プロローグ~第2章
2025年、沿岸南西域と呼ばれる街に、封鎖の予兆が忍び寄りました。
行政が沈黙する中、数字だけが淡々と増え、やがて人の存在さえ統計に置き換えられていく。
この物語は、黒血熱という名前の感染症を描きながら、同時に「記録すること」と「忘れられること」の狭間を見つめています。
もしあなたが、この先の物語を読み進めるとき、どこかに既視感を覚えるなら――
それは偶然ではないかもしれません。
ひとつの街が消えていく過程を、この序章からそっと目を向けていただけたらと思います。
黒い八月 —封印予言の夏—
プロローグ
2025年の夏。
沿岸南西域の街は、例年より短い梅雨を終えたばかりだった。
灼けるような湿気と、どこか焦げたような空気が街路を這っていた。
だが、その暑さよりも、人々の心を苛むものがあった。
あの映像記録が再び拡散を始めたのは、八月の最初の週だった。
五年前――2020年の秋に、凍鷺夢生が残した告発の記録。
当時は荒唐無稽な陰謀論と片付けられ、すぐに検閲で消されていった。
だが年月が過ぎるほど、その映像に記された数字が現実に重なりはじめていた。
夜澄エレナは、その断片を幾度も再生していた。
画面に映る男の声は、奇妙に淡々としていた。
「黒い八月が来る」
「十三日目に兆しが現れる」
「この街は、数字の中で終わる」
当時は誰も本気にしなかった。
だが、2025年の夏の始まりとともに、封鎖区域の第一報が届いた。
沿岸南西域の複数の病院が一斉に患者搬入を停止し、隔離措置が施される。
正午の行政放送は、「新型出血熱の疑い」とだけ告げて終わった。
それが凍鷺の言った「黒血熱」なのか、誰も確証を持てないまま、ただ怯えていた。
封鎖区域の外では、テレビが繰り返し同じ言葉を流していた。
「感染拡大は確認されていません」
「予防措置として一時的に制限を行います」
「落ち着いて行動してください」
だが、夜になると、赤い標識と警告灯が一軒一軒の玄関に立てられた。
朝には、通りを歩く人影は半分に減っていた。
それは予言のようでいて、むしろ予定表に沿った進行に思えた。
「黒い八月」――。
あの言葉は、過去の記録ではなく、いま進行中の出来事だった。
エレナは端末を握りしめた。
この夏を終わらせるのは、感染の収束ではなく、記録を残すことだと知っていた。
数字に置き換えられ、忘却される前に。
彼女はまだ知らなかった。
この街が、本当に終わるのは、これから十三日目を越えた先だということを。
第1章 兆し
第1節 隔離室
封鎖発表からわずか数時間が経っただけで、街の空気は一変した。
人々は外出を控え、通りにはひっそりとした沈黙が降りていた。
けれどその沈黙の奥で、確かに何かが動き始めていた。
最初の患者が隔離搬送されるとき、その気配は誰の目にも隠せなかった。
ガラス越しの視界は、薄い霧に包まれていた。
夜半を過ぎても気温は下がらず、廊下の空調は悲鳴のような音を立てていた。
隔離室の向こう、白い照明に照らされた簡易ベッドの上で、一人の男が荒い息を繰り返している。
彼の名は記録に残されない。
沿岸南西域の貨物港で働く労務者だったことだけがわかっている。
最初は微熱だった。
四日目には全身の倦怠が強まり、五日目に血液検査で異常値が検出された。
だが、そのとき既に、輸送ルートを経由して複数の市場や集荷倉庫を往来していた。
正体の知れない病は、いつのまにか小さな水脈のように広がり始めていた。
「血圧、六十台まで低下。呼吸数、二十四。」
当直医の声は掠れていた。
白衣の胸ポケットには黒いカードが差し込まれている。
衛生庁 第二感染局の認証票だ。
この街に封鎖指令が出たことを、今も表向きには誰も知らない。
看護師が視線を落としたまま、点滴の確認をする。
その手が微かに震えていた。
隔離室の壁に設置された監視モニターには、男の血中酸素濃度が赤い数字で表示されている。
八十八、八十五、八十三。
警告音が短く鳴った。
それは遠雷のように鈍く響き、室内に沈殿した緊張をいっそう深くする。
「まだ……」
医師が言いかけて、言葉を飲み込む。
この症状はもう何例目だろう。
だが、正式な報告は一度も行われていない。
感染者数も、死者数も、全て封じ込められている。
廊下の端に立つ人物に、エレナは目を向けた。
薄い防護服に覆われた背の高い男。
天上ユキヤ――衛生庁の特別監視官。
白いマスクの奥に感情は読み取れなかった。
「この患者は……」
エレナが低い声で問いかけると、ユキヤはゆっくり首を横に振った。
その仕草だけが、何もかもが手遅れであることを物語っていた。
