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第一章 蝉時雨のシェアハウス

2017年7月、水曜日。

アスファルトを焦がすような西日が、容赦なく肌を刺す。みんみん、みんみん、みんみん……。耳障りなほどの大音量で鳴き続ける蝉の声が、私のうんざりした気分をさらに掻き立てた。大嫌いだ、この音も、この蒸し暑さも。

目の前には、都心の風景から切り取られたように、黒い瓦屋根の古い一軒家が鎮座していた。築100年。隣の近代的なマンションとの対比が、その異質さを際立たせている。

(まさか、私がこんな場所に住むことになるなんて……)

5年前、私は確かに夢を抱いてこの東京に出てきたはずだった。けれど、いつしか満員電車に揺られ、数字と睨めっこする日々に慣れきってしまっていた。上司や同僚との惰性の飲み会、週末の気晴らしのショッピング。都会の刺激と「それなり」の安定は心地よく、心の奥で熱を帯びていたはずの夢は、もう消えかけた線香花火のようだった。

「このままでも、まあいっか」本気でそう思い始めていたのだ、ほんの数ヶ月前までは。 けれど、ある日突然、何かがぷつりと切れたのだ。このままじゃダメだ、と。そして、勢いのままに会社を辞め、再び夢を追いかけるために、この古びたシェアハウスの門を叩いた。だから、この異質な空間こそが、今の私の決意の証でもあるのだ。

(よし…!いくぞ…)

シェアハウスの門扉を開けると、そこはまるで、ひいおばあちゃんの家に迷い込んだかのようだった。

玄関脇には使い込まれた様子の大きな壺。磨りガラスの引き戸は少し傾いでいて、隙間から家の中の薄闇が覗いている。昨日までいた、白い壁紙の殺風景なワンルームとは何もかもが違う。埃と、古い木材と、そして知らない誰かの生活の匂いが混じり合ったような空気が、入口から漂っていた。

(……本当に、ここでやっていけるんだろうか)

一瞬、眩暈がした。あの息の詰まるオフィスと、「それなり」という名の檻から抜け出すためだったとはいえ、あまりにも極端な選択をしたのかもしれない。『夢を追う』なんて、もう若くもないのに。それでも、あのまま心を殺して生き続けるよりは、ずっとましなはずだ。

「家賃は破格。学校にも近い。大丈夫、大丈夫……」

呪文のように自分に言い聞かせ、重いスーツケースのハンドルを握り直す。意を決して、軋みそうな引き戸に手をかけた。驚いたことに、鍵はかかっていなかった。

玄関で靴を脱ぎ、軋む廊下に一歩足を踏み入れる。ひんやりとした空気が、真夏の熱気を帯びた肌を撫でた。古い木材と、埃と、そして知らない誰かの生活の匂いが混じり合った、濃密な空気が鼻をつき、はじめて入るその家はどこか懐かしさを感じさせた。

左右に並ぶ部屋の襖はどれも固く閉ざされ、物音ひとつしない。まるで家全体が息を潜めているかのようだ。リビングらしき空間を抜け、案内された一番奥、ぽつんと離れた自分の部屋へ向かった。歩くたびに、床板がみしみしと悲鳴を上げていた。

部屋の入口には、黄ばんで少し破れた襖がかかっていた。力を込めないと動かないそれをなんとか横に滑らせると、六畳ほどの空間が現れた。窓は2つ。そこから見えるのは、生い茂った雑草だらけの心ばかりの庭と隣の近代的なマンションの無機質な壁だけだった。畳は擦り切れ、壁にはいくつかのシミがあり、柱には誰かが身長を測ったような跡があった。窓際の床には、うっすらと埃が積もっていた。重いスーツケースを部屋のど真ん中にドサリと置くと、その音だけがやけに大きく響いた。

(……本当に、ここでやっていけるんだろうか)

昨日までいた、白い壁紙の清潔なワンルームマンションの光景が脳裏をよぎる。カビは生えないだろうか。集中して勉強や課題に取り組める環境なのだろうか。他の住人たちは、一体どんな人たちなんだろう。不安が、じっとりとした湿気とともに心にまとわりついてくる。それでも、と自分に言い聞かせる。あの心を殺して働き続ける日々よりは、ずっとましなはずだ。ここでの生活だってきっと楽しくなるに決まってる。

しん、と静まり返った家の中に、時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。荷解きを始めようと、スーツケースに手をかけた、その時だった。

家の静寂を切り裂くように、階段の方から凄まじい物音が響き渡った。

ドタタタタッ! ミシッ! ドンッ!!

