第十六章 再燃する疼き、三月の夜
【海】
みやが僕の部屋から嵐のように去っていった、あの2月の朝。枕に残る彼女の甘い香りと、スマートフォンの画面に表示された「ありがとね」というあまりにも素っ気ないメッセージ。
それが、昨夜の出来事の全てを物語っているようだった。深い虚しさと、言葉にならない怒り、そしてほんの少しの安堵。
――もうこれ以上、彼女に振り回されなくて済むのかもしれないという、身勝手な安堵感に、僕の胸は締め付けられた。
まただ。また、彼女は僕を都合よく求め、そして何も告げずに去っていく。僕たちの間にあったはずの熱や、彼女が見せた涙、そして「一緒に帰る?」という僕の問いに小さく頷いた彼女の姿。
あれは全て、一夜限りの幻だったのだろうか。
ベッドから起き上がり、窓を開けると、真冬の冷たい空気が部屋に流れ込んできた。
昨夜の酒と、彼女の残り香と、そして僕自身の拭いきれない後悔が混じり合った重たい空気を、無理やり追い出すように。
「…馬鹿だよな、僕も」
誰に言うでもなく呟き、乾いた笑いが漏れた。
彼女の「ありがとね」というLINEに、僕は何も返信できなかった。どんな言葉を返せばいい?
「昨日は楽しかったよ」なんて、そんな上辺だけの言葉は、今のこの虚しさをさらに際立たせるだけだ。
彼女が僕に何を求めていたのか、そして僕が彼女に何を求めているのか。その核心に触れるのが怖いまま、ただ身体だけを重ねてしまったことへの罪悪感が、鉛のように重く胸にのしかかる。
それからの一ヶ月は、まるで色のない映画を見ているようだった。
仕事は機械的にこなし、週末になると決まって飲みに出かけ、記憶が曖昧になるまで酒を煽った。部屋に帰れば、意味もなくゲームのコントローラーを握りしめ、画面の光をただぼんやりと眺める。みやからの連絡は、もちろんない。僕からも、連絡する勇気などどこにもなかった。
あの夜のことが、僕たちの間にどんな意味を持ったのか、それとも彼女にとっては本当に「シャワーを借りたお礼」程度の、取るに足らない出来事だったのか。その答えを知りたいという渇望と、知るのが怖いという臆病さが、僕の中でせめぎ合っていた。
沙織と別れてから、この1LDKのマンションは、ただ広いだけの箱のように感じられた。
みやの温もりを一度知ってしまった肌は、余計にその冷たさを敏感に感じ取ってしまう。
(もう、終わりにしなければ。本当に)
何度そう自分に言い聞かせただろう。
彼女は福岡で、息子さんと新しい人生を力強く歩んでいる。僕がそこに割って入る余地など、あるはずがない。そう分かっているのに、心のどこかで、まだ彼女との微かな繋がりを求めている自分がいる。あの夜の彼女の涙、か細い声、そして僕の腕の中で見せた、子供のように無防備な寝顔。
それらが、消えない残像となって脳裏に焼き付き、僕を過去に引き戻そうとする。
彼女の涙の本当の理由。子育ての現実的な辛さ。元夫から受けたという、心の傷。あの夜、もっと深く彼女の言葉に耳を傾け、その痛みに寄り添うことができていれば、何か変わったのだろうか。
いや、詮無いことだ。彼女はきっと、話したくなかったのだろう。
彼女の心の奥深くには、僕が決して触れることを許されない、頑ななまでに守られたテリトリーがあることを、僕は痛いほど知っているのだから。
そんな出口のない葛藤を抱えたまま、気づけば3月になっていた。
街には春の気配が漂い始めているというのに、僕の心はまだ厚い氷に閉ざされたままだった。そんな折、まるで凍てついた湖面に小石を投げ込むように、再び彼女からLINEが来たのだ。
「3月24日か25日空いてる?仕事で新宿行くんだけど、夜飲みいかない?」
心臓が、ドクン、と大きく、そして不吉な音を立てた。
1ヶ月前、あれだけ打ちのめされ、もう二度と期待するものかと誓ったはずなのに。彼女からの、たった数行のメッセージを見た瞬間、僕の心は馬鹿みたいに、そして抗いがたい力で期待に震え始めた。