その夜、隔離室で記録用端末の電源が落ちる直前、微かな血の匂いが漂った。
誰も何も言わなかった。
ただ、心の奥でわかっていた。
これが最初ではなく、最後でもないと。
病院の屋上には、夏の夜気に揺れる看板があった。
蛍光灯の一部は切れかけ、かすかな明滅を繰り返していた。
その光を見つめながら、エレナはふと、数年前に見た映像を思い出す。
――黒い八月が来る。
凍鷺夢生の声が、時間を越えて胸に蘇った。
――十三日目には兆しが現れる。
あの男の言葉は、ただの妄想ではなかったのかもしれない。
いや、むしろ現実のほうが、あの予言に追いつこうとしているのではないか。
廊下を吹き抜ける熱い空気に混じって、どこかで電子音が鳴った。
誰かの通信端末が震えている。
それは新たな患者の搬送を告げる合図だった。
第2節 最後の記録
午前二時を過ぎた頃、廊下の非常灯が一度だけ明滅した。
停電の予兆のように、空調の音が一瞬止まり、すぐに復旧した。
けれど、何もかもが薄氷の上に乗っているようだった。
その脆さを、全員が無言で悟っていた。
夜澄エレナは、薄い防護ガウンの胸元に手を差し入れた。
そこに収めている小さなメモリデバイスの感触を確かめる。
凍鷺夢生の記録が収められた、最後の断片。
いくつもの検閲を潜り抜け、匿名掲示板に流出した数分の映像と音声。
彼女は何百回も再生し、その言葉を暗記するほどに繰り返し聴いた。
もう一度だけ、確認しておきたい。
震える手で端末を起動する。
画面には暗い部屋の像が映る。
顔はフードで覆われ、声は機械的に歪められていた。
「これが、最後の記録になるだろう。」
凍鷺夢生の声は、いつもより低くかすれていた。
「黒い八月が来る。
沿岸南西域から始まる。
十三日目には兆しが現れる。
それを否定する者は、最初に失う。
感染が先か、沈黙が先か。
どちらでも同じだ。」
モニターの片隅で赤い文字が点滅した。
【再生ファイルは不完全です】
何度修復しても、残りの数秒だけが回復しなかった。
「検索しろ――」
一拍、沈黙。
「“黒血熱 沿岸南西域 衛生庁 第二感染局”。
お前たちは、そこで答えを見つけるだろう。
だが、それを知った者はもう、何も戻せない。」
映像が切れる。
最後に微かなノイズだけが残った。
それは金属の擦れる音のようでもあり、遠くの警報のようでもあった。
エレナは端末をそっと胸に戻す。
背後で、天上ユキヤが立ち去ろうとする気配がした。
「待って。」
振り向いた彼に、問いかけようとした。
“この病は本当に偶然なのか”と。
だが言葉にならなかった。
視線を交わす一瞬のあいだに、何もかもが通じてしまった気がする。
恐怖と、諦めと、わずかな希望。
そのどれもが、ここから先の長い夜を照らすにはあまりに頼りなかった。
彼女は思った。
これからどれだけの人が同じ映像を、同じ声を胸に刻むのだろう。
そして、何人がそれを「予言」ではなく「設計図」だと感じるのだろう。
廊下の奥で扉が閉まった音がした。
真夜中の病院は、異様なほど静かだった。
だが、静寂の底に、確かに何かが動き出していた。
第2章 空白
第1節 封鎖線
午前四時。
防護服の集団が、病院の正面玄関に静かに集まっていた。
その様子を、夜澄エレナは通用口の奥から息を潜めて見つめていた。
街がまだ眠りの中にあるその時間に、運ばれてくる金属製の支柱と黒いテープ。
それは明らかに、臨時の封鎖線を張るためのものだった。
赤い文字で【検疫区域】と印刷された布が、ひらひらと夜風に揺れている。
「もう始まってる……」
自分の声がかすれていた。
正式な宣言も報道も何もない。
だが、あの旗が立てられるとき、街は“空白”になる。
そこに住む人々の存在は、一時的に統計からも記録からも消える。
何が起きているか、外に向けて言葉を持つ者は誰もいなくなる。
数日前、衛生庁の公式広報は「感染症の事実は確認されていない」と断言した。
その同じ建物の裏口から、第二感染局の監視チームが次々に出入りしていた。
医師や看護師たちが、言葉を交わさぬまま防護服を着込む姿を、エレナは何度も見た。
それを目撃した誰もが、口を閉ざした。
誰かが廊下を駆けてくる足音がした。
通用口から背の高い男が入ってくる。
天上ユキヤだった。
薄いゴーグルの奥に、どこか焦燥を隠しきれない目があった。
「ここにはもう入るな。」
低い声が、廊下に沈んだ空気を裂いた。
「……取材です。何が起きているのか、記録しなければ。」
エレナの言葉に、ユキヤは首を横に振る。
「ここに立っているだけで、すぐに名前が記録される。
君が今持っている端末もだ。」