一段飛ばしで駆け下りるような乱暴な足音と最後に何かを踏み外したような鈍い音が響いた。

一瞬、心臓が跳ね上がった。何事かと驚いて部屋の入口を振り返ると、廊下の先に、息を切らした若い男の子が立っていた。

寝癖で爆発したような髪。焦点の合っていない、ひどく眠そうな二重まぶたの目。どこかで見たことがあるような……そうだ、スヌーピーだ。よれよれのTシャツに、膝の抜けたスウェットのハーフパンツという、あまりにも無防備な格好。彼は目を丸くして、肩でぜえぜえと息をしながら、こちらを凝視していた。手にはスマートフォンを握りしめている。

一瞬、時間が止まったかのような奇妙な沈黙。彼の驚きと、私の驚きと警戒心が、薄暗い廊下で火花を散らすようにぶつかり合う。

「……うわっ!?」

先に声を発したのは、彼の方だった。間の抜けた、しかしやけに響く声。

「……え、人、いたんだ……びっくりした……」

(驚いたのはこっちだっつの! ていうか、今の物凄い音は何!? 大丈夫なの? 怪我は?)

言いたいことは山ほどあったが、声にはならなかった。私はただ、怪訝な顔で彼をみつめることしかできない。

「あ……もしかして、今日引っ越してきた……人?」

私が無言でこくりと頷くと、彼はそれで合点がいったというように、あ、とか、えっと、とか意味のない言葉を漏らした。そして、急に我に返ったように慌てだした。

「あー! ごめん、なんか、いろいろ! 俺、篠……いや、違う、えっと、とにかく急いでて! じゃあ!」

彼は自分の名前すらまともに言えず、一方的にそれだけ捲し立てると、脱兎のごとく玄関の方へ走り去っていった。ドタドタという慌ただしい足音が遠ざかり、やがて家の外でサンダルをつっかけるような音がして、それきり静かになった。

後に残されたのは、呆然と立ち尽くす私と、しんと静まり返った、湿っぽい空気だけだった。

「…………嵐かよ」

思わず悪態が口をつく。深いため息が出た。なんなんだ、今の。名前も名乗らないなんて。それに、あの眠そうな顔。大学生か何かだろうか。

改めて自分の部屋を見回す。古びた畳、シミのある壁、隣のマンションが見えるだけの窓。そして、今しがた遭遇した、あの奇妙な住人。

(……とんでもない所に来てしまったかもしれない)

再び不安が鎌首をもたげる。けれど、もう後戻りはできないのだ。

「……まあ、家賃は安かったしな」

誰に言うともなく呟き、私はもう一度、重いスーツケースに向き直った。まずは、この城を少しでもましな状態にすることから始めなければ。

少ない荷物はあっという間に片付き、昨夜は引っ越しの疲れもあって泥のように眠った。とはいえ、部屋の隅に布団を敷く気にはなれなかった。隙間風がどこからか吹き込んでいる気がしたし、真夏だというのに、床に近い場所には得体のしれない虫がいるような気がしたのだ。結局、部屋のど真ん中に布団を広げて寝た。

一夜明けると、不思議なことに、昨日感じた強烈な拒否反応は少し薄れていた。障子窓から差し込む朝の光は柔らかく、家全体がまだ眠っているかのように静かだ。耳を澄ませば、柱時計のコチコチという音だけが聞こえる。家賃の安さ、学校への近さ。それに、どこか懐かしい、大好きだった祖母の家に似た空気。慣れてしまえば、ここは意外と悪くない場所なのかもしれない。そんなことを考え始めていた。

共有リビングの、使い込まれた大きな木のテーブルで、買ってきたチョココロネをかじり、パックのコーヒー牛乳を啜る。ささやかな、しかし今の私には貴重な糖分補給だ。窓の外では、昨日あれほどうるさかった蝉が、今日は少しだけ遠慮がちに鳴いている。このまま静かな一日が過ごせればいい、そう思った矢先だった。

