第十五章 溶けた決意、三月の夜
【みや】
あの夜、彼の腕の中で目覚めた瞬間から、私の心は決まっていたのかもしれない。もう、彼から離れてはいけない。そう思えば思うほど、狂おしいほど彼に会いたくなった。こんなにも誰かを強く求め、焦がれるような気持ちになったのは、人生で初めてだった。
福岡に帰る飛行機の中、私は自問自答を繰り返した。あの夜、彼の家について行ったのは、本当に弱っていたからだけだったのだろうか。
彼が「子育て、辛いんでしょ?」と核心を突いてくれた時、堰を切ったように涙が溢れたのは、誰にも吐露できなかった孤独や辛さを、彼だけが理解してくれたと感じたからかもしれない。
もしかしたら、ただ、あの頃のように誰かに頼り、甘えたかっただけなのかもしれない。
彼が「幸せになってほしい」と真剣な目で言ってくれたことが、心の奥底で凍りついていた何かを溶かしてくれたのかもしれない。
理由は、まだ判然としなかった。
ただ一つ確かなのは、私の心は、彼と離れて福岡で生きていくという現実を、もう受け止めきれなくなっていたということだ。
二日酔いの鈍い頭痛と、飛行機のエンジンの重低音。その不協和音が、私の混乱した心を象徴しているようだった。
彼の家から帰りたくなくて、ギリギリまで彼の温もりの中にいたせいで、危うく乗り遅れそうになった飛行機。その2時間のフライトは、ひどく長く、そして気持ちが悪かった。
ようやく福岡の家に帰り着き、湊の小さな手を握りしめると、愛おしさが込み上げる反面、東京での出来事がまるで夢だったかのような、そしてその夢から覚めてしまったかのような、耐え難い虚しさが私を襲った。
また、あの変化のない、けれど安全な日常が始まる。
次に私に、あんな「バカンス」が訪れるのは、一体いつになるのだろうか。そう考えると、目の前が暗くなるような憂鬱な気分になった。
あまりにも鮮烈で、甘美だった東京での2日間。
もしも私が、今も東京に住んでいたら、彼との間に、あんな風に楽しい日々が続いていたのだろうか。
もしも私が、シングルマザーという現実を背負っていなかったら、もっと気兼ねなく、彼と夜通し飲み明かすこともできたのだろうか。
もしも私が、あの時、素直に彼のそばにいることを選んでいたら……。
そんな詮無い「もしも」ばかりが頭の中を駆け巡り、彼と過ごした時間を思えば思うほど、胸は苦しく締め付けられ、夜も眠れなくなった。子供は可愛い。湊の笑顔は、私の生きる意味そのものだ。けれど、それだけでは埋められない、心の奥底にある渇望。私が「私」でいられる場所、私が「女」として求められる喜び。そういったものが、自分の中からどんどん失われていくような喪失感が、私を静かに蝕んでいった。
福岡に戻ってから2週間、ほとんど食事が喉を通らず、体重はみるみるうちに落ちていった。
このままでは、湊のお世話さえできなくなる……。
日に日に強くなる体の倦怠感と、深刻化する不眠。暗い部屋で一人、天井を見つめながら、私はこれからの人生について、そして湊の未来について、真剣に考え、そして、ついに決意した。東京に戻ろう、と。
「東京に戻る」。その言葉を心の中で呟いた瞬間、まるで鉛のように重かった体が、ふっと軽くなったような気がした。
そうだ、私は東京に戻れるんだ。
そう決めただけで、嘘のように食欲が戻り、夜も少しずつ眠れるようになった。それは、あまりにも単純で、自分でも呆れるほどだったけれど、彼に会えないというもどかしさだけが、私の心と体を蝕んでいた「恋煩い」だったのかもしれない。
体調が少しずつ回復してくると、また新たな不安が頭をもたげてきた。
東京に戻って、彼に会うのか? 会って、どうする? 親戚もいない東京で、湊と二人きりの生活。仕事と家事、そして育児を、本当に一人で両立できるのだろうか。湊は、新しい環境で幸せに暮らせるのだろうか。 いくら考えても、明確な答えは出なかった。
