第十八章 始まりだと信じた朝
【海】
腕の中で、みやが身じろぎする気配で目が覚めた。窓のカーテンの隙間から差し込む朝日が、彼女の髪を金色に照らしている。昨夜の熱っぽい記憶と、腕の中にまだ残る彼女の確かな温もり。それが夢ではなかったことを知り、僕は言いようのない幸福感に包まれた。
長い間、心の奥底で燻り続けていた何かが、ようやく満たされたような感覚だった。
「ごめん、腕……疲れたでしょ」
僕の腕から頭を離そうとする彼女に、僕はまだ半分眠っているふりをしながら、ぎゅっと抱き寄せた。
「ん……大丈夫だから、こっち…もっと」
この温もりを、もう少しだけ感じていたかった。
彼女の甘いシャンプーの香りが、僕の心を蕩かす。もう、彼女を離したくない。そう強く思った。
「一緒にお風呂、入る?」
僕の不意打ちの言葉に、彼女が息を呑む気配がした。少しだけ頬を赤らめて、小さな声で
「……う、うん」と頷く。
その初々しい反応がたまらなく愛おしくて、僕は心の中で快哉を叫んだ。そうだ、僕たちはもう、遠慮するような関係じゃないんだ。
こんなにも穏やかで、満たされた朝はいつぶりだろう。昨夜はあれだけ飲んだのに、頭は不思議とすっきりしていた。隣で微睡む彼女の寝顔を眺めながら、僕はこれからのことを考えていた。
もう、曖昧な関係は終わりだ。これからは、ちゃんと彼女と向き合って、この幸せな時間をずっと続けていくんだ、と。
しばらく、ベッドの中で他愛のない話をしながら、二人でスマートフォンの画面を覗き込み、くだらない動物の動画を見て笑い合った。彼女が僕の肩にもたれかかり、くすくすと笑う。その振動が、僕の胸に心地よく響いた。彼女の髪を優しく撫でると、彼女は猫のように目を細める。
ああ、この瞬間が永遠に続けばいいのに。
「今日、何時に行くの?」
僕の言葉に、彼女は少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの調子で
「14時半くらいに打ち合わせがあるから」と答えた。
「そっか。じゃあ、それまでゆっくりしていきなよ。こんな機会、なかなかないんだし。1日くらい、いいでしょ?」
本当は、一日と言わず、ずっとここにいてほしかった。でも、彼女には彼女の生活がある。今は、こうして時々会えるだけでも、十分に幸せなのかもしれない。いや、これからはもっと頻繁に会えるはずだ。昨夜、僕たちは確かに繋がったのだから。
「お昼、どうする? もしよかったら、近くに美味しいパスタの店があるんだけど」
「お、パスタいいね! でも……もしよかったら、しのちゃんシェフの美味しいパスタ、久しぶりに食べたいな」
彼女のおねだりに、僕は思わず顔が綻んだ。昔、シェアハウスで僕が作ったパスタを、彼女はいつも「美味しい、美味しい」と食べてくれた。その記憶が蘇る。
「え、本当? 僕のでいいの? じゃあ買い物行くかな」
「作ってくれるなら、食べる!」
彼女の期待に満ちた笑顔が、僕の心を軽くする。
「いいよ!じゃあ、ちょっと下のスーパーまで買い物行こうか。飲み物も買いたいし。あ、その前に、みや、何か飲む? コーヒーとお茶、どっちがいい? この間、台湾で買ってきた美味しいお茶があるんだ」
「……じゃあ、台湾のお茶、飲んでみたいな」
「おっけー。じゃあ、みやはここでゴロゴロして待っててよ。なんか好きな動画とか見てていいから」
僕は彼女の頭をくしゃりとかき混ぜると、意気揚々とキッチンへ向かった。
彼女が僕の淹れたお茶を飲み、僕の作ったパスタを食べる。
そんな当たり前の日常が、これからは僕たちの日常になるのだ。そう思うだけで、胸が高鳴った。
一人ベッドに残された彼女が、窓の外を眺めている。その横顔は、何か物思いに耽っているようにも見えたけれど、きっと僕と同じように、これからの二人のことを考えてくれているのだろう。そんな風に、僕は楽観的に解釈していた。