小さく息を吐き、彼は視線を落とした。
その手には一枚のカードが握られていた。
黒地に銀の紋章が刻まれた特別許可証。
感染区域で行動する権限を示すもの。
だが、それは同時に沈黙を強いる契約でもあった。
「君の知っていることは、もう誰にも届かない。」
その言葉を、エレナは拒むことができなかった。
階段の奥で、封鎖線を運ぶ人々の影が伸びていく。
防護服の白さが、夜の廊下を異様に照らしていた。
ふと、端末の画面が揺れた。
暗号化された通信ログ。
そこにひとつ、見慣れない差出人があった。
【審問者】
その名を、エレナは一度だけ聞いたことがあった。
――凍鷺夢生に、封印ファイルを送ったとされる人物。
呼吸が浅くなる。
画面を開く指が震えた。
何かが迫っている。
それは、検疫線の内側で息を潜めるウイルスだけではない。
もっと巨大で、冷たい何かだった。
第2節 報じられない記事
明け方。
街を覆っていた暗い湿気が、ゆっくりと灰色に変わりはじめた。
だがその変化は、何ひとつ好転の兆しではなかった。
封鎖線の外側に立つ人々は、ただ遠巻きに病院を見つめ、何が起きているのか知ろうともしなかった。
もしくは知ってしまうことを、恐れていた。
夜澄エレナは病院裏手の駐車場に止めた車の後部座席で、ノートパソコンを広げていた。
画面には記事の原稿が開いていた。
黒血熱という単語を最初に入力したとき、文字がどこか硬質な質感を放った。
それは単なる病名ではなく、何かを告発する暗号のようだった。
「沿岸南西域において、原因不明の感染症による隔離措置が非公式に実施されている。
複数の医療関係者が匿名で証言した内容によれば、感染の症状は出血性を伴い、
既知のウイルスとは異なる進行を示す。
衛生庁第二感染局は問い合わせに対し、いかなる情報も公表できないと回答した。」
行を送るたび、鼓動が強くなる。
何十本も記事を書いてきたが、こんな感覚は初めてだった。
書きながら、どこかでわかっていた。
この原稿は公開されない。
だが、書かなければならなかった。
封鎖線の向こうにいる人々が、数字ではなく名前を持つ存在であることを、何かの形で残したかった。
送信先は全国紙のオンライン編集部。
いつもなら深夜でも即座に返信が来る。
だが今回は、送信確認の表示だけが無機質に画面を照らし、何分経っても応答はなかった。
エレナは一度目を閉じる。
脳裏に、凍鷺夢生の声が再び蘇る。
――これが、最後の記録になるだろう。
なぜ、あのとき彼は“最後”と告げたのか。
あの警告は、単なる予言ではなく、この街が進む運命を知っていた者の告白ではなかったのか。
車外で足音がした。
誰かが封鎖区域を歩いている。
防護服もなく、ただの市役所の職員のように見えた。
彼は看板に貼られた赤い布を何度も確認し、ノートに何かを書き込んでいた。
少しでも情報がほしかった。
何を記録しているのか知りたかった。
だが車を降りる勇気は出なかった。
ノートパソコンの画面が唐突に暗くなった。
通信が切れたのだ。
端末の右下に、接続不可を示す赤い表示が点滅している。
焦って再接続を試みる。
数秒後、通知がひとつだけ届いた。
【お知らせ】
「本アカウントの発信内容について、確認が完了するまで公開を停止いたします。」
その一行を見た瞬間、背中が冷たくなった。
何度も、何度も、再送信を試みた。
だが同じ通知が繰り返し表示されるだけだった。
“報じられない”。
その言葉の意味を、ようやく全身で理解した気がした。
封鎖線の向こうから、救急車のサイレンが一度だけ短く響いた。
それは誰かの命が終わる合図のように、空に溶けていった。
エレナは目を閉じた。
そして、もう一度だけ記事を開き、そっと指を置いた。
何度でも書く。
何度消されても、残す。
それが、たった一人でも未来に届くなら――。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
感染症の恐怖や封鎖の静寂、その中で何を記録するのか、何を諦めるのか。
この物語の始まりは、予言めいた声と小さな数字からでした。
けれど、もしかしたら最も恐ろしいのは、すべてが「既に決められていた計画」だと知ることかもしれません。
まだ物語は序盤です。
十三日目を越えた先に、何が待っているのか。
エレナたちが辿り着く真実を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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