表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/24

第十四章 雨の夜

【みや】


彼、海と下北沢の喫茶店で会ってから数ヶ月。福岡での日常は、驚くほど穏やかに過ぎていったけれど、私の心の中には、あの再会が残した、どこか虚しいような、それでいてチリチリと焦げるような余韻が燻り続けていた。

湊を腕に抱き、公園のベンチで他の母親たちと当たり障りのない会話を交わしながらも、ふと、東京の喧騒や、海のあの少し大人びた横顔を思い出しては、胸の奥が小さく痛んだ。


彼と会って、私はどうしたかったのだろう。何を期待していたのだろう。結局、何も話せないまま、一方的に自分の状況だけを告げて逃げるように帰ってきてしまった。

答えなんて、出るはずもなかった。ただ、あの頃のように、もう一度彼と笑い合いたかったのかもしれない。それ以上は望んでいなかった、と自分に言い聞かせた。

私には、この腕の中にいる小さな命を守るという、何よりも大切な使命があるのだから。


地元は、昔も今も、特別好きというわけではなかったけれど、湊と二人で暮らしていくには、両親のサポートもあるこの街は悪くない、と思い始めていた。

児童館で知り合ったママ友たちとの束の間の会話も、孤独感を少しだけ和らげてくれた。このまま、この街で、湊と穏やかに生きていくのだろうか。それとも、いつかまた、あの喧騒の東京へ戻る日が来るのだろうか。その答えを探すために、無意識のうちに、私は彼に会って自分の気持ちを確かめようとしていたのかもしれない。

でも、東京に戻ったとして、何が変わる? 彼にこれ以上負担をかけたくないし、湊がこの街で築き始めた小さな世界を壊したくもない。実家が遠くなれば、仕事と育児の両立だって今よりずっと難しくなる。東京に戻りたい、でも戻れない。そのジレンマが、私を苦しめた。


そんな時、ふと街中で見かける若いカップルの、屈託のない笑顔や、寄り添って歩く姿が、ナイフのように私の胸を刺した。

いつも、心のどこかで誰かの温もりを求めている自分がいた。

けれど、「私は弱くない。誰かに守ってもらう必要なんてない。私がこの子を守るんだ」と、奥歯を噛み締めて自分に言い聞かせた。


様々な思いが交錯する日々。

それでも、朝はやってきて、私は湊のためにご飯を作り、家事をこなし、彼の小さな寝顔を見つめながら一緒に昼寝をする。

そんな、母親としての日常に没頭することで、私は自分の心の穴から目を逸らしていたのかもしれない。あっという間に季節は巡り、街にはクリスマスのイルミネーションが灯り始めた12月になった。


そんな折、高校時代の数少ない友人、愛から結婚式の招待状が届いた。

2月1日、東京で挙式するという。息子を置いて日帰りで行けるかなぁと悩んでいた私に、両親は意外な言葉をかけてくれた。

「日帰りなんて大変でしょう。湊のことは見てるから、せっかくだから1泊して、ゆっくり羽を伸ばしてきなよ」

思いもよらない提案に、私の心は一気に浮き足立った。湊を妊娠してから、夜に出かけることなんて一度もなかった。ましてや、出産してからは、息子の世話に追われ、自分の時間など皆無だった。そんな私に突然舞い込んできた、2日間の自由。東京で何をしようか。考えるだけで胸が躍った。夜通し飲むのもいい。昔よく行った下北沢のバーで、懐かしい顔ぶれと会うのもいい。いや、せっかくだから、高級スパでマッサージを受けて、ふかふかのベッドで誰にも邪魔されずに眠るのも捨てがたい。やりたいことが溢れてきて、とても一晩では足りないほどだった。


誰と会おうかと考えた時、自然と陽介や健太の顔が浮かんだ。

彼らと飲むのは、いつも純粋に楽しかったから。湊がいない今なら、昔みたいに、何も気にせず馬鹿騒ぎできるかもしれない。それは、ほんの少しだけ、悪いことのような気もしたけれど。


私は東京行きの日を指折り数え、2025年を迎えた。

1ヶ月後の愛の結婚式と、その後の陽介たちとの飲み会で、心置きなくお酒を飲むために、私は湊の断乳を決意した。それは、母親としての私と、一人の女としての私の、小さな葛藤の末の選択だった。