今の福岡での生活は、決して悪くはない。むしろ、湊の育児と私の仕事を両立させることを考えれば、両親のサポートがあるこの環境は、客観的に見て最適解と言っても過言ではなかったはずだ。私が、私のこの身勝手な欲望さえ捨ててしまえば、きっとみんなが穏やかに、そして幸せに暮らせるのだ。
そんなことは、痛いほど分かっていた。分かっているのに、私は自分の欲望を捨てきれなかった。彼に会いたい。ただ、その一点の抗えない気持ちを、どうしても抑えることができなかった。私は、自分の感情をコントロールできない、駄目な母親なのだろうか。
2月に彼とあんな形で再会し、一夜を共にしてしまったというのに、私は愚かにも、そのわずか1ヶ月後の3月にも、彼に会うための口実を作った。
東京の取引先との打ち合わせを無理やり入れ、「出張」という名目で、両親に2泊3日の間、湊を預けることにしたのだ。彼にも、「仕事で新宿に行くから、もし都合が合えば夜にでも飲まない?」と、あくまで仕事のついでを装ってLINEを送った。
「3月24日か25日空いてる?仕事で新宿行くんだけど、夜飲みいかない?」
「25日なら今のところ空いてるよ」
「んじゃ、20時くらいから空けといて」
そんな、あまりにも簡単なやり取り。
2月のあの夜、あんなにも優しく、私の全てを受け入れてくれたように感じたのに、LINEでの彼の態度は、どこか素っ気なく、冷たいような気がして、胸の奥がチリリと寂しくなった。
湊を預けてまで、両親に嘘をついてまで東京へ行くことへの罪悪感も、もちろんあった。
仕事は本当だ。でも、本当の目的は彼に会うこと。
私は、母親としての責任や、大切なものへの感謝の気持ちをどこかに置き忘れて、自分の欲望のためだけに動いている。
なんて身勝手で、ひどい母親なんだろう。そんな自己嫌悪に苛まれながらも、彼に会えるという期待が、それを上回っていた。
あっという間に、3月の中旬になった。
約束の数日前、彼から突然LINEが来た。
「なんか食べたいものある? せっかくだから予約しとくよ!」
その短いメッセージに、私の心は一瞬で舞い上がった。私のことを考えて、お店を予約してくれる。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。なんて単純なんだろう、私は。
これが、世に言う「片思い」の女の子の気持ちなのだろうか。
学生の頃、友達のそんな姿を見て、私は絶対にそんな女にはなるまいと思っていたはずなのに。相手の言葉一つで一喜一憂し、振り回されるのはごめんだと。そう思っていたはずなのに、今の私は、彼のたった一言で、沈んでいた気持ちが一気に浮き上がり、世界が輝いて見えるのだから。
そして、再会の日、3月25日。
「今日のお店予約したよ!」
と彼から送られてきた店のURLを開くと、それは私のリクエスト通りの、ピザとワインが美味しいと評判のイタリアンだった。
「もう東京いるの?」
「ううん、今、福岡の家を出たところ」空港に向かう電車の中で、私は少しだけ見栄を張って返信した。
「おお、気をつけてきなよ」
「うん、ありがとう」
そんな短いやり取りを終え、私は高鳴る心臓を抑えながら、彼のもとへと向かった。
この1ヶ月、私は湊の寝顔を見ながらも、頭の中では彼のことばかりを考えていたのかもしれない。
東京に着き、午後の仕事を慌ただしく済ませ、夕方、私は予約してくれた新宿の店へと急いだ。
地下へと続く階段を降りると、そこはレンガの壁紙がおしゃれな、隠れ家のようなイタリアンレストランだった。
壁一面にワインボトルが並び、落ち着いた照明が大人びた雰囲気を醸し出している。私の方が少し早く着いたようで、奥の2名がけのテーブル席に案内され、ソワソワと落ち着かない気持ちで彼の到着を待った。
カラン、カラン、とドアベルが鳴り、彼が入ってきた。目が合った瞬間、彼は少し驚いたような、でもすぐに柔らかい笑顔を見せた。
「おつかれさま」私はできるだけ落ち着いた声を装って、彼に声をかけた。
「お、おつかれ! 仕事帰り?」
「うん、いっぱい働いたよ」
私は努めて明るく笑いながら言った。ちゃんと、普通に話せているだろうか。