仕事が口実なのは、痛いほど分かっている。それでも、彼女がまた僕に会おうとしてくれている。その事実だけで、モノクロだった世界に、不意に鮮やかな色が差し込んだような気がした。
その反面、鉛のような重い気持ちも確かにあった。
僕だってもう30歳を過ぎている。いつまでも、こんな風に彼女に振り回されていていいのだろうか。彼女からの連絡がなければ、彼女と会うことがなければ、きっと僕は時間をかけて彼女を忘れられるはずなのに。
「25日なら今のところ空いてるよ」
僕は、努めて平静を装って、そう返信した。
本当は、すぐにでも「会いたい」と叫びたい気持ちを必死で抑え込んでいた。
断ったほうがいいのかもしれない。そうすれば、今度こそ本当に終わりにできるのかもしれない。返信した後も、そんな自問自答が頭の中をぐるぐると駆け巡り、僕は深くため息をついた。
「んじゃ、20時くらいから空けといて」
相変わらず、少しだけ強引な彼女の言葉。でも、その裏に隠された期待のようなものを感じ取ってしまい、僕の心はまたしても浮き足立つ。彼女の真意を探りたいという好奇心と、また同じように傷つくかもしれないという恐れ。その二つの感情が、僕の中で激しくぶつかり合っていた。
約束の日まであと数日。
どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。何を話せばいい?
あの2月の夜のことは、触れるべきなのか、それとも何事もなかったかのように振る舞うべきなのか。
考えれば考えるほど、緊張で胃がキリキリと痛んだ。
でも、それ以上に、彼女に会えるという高揚感が、僕の全身を包み込んでいた。僕は、もう腹をくくるしかなかった。この感情の渦に、再び身を投じるしかないのだと。
(せっかくだから、彼女が喜ぶような店を予約しよう。あの夜、何もしてあげられなかった罪滅ぼしも込めて)
そう思い立ち、僕はみやにLINEを送った。
「なんか食べたいものある? 久しぶりだし、ちゃんとした店、予約しとくよ!」
少しでも彼女に喜んでほしかったし、この再会を、今度こそ何か意味のあるものにしたかった。彼女からの返信はすぐに来た。
「えー、ほんと? やったー! しのちゃんセレクトならどこでも! でも、強いて言うなら、美味しいピザとワインが飲みたいなー」
子供のようにはしゃぐ彼女の文面に、思わず笑みがこぼれる。
僕は彼女のリクエストに応え、新宿の美味しいと評判のイタリアンレストランを予約した。彼女の、あの太陽みたいな笑顔を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そして、再会の日、3月25日。
仕事を早めに切り上げ、予約した新宿の地下にあるイタリアンレストランへ向かう。レンガ造りのおしゃれな店内は、温かい照明に照らされ、壁にはたくさんのワインボトルが並んでいた。
僕より先に着いていた彼女は、奥のテーブル席で、窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔は、2月の時よりも少しだけ、緊張が解けているように見えた。
「おつかれさま」
声をかけると、彼女は顔を上げ、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔は、2月のあの夜の、どこか痛々しさを伴った笑顔とは違い、ずっと自然で、柔らかく見えた。
「お、おつかれ!仕事帰り?」
「うん、いっぱい働いた」彼女は悪戯っぽく笑った。
その表情に、僕は張り詰めていたものが少しだけ解けていくのを感じ、救われたような気がした。
僕が選んだ赤ワインで乾杯をした。注文した料理は、驚くほど好みが合わなかったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。彼女が目の前にいて、僕と話している。ただそれだけで、僕の心は満たされていた。
