第八章 画面越しの「おめでとう」(海の後悔)
みやと再会してから、秋が過ぎ、凍えるような冬が来ても、彼女からの連絡はぱったりと途絶えた。
共通の友人から、彼女が「婚活を始めたらしい」という噂は耳に入っていた。
正直、最初はどこか高を括っていた。
「みやに限って、そんな簡単に見つかるわけない」と。
あの意地っ張りで、頑固で、自分の「フィーリング」とやらに異常にこだわる彼女のことだ。そう簡単にお眼鏡にかなう相手なんて現れないだろうし、すぐに飽きて、またひょっこり僕に連絡してくるんじゃないか、なんて。そんな甘い期待さえ抱いていた。
でも、心のどこかでは、かすかな不安も感じていた。彼女は一度こうと決めたら、とことん突き進むパワフルさも持っている。もしかしたら、僕の知らないところで、本当に「その人」を見つけてしまうんじゃないか、と。
そもそも、僕にはみやがなぜあんなに結婚に焦っているのか、本当のところは理解できていなかった。一緒にいて楽しい、それでいいじゃないか。どうしてそんなに「形」にこだわるんだろう。30歳を前にした女性が結婚を意識するのは当然のことなのかもしれないけれど、僕にとってのみやは、そんな「普通」の枠には収まらない、もっと自由で特別な存在だったから。
彼女が「普通の女性」と同じように結婚を望んでいるという事実に、どこか寂しさを感じていたし、自分はまだ結婚なんて考えられない、という現実が、彼女を遠い世界の住人のように感じさせた。
年が明けても、彼女からの音沙汰はなかった。僕の我慢は、とっくに限界を超えていた。震える指で、彼女のLINEを開く。
「元気?」なんて、あまりにも軽すぎるだろうか。「会いたい」なんて、重すぎるだろうか。散々悩んだ挙句、結局、当たり障りのない言葉しか送れなかった。
「お暇だったら飲みに行きませんか?」
まるで初対面の人を誘うような、他人行儀なメッセージ。
情けないとは思ったけれど、これが今の僕の精一杯だった。
「今スノボから帰ってきたとこで 今日は無理ってこと」
返ってきたのは、素っ気ない、けれど彼女らしいきっぱりとした断りの言葉。
期待が大きかった分、胸に鈍い痛みが走った。「タイミングが悪かっただけだ」と自分に言い聞かせたけれど、その日から、僕はもう彼女を誘う勇気を失くしてしまった。また拒絶されるのが、怖かったのだ。
いつか、彼女の方から連絡が来るかもしれない。そんな、ほとんどあり得ないような淡い望みにすがるしかなかった。
でも、この3年間、彼女から連絡が来たことなんて一度もなかったじゃないか。今回だって、きっと同じことの繰り返しなんだろう。そんな予感が、重く僕の心にのしかかる。それでも、頭の中はぐるぐるとみやのことばかりを考えてしまい、本当にパンクしそうだった。
そんな出口のない思考に囚われたまま季節は移ろい、気づけば春の終わりを迎えていた。太陽の日差しが暖かく、街路樹の緑が目に眩しい、そんな陽気な5月だった。不意に、ポケットのスマホが震えた。画面に表示された名前に、僕は息を呑んだ。みやからだった。
「久しぶり!元気? 近々飲み行かない?」 たったそれだけの、短いメッセージ。
けれど、僕の心は一瞬で舞い上がった。
きっと、婚活で彼氏ができて、でも別れたんだろう。だから、僕に連絡してきたんだ。そう勝手に良いように解釈して、僕は浮き足立っていた。
あの頃、僕には3月頃から付き合い始めた彼女がいた。地元の同級生で、おっとりとした、とてもいい子だった。彼女と一緒にいると安心できたけれど、心のどこかで常にみやの影を追いかけていたのかもしれない。正直に言えば、みやとまた会えるなら、彼女とは別れても構わない、とさえ思っていた。
彼女は、みやがいなくなった心の穴を、一時的に埋めてくれていただけだったのかもしれない。
酷い男だと自分でも思う。
みやと会う約束をしたのは、一週間後だった。
その日をどんなに待ち侘びたことか。どんな服を着ていこうか、何を話そうか、そんなことばかり考えて、仕事も手につかないくらいソワソワしていた。そして、約束の数日前、みやから追い打ちをかけるようにLINEが届いた。
「ごめん、リスケしたい。実は最近結婚したんだけど、旦那さんが男友達と2人で会うのはあんまり良く思わないみたいで…」
は? 結婚? 誰と? いつ?
頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。スマホを持つ手が震え、画面の文字が滲んでよく見えない。
僕の心は、その瞬間、完全に平静を失った。
「お、結婚したんだ!おめでとう!」 指が勝手にそう打ち込んでいた。
それ以外の言葉なんて、思いつきもしなかった。
みやはいつもそうだ。
天真爛漫で、自由で、自分勝手で。
そして、どうしようもなく幸せそうに笑う。僕は、そんな彼女の笑顔が大好きだった。彼女は、僕がどれだけ彼女に振り回され、心をかき乱されているか、きっと気づいてもいないのだろう。小悪魔、という言葉がこれほど似合う女を、僕は他に知らない。
彼女はいつも自分の欲求に忠実だ。
僕を求めるときもあれば、あっさり突き放すときもある。
でも、僕は結局、彼女の手のひらの上で踊らされているのが、嫌いじゃなかったのかもしれない。
ニッと笑う、あの太陽みたいな笑顔が見たくて。
でも、僕は決して言わなかった。本当の気持ちを。
だって、最初に僕を気に入ったのは、みやの方だったはずだ。彼女の方が、僕のことを好きだったはずだ。彼女が「好きだ」と言ってくれるなら、僕はいつでも受け入れるつもりでいた。そう、思っていた。
心底、後悔した。
なぜ、もっと早く、自分の気持ちを伝えなかったのだろう。なぜ、彼女が僕から離れていくのを、ただ見ていることしかできなかったのだろう。
もう、全てが、手遅れだった。
友人たちを交えて、改めて飲み会が開かれた。
結婚したみやは、幸せそうだった。薬指には、シンプルな小粒のダイヤがキラリと光る上品な指輪をしていた。その光景を目の当たりにして、僕はまた、心の奥で何かが砕けるのを感じたけれど、それと同時に、こうして時間は流れていくのだと、どこか遠い場所から自分を眺めているような、奇妙な傍観者の気分でもあった。
もう飲まずにはいられなかった。浴びるように飲んだその日の記憶はないが、
「旦那さんが心配するから」
と僕達を呼んでおきながら、早くに返っていったことだけは覚えている。
僕は、本当にみやのことが好きだったのだろうか。それとも、ただ執着していただけなのだろうか。もう、それさえも分からなくなっていた。あのシェアハウスで出会ってから、名前のつけられないまま、ずるずると続けてきた僕たちの約5年間は、こうして本当に終わりを告げたのだ。
といっても、実際にみやと濃密な時間を過ごしたのは、最初のシェアハウスでの数ヶ月と、再会してからの数ヶ月だけだった。それでも、僕にとってその時間は、あまりにも鮮烈で、簡単に忘れられるものではなかった。
僕は、結婚してもみやはみやだ、なんて強がってみることにした。たまに飲みに誘ったり、どうでもいいLINEを送ってみたりもした。けれど、彼女からの返事はいつも素っ気なく、会話が続くこともなかった。僕の知っている、僕のことがあんなに好きだったはずのみやは、もうどこにもいなかった。
もしかしたら、それすら僕の都合のいい幻想だったのかもしれない。
彼女とは、いつもタイミングが悪かった。僕が連絡すれば彼女は遠くにいて、彼女から連絡が来たと思えば僕が海外にいたり。
結局、僕とみやは、赤い糸では結ばれていなかったのだ。
ただ、ほんの一瞬だけ、その糸が絡まっただけだったのかもしれない。
2023年になる頃には、僕の中で、ようやく何かが吹っ切れたような気がした。
僕には、一緒に暮らしている大切な彼女がいる。彼女は優しくて、僕のことをいつも一番に考えてくれる、本当にいい子だ。彼女を、今度こそ大切にしなければ。
もう、みやのことは忘れよう。そう決意し、僕はやっと、前に進むためのスタートラインに立てたような気がしていた。
長かったけれど、これでようやく、あの呪縛から解放されるのだ、と。