心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうだ。緊張で彼を直視できず、私はしきりにメニューに視線を落とした。
私は彼が選んだ赤ワインと同じものを頼んだ。
乾杯をして、一口飲むと、芳醇な香りが鼻に抜け、少しだけ緊張が和らいだ。
けれど、注文した料理の前菜、パスタ、メイン、その全てで私たちの好みはことごとく合わなかった。彼は魚介系が好きで、私は肉料理が食べたかった。そんな些細な違いにも、私たちは根本的に違う人間なのかもしれない、なんて思ってしまう。
お酒の力を少し借りて、私は切り出した。
「あのね、会社と話して、東京に戻ってくることにしたの」
「え、おお!? そうなんだ! ……湊くんは、どうするの?」
彼の驚いた顔。そして、すぐに息子のことを心配する言葉。
「一緒以外の選択肢はないでしょ。福岡にはいられない事情も、まあ、いろいろとね」
「お、そっか、そうだよね。……一人で、大変じゃない?」
「うん、たぶん、大変だと思う。でも、やっぱり東京に戻りたいって思っててね」
「そっか」彼はそれ以上、詳しい理由を詮索はしなかった。そのさりげない優しさが、心地よかった。
「子育てはどう? 正直、1人で大変なんじゃない?」
「ううん、そうでもないよ。湊は他の子と比べても、本当に手のかからない方だと思うから」
私は強がって見せた。
「そっか、ならよかった」
彼は安心したように微笑んだ。
「しのちゃんはどうなの? 子供欲しいとか、思ったりする?」
不意に、そんな質問が口をついて出ていた。
「うん、子供はいつか欲しいとは思うけど……結婚は、まだいいかな。したくない、っていうか」
「へえ、それはまた、叶えるのが難しそうな夢だね」
しのちゃんらしい、どこか現実離れしたことを言うなと思って、私は思わず笑ってしまった。
「私は……もう、知らない誰かと一から関係を築いたり、結婚したりするのは、いいかなって思ってる。他人と一つ屋根の下で暮らすのが、少し怖いんだよね……」
お酒の勢いもあって、思わず本音が漏れてしまった。
(やばい、しまった、また言わなくていいこと言っちゃった……)
「あ、陽介から聞いてるでしょ? 私が離婚した理由とか」
慌ててフォローしようとして、私はさらに墓穴を掘った。
今日は一段と、頭が回っていないらしい。場の空気が少し重くなる。
「いや、詳しいことは何も。聞いていいのか分からなかったし、聞かなかったよ。……聞いても、いいの…?」
彼は少し躊躇いがちに、でも真剣な目で私を見つめた。
「あぁ、うん、別に隠してるわけじゃないから……なんていうか、その、ちょっと……元夫が、暴力的だった、というか……うん」
私は言葉を濁しながら、俯いて言った。彼の前で、こんな話をする日が来るなんて思ってもみなかった。
「え……」
彼は息を呑み、言葉を失ってしまったようだった。
その驚きと、おそらくは怒りや同情が入り混じった表情を見て、私はたまらなくなって、無理やり話題を変えようとした。
「いやいや、もう本当にヤバい人だったの! マジで! なんか、あの頃は本当にきつかったけど、今となっては笑い話……的な? うん、そんな感じだから!」
「そっか……。本当に、大変だったんだな……」彼の声には、深い痛みが滲んでいた。
「はい! なので、この話はもう終わりね! 今の私は超元気だし、全然気にしてないから! もう昔の話だしさ!」
私は努めて明るく、大声でそう宣言し、無理やり次の話題を振った。
「そういえば、しのちゃん、この間、熱海に行くって言ってたよね? どうだった? いいなー、私も最近どこも行けてないから、旅行したいなー」
「港くんと、どこか行ったりしないの?」
「う〜ん、ハウステンボスとか行きたいんだけどね、まだ小さいし、絶賛イヤイヤ期に片足突っ込んでる悪ガキなもんで、なかなか勇気が出なくて」
私の言葉に、場の雰囲気は少しだけ和らいだ。すると、思いがけず彼がハウステンボスの話題に食いついてきた。
「ハウステンボス、いいよな。僕も好きだよ」