キッチンの方から、ひょっこりと顔を出した人物に、私は思わず息を呑んだ。昨日、嵐のように現れて去っていった、あいつだった。

「あ、こんにちは〜」

彼は少しバツが悪そうな、それでいてどこか人懐っこい笑みを浮かべて言った。昨日のよれよれのTシャツではなく、今日は普通の紺色のTシャツにジーンズ姿だ。爆発していた髪も、少しは落ち着いている……いや、やっぱり頭頂部が鳥の巣みたいになっている。手には空のマグカップを持っていた。

「……こんにちは」

私は警戒心を解かずに、短く返す。内心は「げっ、最悪」と思っていた。

「昨日は、なんか、バタバタですみませんでした。驚かせちゃいましたよね」 彼はそう言って、ぺこりと頭を下げた。存外、素直なところもあるらしい。 「僕、篠木しのぎ かいって言います。2階に住んでる、大学…生です」 少し言い淀んだのは、自分の所属に自信がないのか、それとも単に寝起きだからか。

「……都華みやこ はなです。昨日越してきました。仕事辞めて、今、専門学校に通ってます。25です」 私もぶっきらぼうに自己紹介を返す。年齢まで言ったのは、年上である可能性に賭けた、ささやかな牽制のつもりだった。

「え、じゃあ、俺と同い年じゃないですか!」 彼はぱあっと顔を明るくした。まるで意外な共通点を見つけて嬉しい、とでも言うように。

(同い年……ねぇ)

心の中で毒づく。どこが。この能天気そうな顔の、午前中から家にいる大学生と、6年間社会の荒波に揉まれてきた私が、同じ歳? 冗談じゃない。

「そうなんですね。へぇ」

声には温度が乗らなかった。

彼はそんな私の内心など露知らず、話を続ける。

「ここに住んでる人、みんなに会いました? オーナーのおばあちゃん以外は、だいたい日中は仕事とかでいないんですよ。だから、なんか困ったこととか、分からないこととかあったら、遠慮なく言ってください。僕、午前中はわりと家にいるんで」

彼は親切のつもりで言っているのだろう。だが、その「午前中はわりと家にいる」という言葉が、私の神経を妙に逆撫でした。

「……どうも」

私は曖昧に返事をして、話題を変えることにした。

「あ、あの、オーナーさんにはお伝えしたんですけど、私、服飾の専門とデザインのスクールに通ってて。課題とかで、夜にミシンを使うことがあるかもしれません。部屋は離れてますけど、もしうるさかったら、遠慮なく言ってください。上の階だと響くかもしれないので」

「へぇ!」

海は目を輝かせた。

「ミシンで服作るんですか? すごいなぁ!」

その反応は、昨日と同じく、あまりにも屈託がなかった。何の裏もなく、ただ感心している。その純粋さが、今の私には眩しく、そして少しだけ腹立たしかった。

「いや、全然、すごくなんて……」

私は言葉を濁し、食べかけのチョココロネを袋に戻した。もう食欲はない。

「じゃあ、私はこれで失礼します」

コーヒー牛乳のパックを掴んで、さっさと席を立つ。これ以上、この男と話していると、心のささくれが酷くなりそうだった。

「あ、はい。じゃあ、また」

彼はきょとんとした顔で私を見送った。

自分の部屋に戻り、襖をピシャリと閉める。深いため息が出た。

(午前中は家にいる、ね。大学生って、そんなもんか。親にお金出してもらって、のんきなもんだ)

私の頭の中では、さっきの海の言葉がぐるぐると回っていた。専門学校の授業料と生活費のために、貯金を切り崩し、夜はバイトを探さなければと考えている自分。片や、同い年で、おそらく親の援助で大学に通い、午前中を惰眠で過ごしている(に違いない)彼。

(世間知らずの子供……いや、もう子供って歳でもないか。ただの、恵まれた、舐めた大学生)

羨ましい、という気持ちが全くないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、強い反発と、決して交わることのないだろう価値観の違いを感じていた。

はぁ。 何の苦労も知らなさそうな、あの眠そうな顔。 彼とは、きっと、深く関わらない方がいい。私はそう結論づけた。テーブルの上に置かれたままのチョココロネは、すっかり食べる気を失くしていた。

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