第十七章 腕枕の温もりと、さよならの決意
【みや】
ふわりと意識が浮上した時、最初に感じたのは、慣れない誰かの腕の重みと、すぐそばにある温もりだった。ゆっくりと目を開けると、そこには穏やかな寝息を立てる彼の顔があった。
いつもは私が湊に腕枕をして眠るけれど、今朝は彼の太い腕が、私の頭を優しく支えてくれていた。窓から差し込む朝の光が、彼の長い睫毛に淡い影を落としている。
(……夢じゃ、なかったんだ)
昨夜の出来事が、熱を帯びた記憶として蘇る。彼の肌の熱さ、絡め合った指、そして、どうしようもなく惹かれ合い、一つになった瞬間の、息苦しいほどの幸福感。
「ごめん、腕……疲れたでしょ」
私がそっと身じろぎし、彼の腕から頭を離そうとすると、彼がむにゃむにゃと何かを言いながら、逆に私を強く引き寄せた。
「ん……大丈夫だから、こっち…もっと」
まだ半分眠っているような、甘えた声。その無防備さに、胸がきゅっと締め付けられる。この温もりの中に、もう少しだけ、あと少しだけ包まれていたい。でも、ダメだ。私には帰る場所がある。
「一緒にお風呂、入る?」
不意に、彼が目を開けずにそう聞いてきた。その言葉の響きに、私の頬がカッと熱くなる。それは、まるで長年連れ添った恋人同士のような、あまりにも自然な誘いだった。
「……う、うん」
本当は、そんなことできるはずがないのに。戸惑いながらも、私は小さく頷いてしまっていた。
こんなにも満たされた気持ちで朝を迎えるのは、一体いつぶりだろう。昨夜あれほど飲んだはずなのに、不思議と頭はすっきりとしていた。
ただ、胃のあたりが少し重いのは、二日酔いのせいかもしれない。ゆっくりと、誰にも邪魔されずに眠れたのは、本当に久しぶりだった。
しばらく、彼とベッドの中で他愛のない話をしながら、スマートフォンの画面で適当なYouTubeの動画を眺めた。彼の肩にもたれかかり、くすくすと笑い合う。
それは、あまりにも穏やかで、幸せな時間だった。ふと、彼が私の髪を優しく撫でながら聞いてきた。
「今日、何時に行くの?」
その一言で、私は現実に引き戻される。そうだ、私には帰らなければならない場所がある。湊が待っている。
「んー、14時半くらいに、ちょっと人と会う約束があるから、遅くても14時くらいに出たら間に合うかな」
私は、できるだけ平静を装って答えた。
「そっか。じゃあ、それまでゆっくりしていきなよ。こんな機会、なかなかないんだし。1日くらい、いいでしょ?」
「……そうだね」
彼の言葉が、甘い毒のように私の心に染み込んでいく。この優しさに、もっと浸っていたい。でも、それは許されないことだ。
「お昼、どうする? もしよかったら、近くに美味しいパスタの店があるんだけど」
彼がベッドから起き上がり大きく伸びをしながら誘ってきた。
「お、パスタいいね! でも……もしよかったら、しのちゃんシェフの美味しいパスタ、久しぶりに食べたいな」
昔、シェアハウスで彼が作ってくれた、クリームパスタの味が忘れられない。
「え、本当? 僕のでいいの? じゃあ買い物行くかな」
「しのちゃんのパスタなら、絶対美味しいから!」
私の少し強引なお願いに、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
「いいよ!じゃあ、ちょっと下のスーパーまで買い物行こうか。飲み物も買いたいし。あ、その前に、みや、何か飲む? コーヒーとお茶、どっちがいい? この間、台湾で買ってきた美味しいお茶があるんだ」 「……じゃあ、台湾のお茶、飲んでみたいな」
「おっけー。じゃあ、みやはここでゴロゴロして待っててよ。なんか好きな動画とか見てていいから」
彼はそう言って、悪戯っぽく私の頭をくしゃりとかき混ぜると、キッチンへ向かった。
彼の言葉の端々から感じる優しさが、嬉しい反面、私の胸を締め付けた。彼は、私とのこの時間を、どう思っているのだろう。
ただの、一夜限りの過ちなのか。それとも……。考えれば考えるほど、答えの出ない問いが頭の中を巡った。
一人残されたベッドの上で、私は彼の残り香が微かに漂うシーツに顔をうずめた。窓の外からは、東京のざわめきが遠くに聞こえる。
彼と二人でスーパーへ買い物に行く。それは、私がずっと心の奥底で夢見ていた、けれど決して手に入らないと思っていた「普通の恋人同士」のような、ささやかな光景だった。
それが今、現実になろうとしている。その事実に、胸が高鳴ると同時に、これが最後なのだという予感が、言いようのない切なさとなって込み上げてきた。
彼が温かい台湾茶を二つのマグカップに淹れて戻ってきた。