そして、あと1ヶ月、あと1週間と、まるで子供のようにカウントダウンをしながら、その日を待ちわびた。


2025年2月1日。

愛の結婚式は、感動的だった。純白のドレスに身を包んだ友人の、今まで見たこともないほど幸せそうな笑顔を見て、思わず涙が溢れた。

その涙には、彼女への祝福と共に、自分の現状への僅かな羨望も混じっていたのかもしれない。

そんな複雑な気持ちを洗い流すように、私はシャンパンを、日本酒を、そして焼酎を、次から次へと口に運んだ。約2年半ぶりに飲むお酒は、甘美で、そして少しだけ危険な味がした。


式が終わり、私は陽介たちと合流するために渋谷の居酒屋へ向かった。

久しぶりに会う気心知れた友人たちとの会話は、時間を忘れさせるほど楽しかった。控えめに言って、最高だった。笑いながらお酒を飲んでいると、不意に、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。


「おー、海、こっちこっち! 遅かったな!」

陽介の声に振り返ると、そこには、私が酔って幻覚でも見ているのかと思うほど、驚くべき人物が立っていた。

(なんで……彼が、海がいるの? 私、誘ってないのに……)

下北沢の喫茶店で会って以来、8ヶ月ぶりの再会。会いたい、という気持ちと、会ってはいけない、という気持ちが、心の中で激しくぶつかり合った。


「久しぶり」

動揺を隠し、私はなんとかそう言って小さく手を振った。彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を見せた。陽介と健太が間に入ってくれたおかげで、私たちは何事もなかったかのように言葉を交わし始めた。

けれど、私の心臓は、ずっと早鐘を打ったままだった。ただ、彼が隣にいるというだけで、その場の空気が変わる。楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。


その後、健太と彼の会社の同僚が飲んでいるというカラオケに行くことになった。

私は正直、少し乗り気ではなかった。カラオケ自体は嫌いではないけれど、知らない人が大勢いる空間は、昔から苦手だったからだ。

でも、まだみんなと一緒にいたかった。この楽しい夜が、私のたった一日だけの、貴重なバカンスが終わってしまうのが、たまらなく嫌だったのだ。


しかし、カラオケボックスの薄暗い部屋に入った瞬間、私は後悔した。タバコの匂いと、大音量の音楽、そして見知らぬ人々の騒がしい声。


(あ、無理だ。帰ろう。早くホテルに帰って、一人でゆっくり寝よう)

入って5分も経たないうちに、私はそう決意した。

勝手に帰るのは申し訳ないと思ったけれど、もう限界だった。


「ごめん、先に帰るね。」

それだけを彼のLINEに残し、私は誰にも気づかれないように、そっとカラオケボックスを抜け出した。


外は、いつの間にか冷たい雨がパラパラと降り始めていた。

(やだ、最悪……。傘、持ってないし、ホテルまで結構遠いのに。タクシー、捕まるかな……)

雨のせいで、酔いも手伝って、一気に憂鬱な気分になり、そんなことを考えていた時だった。ふと、右肩が軽くなっていることに気づいた。鞄がない。

(あぁ、もう本当に最悪……! ていうか、勝手に抜けて帰ってきたくせに、格好悪いにも程がある……)

私は仕方なく、震える指で再び彼にLINEを送った。

「あ、荷物、お店に忘れちゃったみたい。私のカバンある?黒いやつなんだけど」

「これかな?」彼からはすぐに、私のハイブランドの黒いバッグの写真付きの返信がきた。

「そう、それ! ごめん、今、カラオケ館の前にいるんだけど、もし良かったら持ってきてもらえないかな…? ちょっと、一人じゃ心細くて…」

送信ボタンを押した瞬間、惨めさと安堵感が同時に押し寄せ、なぜか涙が溢れてきた。

周りにとっては、なんてことない日常の一コマ。私にとっても、ほんの2、3年前までは当たり前だった、夜遊びの後の小さなトラブル。

それなのに、今の私にとっては、これが年に一度あるかないかの「バカンス」の結末なのだ。自分の人生なのに、何もかもが自分の思い通りにならない。

そんな無力感と悲しさが、どうしようもなく込み上げてきた。


ちょうどそこに、彼が息を切らして駆けつけてくれた。

「みや、大丈夫? 体調悪い?」

彼の心配そうな顔を見て、私はさらに涙が止まらなくなった。

「ううん……大丈夫」

「どうしたの? 何かあった?」

「……」私は首を横に振った。彼に心配なんかされたくない。弱いところなんか見せたくない。私は一人で大丈夫なんだから。そう、何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。