彼女は、思い詰めたような表情で、東京に戻ってくることを考えている、と切り出した。
「え、おお!? お子さんはどうするの?」
「一緒以外の選択肢はないでしょ」
きっぱりと言い切る彼女の瞳には、揺るぎない決意の色が浮かんでいた。僕は、彼女がまた新しい一歩を踏み出そうとしているその強さに、胸が熱くなった。
「そっか、そうだよね。……一人で、大変じゃない?」
「うん、たぶん、でも戻りたいと思っててね」
「そっか」僕はそれ以上、何も聞かなかった。彼女が決めたことなら、僕はただ全力で応援したいと思った。
「子育てはどう?1人で大変じゃない?」
「ううん、そうでもないよ。港は他の子と比べても手のかからない方だと思うから」
彼女はそう言って笑うけれど、その笑顔の裏には、きっと僕には想像もできないほどの孤独や苦労があるのだろう。僕は、その健気さに胸を打たれた。
「しのちゃんはどうなの?子供欲しいとか思う?」
彼女からの不意打ちの質問に、僕は少しだけ戸惑った。
「うん、子供はほしいと思うけど……結婚は、まだいいかな。したくない、っていうか」
それは、僕の本心でもあった。沙織との別れが、僕に結婚という制度への疑問を抱かせたのかもしれない。あるいは、目の前にいる彼女との未来を、無意識のうちに、まだ諦めきれていないからなのかもしれない。
「それは、叶えるのは難しそうだね」
彼女はそう言って、からかうように笑った。
「私は知らない誰かと付き合ったり、結婚したりはもういいかな。他人と暮らすのは怖いし…」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
そして、彼女の口から、元夫からの暴力の話が、ぽつりぽつりと語られた。
僕はただ、握りしめた拳が微かに震えるのを感じながら、黙って聞いていることしかできなかった。彼女がどれほどの恐怖と絶望を味わってきたのか。その痛みを想像すると、胸が張り裂けそうだった。
そして、何も知らずに、のうのうと生きてきた自分への不甲斐なさに、奥歯を噛み締めた。彼女が福岡にいた時、もっと僕が何かできていれば……。そんな後悔が、今更ながら波のように押し寄せてきた。
「いや、やばい人だったの本当に!なんかあの頃はきつかったけど今になっては笑い話的な…?」
彼女は無理に明るく振る舞おうとしたが、その声は微かに震え、瞳の奥には深い傷跡が見えた。
彼女は努めて明るく、無理やり次の話題を振った。
その痛々しいほどの強がりが、僕の胸を締め付けた。
「そっか…本当に、大変だったんだな…。気づいてあげられなくて、ごめん。何もできなくて、ごめん」
僕にできることは、ただ彼女の言葉に寄り添い、そして心からの謝罪と、彼女の痛みを少しでも分かち合いたいという気持ちを伝えることだけだった。
ハウステンボスの話題で、ようやく彼女の表情が和らいだ。彼女の目が子供のように輝き、その場所への愛情を熱っぽく語る姿は、見ていて本当に楽しかった。
「今度一緒にいこう」という彼女の言葉に、僕は「ん〜」と曖昧な返事しかできなかった。行きたい。喉から手が出るほど、彼女と二人で、あの美しい街を歩きたい。でも、今の僕たちの関係で、そんな軽々しい約束をしていいものか、分からなかったのだ。
彼女の息子である湊くんのことも考えなければならない。僕が、彼女の人生に、これ以上無責任に関わっていいのだろうか。そんな迷いが、僕の言葉を鈍らせた。
気づけば、時計の針は24時を回っていた。店の外に出ると、春の夜風が頬を撫で、心地よかった。どちらからともなく、僕たちはタクシーを拾い、僕のマンションへと向かっていた。