甘く華やかな香りが部屋に広がる。私たちはまたベッドに潜り込み、他愛のない話をしながらゆっくりとお茶を飲んだ。
それから、二人で近くのスーパーへと向かった。
私は彼の数歩後ろを、時折その広い背中や、楽しそうに品物を見ている横顔を盗み見ながら歩いた。
「福岡のスーパーと、こっちの品揃えって違う? なんか、産地の名前とか、珍しい野菜とかあるのかな?」
彼が、ふとそんなことを聞いてきた。
「そうだね、やっぱり魚介類は福岡の方が新鮮で種類も豊富で安いかも。野菜は……どうだろう。でも、なんか、東京のスーパーって、おしゃれな野菜が多いけど、全体的に値段が高い気がするなぁ。このスーパーが高級なのかな?」
そんな、本当にどうでもいい、けれど二人でいるからこそ楽しい会話をしながら、私たちは笑い合った。彼と二人でこうしてスーパーのカートを押し、今夜の食材を選ぶ。それは、私が心のどこかでずっと渇望していた、温かくて、穏やかで、そしてあまりにも日常的な時間だった。
部屋に戻り、彼が手際よくパスタを作り始める。
私はその隣で、買ってきたサラダの準備をする。キッチンに並んで立つ、この何気ない瞬間が、永遠に続けばいいのに、と馬鹿みたいなことを思った。
「もう作って食べれる? 二日酔い、本当に大丈夫そう?」
「うん、大丈夫!しのちゃんのパスタ、すっごく楽しみにしてたんだから!」
そう元気に答えたものの、彼の作ってくれた濃厚なクリームパスタは、驚くほど美味しかったのに、私の胃は前日のお酒と、そしてこの幸福な時間が終わってしまうことへの緊張感で、思うように食べ物を受け付けてくれなかった。
半分も食べられずにフォークを置いてしまった私に、彼は
「無理しなくていいよ。残りは俺が食べるから」
と、何も聞かずに優しく微笑んだ。その笑顔が、逆に私の胸を締め付けた。こんなにも優しい彼に、私は何をしているのだろう。彼にお願いして作ってもらったのに、残してしまうなんて。申し訳なさと、自分の不甲斐なさで、泣きそうになるのを必死で堪えた。
時計の針は、いつの間にか12時半を指していた。楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
「……そろそろ、準備しようかな」
私がそう言うと、彼は一瞬、寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「お、そっか。お風呂、溜めておいたよ。よかったら先に入って」
「え、いいの? ありがとう。……じゃあ、お言葉に甘えて。もし、気が向いたら、一緒に入ってもいいよ…なんちゃって」
私は冗談めかしてそう言ったけれど、心のどこかでは、彼が「うん」と言ってくれることを期待していたのかもしれない。けれど、彼はただ苦笑いするだけで、一緒にお風呂には入ってこなかった。そのことに、少しだけ安堵し、そしてほんの少しだけ、寂しさを感じた。
お風呂から上がり、持ってきたワンピースに着替える。鏡の中の自分は、少しだけ血色が良く、潤んでいるように見えた。メイクを直し、髪を丁寧に乾かしていると、気づけば時計の針は14時を指そうとしていた。もう、本当に、行かなければ。
リビングでコーヒーを飲んでいた彼に、
「私、そろそろ行くね」と声をかける。
彼は「あ、うん」とだけ短く答えた。
その声は、どこか掠れていて、無理に平静を装っているように聞こえた。
玄関まで、彼は何も言わずに送ってくれた。ドアの前で向き直り、私は精一杯の笑顔を作った。これが、彼に見せる最後の笑顔になるかもしれない。
「じゃあね。今日は、ありがとうね。……ばいばい」
これが最後だ。もう二度と、こんな風に彼に甘えたり、彼の優しさに触れたりすることはない。そう心に固く誓ったから、「またね」という、ありふれた未来への約束の言葉は、どうしても喉から出てこなかった。
私たちの別れは、いつもそうだ。まるで、また明日すぐにでも会える高校生みたいに、あっけないくらい素っ気ない。
でも、この半日の間に、私は確かに決めたのだ。これを最後にしよう、と。だからこそ、いつも以上に彼の優しさが骨身に染みて、彼と過ごす時間が愛おしくて、たまらなく楽しかったのかもしれない。
もう、これで後悔はないはずだ。
私は、前を向いて生きていくのだ。
湊と、二人で。
そう、強く、強く、自分に言い聞かせた。ドアノブに手をかけ、彼の方を振り返らずに、私は彼の部屋を後にした。
エレベーターのボタンを押し、階下へと降りていく間、必死で堪えていた涙が、とめどなく頬を伝った。




