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第二章 きしむ床、近づく距離

彼とは深く関わらない。そう決めたはずだった。私の部屋はリビングの奥にあり、トイレや風呂へ行くには必ずリビングを通らなければならない。その動線が、私の決意を脆くも崩していくことになるとは、その時は思ってもみなかった。


最初の数日は、挨拶を交わす程度だった。夜、課題を終えて風呂に向かう時間帯、大抵、日付が変わる頃に、リビングの古い椅子で彼が本を読んだり、スマホをいじったりしている。あるいは午前中、私が遅めのブランチをとっていると、寝癖頭の彼がキッチンに現れる。そんな時、ぎこちない会釈だけを交わしていた。


そのシェアハウスにはすみれさんという30代後半の女性がいた。夜な夜なリビングのテレビを占拠し、独特のオーラを放つ彼女は、私にとって少し(いや、かなり)とっつきにくい存在だった。だから自然と、彼女がリビングにいる時間帯(夜7時から11時頃まで)は部屋に篭ることが多くなった。(だから彼もまた、あの時間はリビングを避けていたのかもしれない。結果として、私たちのような夜型人間が顔を合わせるのは、偶然というより必然だったのだろう)。


変化が訪れたのは、引っ越してきて一週間ほど経った頃だろうか。ある夜、私がリビングの大きなテーブルでデザイン画とにらめっこしていると、いつの間にか隣に彼が立っていた。

「…何見てるの?」

「別に…課題」

ぶっきらぼうに答えた私に、彼は臆することなくスケッチブックを覗き込んだ。

「へぇ、面白い形。これ、どういうイメージで作ってるの?」

彼の質問は、意外なほど的を射ていた。私がコンセプトを説明すると、彼は「なるほどね…!じゃあ、ここの素材はもっと軽い方が、イメージに合うんじゃない?」なんて、素人考えとも思えない意見を言ったりする。最初は、舐めた大学生と見下していたけれど、彼の純粋な好奇心と時折見せる鋭さに、少しずつ見方が変わっていった。


それからは、リビングで顔を合わせると、自然と会話を交わすようになった。彼はお笑いが好きで、深夜番組を一緒に見て腹を抱えて笑った夜もあった。

またある時は、課題に行き詰まってリビングで大きなため息をついていると、冷蔵庫から缶チューハイを持ってきた彼が「一本しかないけど、半分飲む?」と悪びれもなく言った。

「え…」戸惑う私をよそに、彼はプシュッとプルタブを開け、一口飲んでから、「はい」と差し出す。ためらいながらも受け取り、間接キスになることに内心ドキマギしながら口をつける。ぬるいチューハイの味よりも、彼の無防備な距離感に、私の心臓は妙に騒がしくなった。


彼は、私の知らないことをたくさん知っていた。映画や音楽、歴史、時には哲学的なことまで。例えば、私がデザインの参考に古いフランス映画のDVDをリビングで見ていたら、「あ、これ、僕も好き。光の捉え方が独特なんだよね」なんて、さらりと言って驚かされたこともあった。彼の話は面白く、私の知らない世界を見せてくれた。

一方で、私が専門学校で学んでいることや、服飾デザインの話をすると、子供のように目を輝かせて「すごいね!」「面白い!」と素直な感嘆の声を上げた。私が酔っ払って夢を語れば、いつだって「みやなら、絶対できるよ」と屈託なく笑って応援してくれた。6年間のOL生活で経験した苦労話も、彼は「同い年なのに、そんなに頑張ってたんだ。すごいよ」と真剣な顔で聞いてくれた。


彼の純粋な好奇心と、私の話を(たとえそれが愚痴であっても)否定せずに受け止めてくれる肯定的な態度に、私はいつしか心地よさを感じるようになっていた。彼の『すごいね』という言葉には、お世辞や社交辞令とは違う、素直な響きがあった。私の話を、こんなに肯定的に聞いてくれる人は、久しぶりだったかもしれない。彼と話している時間は、不思議と安らげた。


* * *


【海】


「みや」と初めて呼んだのはいつだったっけ。最初は、少しとっつきにくい人だなと思っていた。ぶっきらぼうな話し方だし、どこか壁を作っているような見下されている感じがしたから。でも、リビングで話すようになって、その印象は少しずつ変わっていった。


彼女が広げるスケッチブックには、僕には到底思いつかないような、大胆で面白いデザインが描かれていた。服飾の専門用語はよく分からないけれど、彼女が自分の夢について語る時の、楽しそうで真剣な横顔や、熱のこもった言葉には、不思議と引き込まれるものがあった。僕なんて、ただ流されるままに大学に通っているようなものだから、彼女のひたむきさが眩しくて、少しだけ羨ましかったのかもしれない。


映画の話をした時も驚いた。僕が好きな、少しマイナーな監督の作品を知っていたり、僕とは違う視点からの感想を持っていたり。彼女と話していると、自分の知らない世界が広がっていくような気がして、単純に面白かった。時々、僕の冗談に呆れたような顔をしながらも、ふっと楽しそうに笑う瞬間があって、その笑顔を見ると、なんだかこっちまで嬉しくなる。


最初はただの風変わりな同居人、くらいにしか思っていなかったはずなのに。気づけば、深夜のリビングで彼女の気配を探している自分がいた。彼女が課題に行き詰まっていると、何か面白い話でもして、少しでも気分転換させてあげられないか、なんて考えてしまう。……なんだか、目が離せない人だな、と思った。


* * *


【みや】


関わらない、と決めていたはずなのに。気づけば私は、彼がリビングにいることを期待している自分に気づいていた。彼がソファに座って本を読んでいる姿を見かけると、(別に、彼に会いたいわけじゃない。ちょっと休憩したいだけ…)と心の中で言い訳をしながら、吸い寄せられるようにリビングへ向かってしまう。毎晩、あるいは毎朝、彼と少しでも話せることを、心のどこかで待ちわびている自分がいた。


彼がリビングにいないと、がらんとした空間がやけに広く感じられた。彼の存在が、いつの間にかこの家の空気の一部になっていたのかもしれない。そして眠りにつく前に、あの屈託のない笑顔を思い出している自分に気づき、慌てて首を振る夜が続いた。


私は、この眠そうな顔をした、掴みどころのない男の子に、密かに、そして確実に惹かれ始めていたのだ。

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