第六章:世界の片隅でも、ちゃんと確かに(その一)
学校からの帰り道、着ている制服を見ると、おそらく高校の頃だ。
これは、夢だな、と直感的に思う。
冬の時期で、既に辺りは暗く、古めの街灯の明かりと、爛々と輝く満月の明かりが視界を照らしている。
まだ空の低い位置にある時の満月の大きさにはいつも驚く。
月までの距離は約38万kmで、低い位置にあろうと、高い位置にあろうと、見える大きさはそう変わらないという。
だが、どういうわけか、大きく見える。
宇宙は不思議だな、と思う。いや、不思議なのは、どっちかというと人体の方か。
空気の澄んだ冬の季節は、特に大きく見える。
ここから見える月と、自分の間には何もない。
だけど果てしなく遠い。
あの誰もいない場所に、いつかは・・・、と思うこともあるが、そんな日は永遠に来ないだろう。
残念ながら。
自分はもうとっくの昔に高校を卒業している。
それなのに、制服を着て、ここに立っているということは、これは夢なのだろう。
視界には少し靄がかかっている。
“明晰夢”のように自由に動けるというわけではなく、過去を追体験しているような・・・、映画、あるいは、見たことはないけれど、走馬灯を見ているかのような。
そんな感じに近い。
今までもこんな感じの、自分が夢を見ていると理解している状態で夢を見ることはあったが、そういう場合は大体、嫌な記憶で、起きた時には大量の汗をかいている。
寝起きも悪い。
高校からの帰り道の夢を見るのは初めてだと思う。
最寄り駅で電車を降りてから、徒歩で家へと向かう途中の道。
嫌な記憶は、特にないように思う。
ちょうど、”大きめ”といっても、車がギリギリすれ違えるぐらいの広さの通りから、ギリギリ車1台分あるかないか、と言ったぐらいの裏道に入ったところで、踏切に足止めを喰らう。
この半音でぶつかる踏切の警告音は確かに少し嫌な感じがするが、夢にまで見る程の嫌な思い出ではない。
通過する列車の音を、耳を塞いでやり過ごす。
踏切が開いて、また歩き出す。踏切の先には、トタンで造られた古い家が並んでいる。
空き家もあれば、未だに人が住んでいる家もある。
少し進むと、モダンな新しい家が現れてくる。
ふっ、と1匹の黒猫が前を横切る。
首輪はついていない。
モダンで、まだ新しいその家を通り過ぎると、今はもう使われていない古いアパートがある。
先ほど見た黒猫は、そのアパート前の小さなコンクリのスペースに、たまに座っている。
ゆっくり歩いて行くと、やはりそこに居た。
月の明かりと同じ色の目を、まるい月に向けて、座っていた。
隣に腰を下ろす。
猫は私を一瞥した後、再び視線を戻し、夜空を眺める。
逆の日もある。
私が先にそこのスペースに座っていて、いつの間にか隣にその黒猫が座っている。
少し手を伸ばせば触れられる距離、一歩近づけば身を寄せ合える距離に居る。
だが、お互い、そうはしない。
こんな寒い日は、抱っこすれば温かいだろうなぁ、と思う。
組んだ足と、そこに下ろされた両腕の中に入れば温かいだろうなぁ、と思う。
・・・夢の中だと、なぜか自分が猫の方であったようにも思えてくる。
それぐらいの距離にはいたのだろう。
特に何かをしたり、話したりするといったことはない。
ただただ、隣で座っている。
しばらく時間を潰してから、カバンを持って立ち上がる。
帰るのは、たいてい自分のほうが早い。
もちろん、別れの挨拶もしない。
そう考えると、2人(あるいは2匹)で夜空を見ていたのではなく、
1人と1匹が、それぞれ、同じ場所で、別々に夜空を眺めていたと言った方がしっくりくるかもしれない。
それぐらいの距離だったようにも思う。
その黒猫とは、高校を卒業して以来、会っていない。
気にならないと言えば嘘になるが、お互い、自分から相手を探しに行くような、そういう関係でもなかった。
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私たちは、国を縦断するマザーロードの各地を周り、今までに、5つの”部品”を回収した。
“部品”とは、伝説のバイクを構成する部品であるらしく、かつて分割して保管する取り決めがなされたらしい。
“部品”は全部で6つあり、全てを揃えると何かが起きるらしい。
最後の部品は、マザーロード南端のバイク協会支部で、副会長によって保管されていて、今は、そこまで1~2日で到達できるぐらいの距離にいる。
