黒目がちなアーモンドアイに包み込むような優しさを宿らせて、再び口を開く。
「ねぇ、よければその出来事がどんなものだったのかを、私に聞かせてくれない?」
喉の奥が、ゴクリと大きく鳴った。
厚く閉ざされていた扉が、彼女の慈愛に満ちたノックで内側からゆっくりと開いていく──。