「え、お、そうなの!? あの良さ、分かってくれる人少ないから嬉しい! 私、日本で一番好きなテーマパークかもしれないくらいだよ。しのちゃん、さすが!」
「わかるわかる! 僕も、正直ディズニーとかよりも全然好き。あの、お花がたくさんあって、ヨーロッパみたいな街並みがいいんだよね」
「そうそう!そうなの! じゃあさ、今度、一緒に行こうよ!」
勢いで、でも心の底からの願いを込めて、私はそう言った。
「ん〜……」
彼の返事は、期待していたものとは違った。少しだけ困ったような、曖昧な笑み。
(あ、まただ。困らせちゃった。そりゃそうか、私には子供もいるし、軽々しくそんなこと言えないよね……)
「長崎って、いいよね。街全体がなんか、独特の雰囲気で」
彼が、気まずさを紛らわすように言った。
「わかる! 私、ハウステンボスだけじゃなくて、長崎自体が大好きなんだ。軍艦島とか、雲仙とか、いつか住んでみたいくらい!」
「あ、僕もそれ、日本一周した時に思った。長崎、住むならいいなって」
そんな、他愛のない、けれどどこか核心を避けたような会話を続けているうちに、気づけばもう24時を回っていた。
お互いに、明日も早いということは分かっていたけれど、どちらからともなく、私たちは一緒にタクシーを拾い、彼の住む1LDKのマンションへと向かっていた。
後部座席で、私たちは何も話さず、ただ窓の外を流れる東京の夜景を見ていた。彼の肩が、時折私の肩に触れる。そのたびに、心臓が小さく跳ねた。
「はい、この部屋着、着心地いいよ?」部屋に着くと部屋着を貸してくれた。
「なんかつまみ、適当に作るかなぁ」彼は少しだけ上機嫌な声で言った。
「あ、そうだ!みや作ってよ? 子育てで上達したっていう料理の腕前、披露してよ?」
彼が悪戯っぽく笑う。
「え、ヤダ、無理! しのちゃん、料理には絶対こだわる人でしょ? 私の適当な家庭料理なんて、とてもじゃないけど食べさせられないよ。お子様向けの味付けだし、お酒には全然あわないし」
「ん〜、じゃあ何にしようかな。ちょっと待っててね。みやは、くつろいでて」
そういうと、彼は冷蔵庫から缶チューハイを一本取り出し、私の前に置いた。
それは、 いつかのシェアハウスの夜、彼と二人きりで、ドキドキしながら分け合ったのと同じ、レモンの缶チューハイ。
日本中のどこの家庭にもあるような、ごく普通の缶チューハイだ。
きっと彼は、そんなこと、もう覚えてもいないのだろうけど。私の心だけが、あの頃の記憶を鮮明に蘇らせて、甘酸っぱく疼いた。
しばらくして、彼は豆腐にキムチを乗せただけの、簡単なつまみを持ってきた。
「みやってさ、意外と人に気を使うよね。もっと、自分の家みたいにしてくれていいのに」
ソファに並んで座りながら、彼がぽつりと言った。
「んー、そうかな。しのちゃんの家だし」
「なんか映画とかみる?」
彼がリモコンを手に取った。
「あ、私、来る時、飛行機と電車の中で映画3本も観てきたの。時間だけはたっぷりあったから」
「おー!すごいね。何観たの?」
「ラ・ラ・ランド。もう何回も観てるんだけど、やっぱり良すぎて。福岡からの満員電車の中で、危うく泣きそうになっちゃった。もう涙出る寸前。数年前に初めて観た時は、こんなに感情移入しなかった気がするんだけどな。時間が経つと、同じ映画でも感じ方が全然変わるから面白いよね」
「ラ・ラ・ランドかぁ、僕も好きだな。確か、昔の彼女と映画館で観た気がする。……僕も、また観たくなったな」
しのちゃんは、少しだけ遠い目をして、そう言って笑った。
「観なよ、絶対おすすめだよ。今のしのちゃんなら、また違う発見があるかもしれないし」
YouTubeで適当な音楽を流し、他愛もない会話を続けていた。
アルコールのせいか、それともこの部屋の安心感か、私の心はだんだんとろけていくようだった。彼がそっと私の肩に手を回し、引き寄せた。抵抗する理由は、もうどこにも見つからなかった。そのまま私たちは、どちらからともなく唇を重ね、そして、彼の寝室のベッドへと向かった。