「もしかして、一人で心細かった?」

彼のその、あまりにも優しい一言で、私の中で何かが音を立てて崩れた。彼の問いに、私はただ、こくりと首を縦に振ることしかできなかった。


「お、そっか……じゃあ、タクシー拾うか。僕の家、近いから来る? 温かいものでも飲んで、少し休みなよ」

彼の言葉に、私は吸い寄せられるように「うん」とだけ答えた。

自分でも驚くほど、素直な返事だった。彼の大きな手に自分の手を重ねると、彼は何も言わずに、その手を強く握り返してくれた。


タクシーの車内で、彼は同僚に電話をかけ、先に帰る旨を伝えていた。その声を聞きながら、少しだけ申し訳ない気持ちになった。私たちは後部座席で、何も話さず、ただ手だけを固く握り合っていた。彼の体温が、冷え切った私の心にじんわりと染みてくるようだった。


彼の家に着いた。昔住んでいた小さなワンルームのアパートではなく、今は都心の、夜景が少しだけ見える1LDKのマンションに変わっていた。彼の生活も、私と別れてから変わったのだと、改めて思い知らされる。

部屋に入ると、彼は手早くインスタントのココアを淹れてくれた。

私が昔から一番好きな飲み物。それを彼は覚えていてくれたのだろうか。


「どうしたの?子育て本当は結構辛いんでしょ…?」

彼が私の隣にそっと腰を下ろして、優しい声で口を開いた。

「そんなことない」

「僕はみやには幸せになってもらいたいと思ってるんだから」

「私は今、十分に幸せだよ。つらくなんかない。しのちゃんは失礼だなぁ」


私は本当に辛いなんて微塵も思っていなかった。湊は言葉にできないほど可愛いし、元夫との腐れ縁もようやく断ち切れたのだから、むしろ幸せすぎるくらいだ。

そう、強がって見せた。


「でも、さっき、泣いてたじゃん」

「……」

「1人で子供育てるの、本当はすごく大変なんじゃないの?」

「……うん」


彼は、昔からそうだ。私が気づいていないふりをしている、あるいは自分でも気づいていない本音を、いとも簡単に見抜いてしまう。私はそれが嬉しくもあり、同時に、自分の全てを見透かされそうで、少しだけ怖いとも思っていた。

「僕は、みやが困っているなら、できることだったら何でも協力したいと思ってるよ。お子さんのことだって、もちろん」

彼の言葉は、驚くほど真摯で、温かかった。

福岡にいる私と、東京にいる彼。実際に手伝ってもらうことなんて、ほとんどないだろう。彼だって、社交辞令で言っているのかもしれない。それでも、その言葉だけで、私の心は救われた気がした。


私が少し落ち着いたのを見て取ったのか、彼は突然、冷蔵庫からゴディバのチョコレートの箱を取り出してきた。

「これ、好きだったろ? よかったら食べなよ」

「……ありがと」

その甘いチョコレートを口に入れると、強張っていた心がふわりと解けていくのを感じ、思わず笑みがこぼれた。


そして、どちらからともなく、私たちは昔のように、とりとめもない話を始めた。お互いの近況、共通の友人のこと、最近見た映画の話。気づけば、窓の外はすっかり明るくなっていた。私は、ソファの上で、いつの間にか彼の肩にもたれて眠ってしまっていた。


ふと目を覚ますと、隣には彼がいた。

穏やかな寝息を立てている。その無防備な寝顔を見ていると、どうしようもなく愛おしい気持ちが込み上げてきた。本当は、このままもう少しだけ、こうして一緒にいたかった。彼の腕の中で、安心して眠りたかった。

けれど、頭の中で、湊の泣き顔がよぎる。飛行機の時間は刻一刻と迫っていた。


帰りたくない。このまま、この温もりの中にいたい。

そんな、子供じみた願いが心を押しつぶしそうになる。

でも、私には帰る場所がある。私を待っている、小さな命がある。あの子を一人にはできない。


一瞬で現実に引き戻された。


勝手にシャワーを借り、身支度を整える。眠っている彼の頬に、そっと自分の唇を重ねた。

「ばいばい」。声に出さずに、そう呟いて、私は静かに彼の部屋を後にした。


空港へ向かうタクシーの中で、なんてLINEを送るか、何度も書いては消してを繰り返した。

そして、結局送ったのは、

「寝てたからシャワー勝手にかりちゃった、ありがとね」

という、あまりにも素っ気ないメッセージだった。

湊が、今の私にとって一番大切な存在だから。

彼とは、もう、二度と会ってはいけない。そう、強く、強く、自分に言い聞かせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