温かい台湾茶を二つのマグカップに淹れて戻ると、彼女は少しだけ眠そうな顔で僕を迎えた。また二人でベッドに潜り込み、他愛のない話を続ける。
彼女が僕のそばにいる。ただそれだけで、部屋の空気が、朝の光が、いつもよりずっと優しく、そして輝いて感じられた。
近くのスーパーへ二人で買い物に出かける。日曜日の午前中の、少しだけ賑わい始めた商店街。彼女と並んで歩き、パスタの材料を選ぶ。それは、僕がずっと夢見ていた、ごく普通の、でもかけがえのない恋人同士の光景だった。
彼女が「東京のスーパーって、値段が高い気がする」なんて言って笑う。
その何気ない一言さえも、僕には愛おしく響いた。
部屋に戻り、僕がキッチンでパスタを作り始めると、彼女はその隣で楽しそうにサラダの準備をしてくれた。鼻歌交じりに野菜を切る彼女の姿。その背中に、僕はそっと声をかける。
「もう食べれる? 二日酔い、本当に大丈夫そう?」
「うん、大丈夫!しのちゃんのパスタ楽しみ!」
彼女は満面の笑みでそう答えた。その笑顔が、僕にとっては何よりのご馳走だった。
出来上がったクリームパスタをテーブルに並べると彼女は
「わぁ、美味しそう!」
と声を上げたが、いざ食べ始めると、そのフォークはあまり進まなかった。
「ごめん……すごく美味しいんだけど、昨日飲みすぎちゃったみたいで……」
申し訳なさそうに俯く彼女に、僕は
「無理しなくていいよ。残りは俺が食べるから」と優しく微笑んだ。
大丈夫、これからはいつでも作ってあげられるんだから。
今日のところは、無理することはない。
気づけば、時計の針は12時半を指していた。
彼女が「そろそろ準備しようかな」と言った時、僕は一瞬、心臓が掴まれたような気がした。
もう、行ってしまうのか。でも、すぐにいつもの笑顔に戻って、
「お、そっか。お風呂、溜めておいたよ。シャワーだけじゃ寒いだろ? よかったら先に入って」と促した。
彼女が「一緒に入ってもいいよ…なんちゃって」と悪戯っぽく笑う。
その冗談に、僕は内心ドキッとしながらも、「風邪ひくなよ」とだけ返し、彼女の背中を見送った。
いつか、本当に一緒に入る日が来るかもしれない。そんな期待が、胸の奥で小さく膨らんだ。
彼女がお風呂から上がり、身支度を整えている間、僕はリビングでコーヒーを飲んでいた。彼女が持ってきたワンピースに着替えて出てきた時、そのあまりの綺麗さに、僕はまた言葉を失いそうになった。
「私、そろそろ行くね」
その言葉に、僕は「あ、うん」とだけ短く答えるのが精一杯だった。
本当は、「行かないで」と言いたかったけれど。
玄関まで彼女を見送った。ドアの前で、彼女は僕に向き直り、精一杯の笑顔を作った。
「じゃあね。今日は、本当にありがとうね。……ばいばい」
その「ばいばい」という言葉が、僕にはまるで「またすぐに会えるよね」という響きに聞こえた。
彼女の瞳は少し潤んでいるようにも見えたけれど、それはきっと、この幸せな時間との別れを惜しんでいるからだろう。そう、僕と同じように。
彼女が部屋を出て行った後も、僕はしばらく玄関に立ち尽くしていた。部屋に残る、彼女の甘い香りと、確かな温もり。
もう後悔はない、なんてことはない。
むしろ、これから始まるのだ。僕とみやの、本当の関係が。
昨夜、僕たちは確かに繋がった。言葉にしなくても、お互いの気持ちは通じ合っているはずだ。
彼女の息子さんのことも、これからは僕も一緒に考えていける。そう思うと、未来への不安よりも、大きな希望が胸に広がっていくのを感じた。
そうだ、次に会う時は、ちゃんと伝えよう。僕の本当の気持ちを。
そして、今度こそ、彼女の手を絶対に離さない、と。 そんな決意を新たにしながら、僕は窓を開け、春の柔らかな日差しを全身に浴びた。
世界は、こんなにも輝いて見えるものだったのか。




