エピローグ 凪(な)いだ海と、消えない星影
カレンダーの数字がまた一つ変わり、僕も40代前半を過ぎようとしていた。あれから、10年という歳月が流れたのだ。窓の外には、すっかり見慣れた東京の夜景が広がっている。かつてみやと暮らしたシェアハウスも、その後一人で暮らした1LDKのマンションも、もう僕の日常にはない。
今は、都心から少し離れた、静かな住宅街の小さな一軒家で、僕は一人で暮らしている。
広告代理店の仕事は相変わらず忙しいが、それなりにやりがいも感じている。何度か大きなプロジェクトを任され、成功も失敗も経験した。
後輩もでき、生意気な彼らに昔の自分を重ねて苦笑いすることも増えた。
沙織と別れた後、いくつかの恋愛も経験した。けれど、どれも長続きはしなかった。
心のどこかで、いつも誰かと比べてしまう自分がいたからだ。比べる相手が誰なのか、もう意識することさえ少なくなったけれど、僕の心の奥底には、まだあの嵐のような女性の残像が、消えないシミのようにこびりついているのかもしれない。
2025年の、あの3月の夜。みやが僕の腕の中で眠り、そして翌朝、確かな絆を感じながら彼女を見送った、あの日。僕は、僕たちの未来がようやく、そして本当に動き出したのだと、そう固く信じていた。
「次に会う時は、必ずこの想いを伝えよう。そして、今度こそ彼女の手を離さない」と、春の日差しの中で強く誓ったのだ。
世界がこんなにも輝いて見えるなんて、いつぶりだろうか。僕は、彼女からの次の連絡を、疑うことなく、むしろ高揚感と共に待っていた。
最初は、彼女の返信が少し遅れても、それほど気にはならなかった。福岡で子育てをしながら、東京での新しい生活の準備も進めているのだろう。忙しいに決まっている。そう楽観的に考えていた。
僕から送る「元気?」という短いメッセージに、彼女も「なんとかやってるよ!」と、以前より少しだけ距離を感じるけれど、それでも返事をくれた。その短いやり取りだけでも、僕の心は満たされた。
けれど、季節が春から初夏へと移り変わるにつれて、そのささやかな繋がりは、まるで夕焼けが空に溶けていくように、ゆっくりと、しかし確実に薄れていった。
僕からのLINEに対する彼女の返信の間隔は、次第に長くなり、その言葉も、どこか事務的で、素っ気ないものに変わっていった。僕が「近いうちにまた会えないかな?」と誘っても、「ごめん、今はちょっとバタバタしてて」という返事が続いた。
それでも、僕は諦めきれなかった。
彼女には彼女の事情があるのだろう。落ち着いたら、またきっと連絡をくれるはずだ、と。そう信じようと努めた。
けれど、いつからだろうか。僕の送ったメッセージに、既読の印だけが虚しく灯り、彼女からの言葉が返ってこなくなったのは。
気づけば、じりじりと肌を焼くような真夏の太陽が照りつけ、そしてそれが物悲しい秋風に変わる頃には、僕たちの間の連絡は、完全に途絶えてしまっていた。
あの3月の夜に感じた確かな手応えは、まるで儚い夢だったかのように、僕の手のひらからこぼれ落ちていったのだ。
僕は、また彼女を失ってしまったのだろうか。いや、そもそも、本当に手に入れたことなど一度もなかったのかもしれない。彼女の心の中に、僕は一体どれほどの場所を占めていたのだろう。
そんな自問自答を繰り返しながら、僕はただ、過ぎていく時間の中に立ち尽くすしかなかった。
時間は、残酷なほどに正確に、そして確実に流れていった。最初は毎日のように思い出していた彼女の笑顔も、声も、温もりも、少しずつ薄れていった。いや、薄れたというよりは、記憶の奥深くに沈んでいって、日常の些事にかき消されるようになった、と言う方が正しいのかもしれない。
それでも、ふとした瞬間に、彼女のことは蘇る。
コンビニでレモンの缶チューハイを見かけた時。
テレビからラ・ラ・ランドの音楽が流れてきた時。
御茶ノ水の楽器街を通りかかり、ショーウィンドウに飾られたアコースティックギターが目に入った時。
そんな時、僕は決まって、あの短いけれど濃密だった日々を思い出す。
彼女の屈託のない笑顔、僕を翻弄した言葉、そして、僕の腕の中で見せた、子供のように無防備な寝顔。
それは、もう二度と戻らない、かけがえのない時間だった。
後悔がないと言えば嘘になる。
あの時、もっと素直に自分の気持ちを伝えていれば。
彼女の痛みに、もっと深く寄り添うことができていれば。
僕たちの未来は、何か違う形になっていたのだろうか。
そんな詮無いことを、今でも時々考えてしまう。
けれど、それと同時に、今のこの穏やかな日常に、感謝している自分もいる。
激しい感情の波に揺さぶられることなく、ただ静かに時間が過ぎていくことの、心地よさ。
それは、あの頃の僕には分からなかった、ささやかな幸せなのかもしれない。
みやは今、どうしているだろうか。息子さんは、もう生意気盛りの中学生くらいになっているだろうか。
彼女は、今もあの太陽みたいな笑顔で、力強く生きているのだろう。
そうであってほしいと、心から願う。
もし、どこかの街角で偶然彼女とすれ違うことがあったなら。僕は、どんな顔をして彼女に会うのだろう。驚くだろうか。それとも、意外と平静でいられるのだろうか。
声をかけるだろうか。それとも、気づかないふりをして通り過ぎるのだろうか。
分からない。本当に、分からない。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、彼女と出会えたこと、そして、あの短い時間でも、僕の人生が彼女の色で鮮やかに彩られたことは、決して間違いではなかったということだ。
それは、僕にとって、かけがえのない宝物のような記憶なのだから。
窓の外の夜景は、10年前と変わらず、無数の光を瞬かせている。
僕は、その光の一つ一つに、彼女の幸せを祈るように、そっと目を閉じた。
そして、新しい朝が来るのを、静かに待つことにする。僕自身の、穏やかな人生の続きを。