後部座席で、彼女の肩が僕の肩に、そっと触れた。その小さな温もりが、僕の心に静かに、しかし確実に染み込んでくる。このまま、彼女を帰したくない。そんな抗いがたい思いが、僕の中で強く、強く込み上げてきていた。
部屋に着いて、僕は彼女に買い置きしてあった自分のスウェットの上下を貸した。少し大きすぎるそれを着た彼女は、どこか幼く見えて、胸がキュンとなる。
何か当たり障りのない話題はないだろうか。昔みたいに、くだらないことで笑い合えたらいいのに。そんなことを考えながら、僕はテレビの横に無造作に置かれたリモコンに手を伸ばした。
「なんか映画でもみる?」
口から出たのは、ごく自然な提案だった。
「あ、私、来る時、飛行機と電車の中で映画3本も観てきたの。時間だけはたっぷりあったから」
「おー!すごいね。何観たの?」
「ラ・ラ・ランド。もう何回も観てるんだけど、やっぱり良すぎて。福岡からの満員電車の中で、危うく泣きそうになっちゃった。もう涙出る寸前。数年前に初めて観た時は、こんなに感情移入しなかった気がするんだけどな。時間が経つと、同じ映画でも感じ方が全然変わるから面白いよね」
彼女は少しだけ早口で、でもどこか熱っぽくそう語った。その横顔は、映画の世界に浸っているかのように、夢見るような表情をしていた。
あの映画の主人公たちの、夢と愛の間で揺れ動く姿が、今の彼女の心境と重なっているのかもしれない。
「ラ・ラ・ランドかぁ、僕も好きだな。確か、昔、沙織と映画館で観た気がする。……僕も、また観たくなったな」
僕はそう言って、少しだけ遠い目をしたかもしれない。沙織の名前を出したのは、無意識の牽制だったのか、それとも、ただ正直に過去の記憶を口にしただけなのか。自分でもよく分からなかった。
ただ、彼女の言葉が、僕自身の過去の恋愛や、今の自分のどうしようもない状況と重なって、胸の奥がチクリと痛んだのは事実だった。
「観なよ、絶対おすすめだよ。今のしのちゃんなら、また違う発見があるかもしれないし」
みやはそう言って、悪戯っぽく笑った。その言葉が、なぜか僕の心に深く突き刺さった。
「今の僕なら、違う発見がある」。それは、まるで僕の心の迷いを見透かし、そして何かを示唆しているかのようだった。
結局、映画を観るでもなく、YouTubeで静かなジャズを流しながら、僕たちは他愛もない話を続けた。
冷蔵庫にあったレモンの缶チューハイを開けて、二人で分け合って飲んだ。
それは、いつかのシェアハウスの夜、彼女と二人きりで、ドキドキしながら分け合ったのと同じ銘柄だった。彼女は気づいていないかもしれないけれど、僕にとっては、忘れられない味だった。
アルコールのせいか、それともこの部屋の二人きりという安心感か、彼女の表情はだんだんとろけていくように柔らかくなっていった。そして、ふと会話が途切れた瞬間、部屋の空気が密度を増したのを、僕は敏感に感じ取っていた。彼女の潤んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめている。その視線に射抜かれたように、僕はもう、理性では抑えきれない強い衝動が、腹の底から込み上げてくるのを感じていた。
僕はそっと彼女の肩に手を回し、引き寄せた。彼女は驚いたように僕を見つめたが、抵抗はしなかった。どちらからともなく、唇が重なった。
あの2月の夜と同じ、いや、それ以上に深く、お互いの存在を確かめ合うような、切実なキス。そして、僕たちはベッドへと向かった。
この夜、僕たちは何を確かめ合おうとしていたのだろう。
彼女の孤独と、僕の孤独。それらが触れ合った時、ほんの一瞬だけ、僕たちは救われたような気がしたのかもしれない。でも、それはまた、新しい過ちの始まりなのかもしれないという予感も、確かにあった。
そして、この夜が明ければ、彼女はまた僕の前からいなくなってしまうのだろうという、言いようのない不安も。それでも、僕は彼女を抱きしめる腕の力を緩めることができなかった。




