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終章 十年のち、凪いだ心

【みや】

あれから、時計の針は想像を超える速さで進み、気づけば10年の歳月が私の肩に静かに降り積もっていた。窓の外に広がる福岡の街並みも、毎朝鏡に映る自分の顔も、あの頃とはずいぶん変わってしまった。

生意気盛りだった湊は今年で12歳になり、声変わりも始まって、時折見せる大人びた表情にドキリとさせられる。

もう「ママ、ママ」と私の後を追いかけてくることはなくなり、休日に一緒に出かけるのは、ディズニーランドや海外旅行といった特別なイベントの時くらい。それでも、ふとした瞬間に見せる子供っぽい笑顔や、ぶっきらぼうな優しさに、変わらぬ愛しさを感じる。


彼――篠木海との激しい時間は、遠い昔の映画のワンシーンのように、記憶の奥底にかすかに残っている。必死で東京に戻ろうとし、彼との未来を夢見たあの頃の私は、もういない。

今の私は、福岡で小さなデザイン事務所を立ち上げ、仕事と子育てに追われながらも、確かな手応えと穏やかな喜びを感じる日々を送っている。

夜に飲みに出かけたり、週末に一人でふらりと買い物に出かけたりする自由も、少しずつ取り戻せるようになっていた。


それでも、本当にごくたまに、胸の奥がちくりと痛むことがある。クローゼットの奥から、昔彼と一緒に選んだものの、結局一度も袖を通さなかったワンピースを見つけた時。湊がふと、彼と似たような眠そうな目をして私を見上げた時。

10年前、違う選択をしていたら、私たちの人生はどんな風に変わっていたのだろうか、と。


あの頃の私は、彼とハウステンボスに行くことを、子供のように無邪気に願っていた。一緒に見ようと約束したまま、結局見ることのなかった映画。いつか行こうね、と他愛なく話していた、箱根の温泉旅館。結局、ハウステンボスへは数年前に湊と二人で行った。色とりどりのチューリップは美しかったけれど、隣に彼がいない風景は、どこか物足りなかった。

彼との約束は、何一つ叶わないまま、記憶の片隅で静かに埃を被っている。


けれど、その後悔はもう、私の心を激しく揺さぶる嵐にはならない。穏やかな水面に落ちる、一滴の雫のようなものだ。なぜなら、私の中での一番は、いつだって、誰がどう頑張ったところで、この腕の中にいる息子、湊なのだから。

私に無償の愛を注いでくれる、かけがえのない存在。

湊の寝顔を見るたびに、この子を悲しませるような選択は、もう二度としないと心に誓う。

そう思えば思うほど、彼との未来は、やはりあり得なかったのだと、静かに悟るのだ。


息子と、この福岡の街で穏やかな日々を送れている今、私は確かに幸せだと、胸を張って言える。

だから、もし万が一、仕事で彼と顔を合わせることがあったとしても、きっともう大丈夫だ。

当たり障りのない雑談をして、にこやかに挨拶を交わし、そして何事もなかったかのように自分の日常に戻るだろう。一緒に飲みに行くことも、LINEをすることもない。

彼のことを思い出して感傷に浸る夜も、もうほとんどない。

いつかどこかの街角で偶然すれ違うことがあったなら、きっと私は、軽く会釈だけして、他人のように通り過ぎることができるはずだ。

もう、彼が好きだとか、そういう次元の話ではないのだから。


気づけば、本当に長い時間が経っていた。彼とはじめて出会ったのはもう18年も前。

あっという間だったような、永遠のように長かったような。


彼と出会った頃の私は、ただただ彼が欲しかった。彼の隣にいたかった。

でも、同時に、誰にも縛られずに自由でいたかったし、自分の心の中に踏み込まれるのが怖くて、何もかもを隠そうとしていた。

あの頃のままの関係が、心地よかったのかもしれない。

けれど、そんなものは、ただの幻想だ。

手に入れたいと強く願いながら、それを手に入れるための覚悟も、相手を信じる勇気もなかった。

とてつもなく強欲で、わがままで、そして臆病だった私は、結局、大切なものさえ手放してしまったのかもしれない。


あの3月の夜の後、私は結局、東京へは戻らなかった。

彼との連絡は、自然と途絶えていった。どちらからともなく、それがお互いのためだと分かっていたのかもしれない。

私は福岡で新しい仕事を見つけ、湊を育て、日々の忙しさに追われる中で、彼のことを考える時間は確実に減っていった。

時間というのは、本当に偉大なものだ。あんなにも鮮烈だった彼への想いも、いつしか心の奥底に沈殿し、穏やかな水面の下で静かに揺蕩たゆたうだけになった。

もう、苦しいほどに彼を求めることもない。

それでいいのだと思っている。

不思議と、後悔という言葉は浮かんでこない。

なぜなら、彼と別れたからこそ、私は湊と二人で、このかけがえのない、穏やかで力強い時間を、全身全霊で大切に生きることができたのだから。


あの頃の選択が、今の私の幸せに繋がっている。そう信じている。

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