まさみ「私としては、明日の早朝にここを出発し、夕方ごろに最南端支部に到達。そこで一泊し、翌朝、フェリーで一気に帰宅する。というのが理想的だと思うんですが、いかがでしょう?」
ライダーズハウス2階の女性部屋、マザーロード最北端付近から部品集めの旅を共にした、友人の”ゆい”とともに、明日の予定を立てる。
ゆい「え?うーん・・・そうだなぁ」
ベランダで夜風に当たっていた彼女から生返事がとどく。
ゆい「一気に行っちゃう感じ?」
まさみ「ええ、ラストスパートをかけようかと。どこか寄りたいところでもありましたか?」
ゆい「うーん・・・、大丈夫。じゃあ、それで行こっか」
まさみ「はい」
開いていた手帳のカレンダーに目を落とす。
それなりに長い間、旅をしている。
留守番をしている”師匠”とは、こまめに連絡を取り合っているが、そろそろ、家のことが心配になってくる頃だ。
ゆい「まーちゃんさ、前に言ってた記憶がないぐらいの小さい頃・・・、猫だったりしない?」
まさみ「へ?」
あまりに頓珍漢な質問に、素っ頓狂な声をあげてしまう。
ゆい「昔、まーちゃんに似てる猫が居たんだよね。たまに会うぐらいだったんだけど」
まさみ「昔というと、どのくらい前の・・・?」
ゆい「んーと、高校の頃だから、5~6年前ぐらい?」
まさみ「いや、その頃はもう私、記憶ありますし」
ゆい「あ、そっかあ・・・」
気の抜けた返事が返ってくる。
ベランダの方を見てみると、
彼女は、欠けた月をぼんやりと眺めていた。
・・・・・・
・・・
・・・
まさみ「じゃあ、電気消しますよ」
ゆい「うん」
この、紐が垂れているタイプの明かりを見るのは久しぶりだ。
電気の紐を引っ張る。
カチッ、カチッ。
一度引っ張ると、明かりはオレンジ色の豆電球に変わり、
もう一度引っ張ると、完全に消灯した。
部屋の中央あたり、二つ敷かれた布団の左側に入る。
他に誰もいなくて、部屋が広く使えるのはいいが、布団は薄くて、寝心地はあまり良くない。
それでも寝袋よりは良い。
長かった旅も、もう終わる。
そう考えると、少し感慨深い。
“世界を救う”とか、漫画やアニメのような大冒険ではなかったが、なんとなく達成感がある。
心残りがあるとすれば、隣に眠る彼女のことだ。
彼女は、自分探しのために旅に出たはずだったが、その目的は達成されただろうか。
正直なところ、彼女の考えていることはあまりわからない。
長い時間を共にはしてきたが、彼女は感情を表に出さないタイプだと思う。
私も感情は外に出ないタイプの人間ではあるが、そういう感じではなく・・・。
笑ったり、呆れたり、あまりないけど、怒ったり、そんな表情を見せることはあったが、それはおそらく本心からのものではなく、意思表示というコミュニケーションツールの一つであるような感じがしていた。
彼女の本心に触れたような気がしたのは、この長い旅の中でたった2回だけ。
彼女の曲、特にシーケンサーに入っていたデモ曲を聴いた時と、3つ目の”部品”を手に入れた山を降りる時。
その2回だけだ。
彼女も彼女で、一緒にいる時間を楽しんでいたとは思う。
でも、その裏で何か悩んでいたようにも思う。
“自分探しの旅”というのだから、これからのことを考えていたのだとは思うが、それよりもっと大きな・・・。
その悩みや、彼女の本心に触れたいという気持ちはあったが、
踏み込むと、その分離れてしまう。
そんな気もして、手を伸ばすことはしなかった。
これでよかったのかな、と達成感の裏でそう思ってしまう自分もいた。
・・・・・・
・・・
・・・
・・・おでこに何かが触れた気がする。
うーん・・・、まだ眠い。アラームは鳴っていない。まだ夜明け前だろう。
横になったまま少しだけ目を開ける。
窓の外はまだ暗い。薄く月明かりが差し込んでいる。
窓が開いていて、白くて薄いカーテンが風で揺れている。
その斜め前には、スタンドに立てられたアコースティックギターが置かれていて、ひらひらとカーテンが揺れるたび、優しく触れている。
アコースティックギターの弦やボディが、月の明かりを反射してきらきらと輝いている。
昨日、触った時は結構錆びていたと思うが・・・。
ボディも手垢で汚れていた気がする。
まるで新品のように手入れされたそのギターには、傍でなびくカーテンと相まって、どこかへ嫁ごうとする花嫁かのように、美しさと寂しさが重なって見えた。