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怪異電子工学基礎実習

作者: 市松 広香

 1

 薄汚れたモルタル壁の校舎が、梅雨の曇天に溶け込んでいた。北窪優(きたくぼゆう)は、東京電気大学のキャンパスを歩きながら、どんよりとした空に自分の重たい気持ちを重ね合わせていた。目の前に広がっているはずの未来が、濃い霧の中に隠されているかのように、見えなくなっていた。

 周りの友人たちは既に進学や就職の道を決め、自信を持って歩き出している。それに比べ、自分はどこに向かっているのかすら分からない。ただなんとなく大学院に進学することを決めたが、それが本当に自分の意志なのかすら疑わしかった。いつの間にか、かつて抱いていた夢や希望は、曖昧でぼんやりとしたものになってしまっていた。

 耳元で、かすかな耳鳴りが聞こえ始めた。最初はほとんど気に留めることもなかったが、徐々にその音が彼の頭の中でこだまするように広がっていった。「本当にこれでいいのか?」という疑念が、耳鳴りと共に彼の胸を締めつけ、息苦しささえ感じさせた。

 大学生活の初めの頃は、まだ未来への期待に満ちていた。しかし、時が経つにつれ、親の期待や周囲の成功が彼の肩に重くのしかかってきた。いつしか自分が本当に何を求めているのかも忘れ、ただ周りに流されるまま、ここまで来てしまったのだ。

 耳鳴りはさらに強くなり、まるで彼の不安そのものが形を持って押し寄せてくるかのようだった。北窪は足を止め、曇った空を見上げた。未来が見えないという漠然とした恐れが、じわじわと体を蝕んでいく。彼は大きく息をつき、再び歩き出したが、その一歩一歩がどこへ向かうのか、自分でも分からないままだった。

 キャンパスは静かで、誰も彼の不安に気づく者はいなかった。耳鳴りが響く中、北窪はその重苦しい思いを抱えたまま、静かな日常の中を歩き続けていた。


 2

 生体電子機械研究室の扉を開けると、ひんやりとした空気が北窪優を包み込んだ。研究室の奥では、朸込京香(きめこみきょうか)がパソコンの画面に向かい、静かに作業をしている。

「おはようございます。」

 北窪は静かに声をかけた。朸込はふと振り返り、薄く微笑んだ。

「おはよう、北窪君。今日は少し早いね。」

「いやあ、他にやることもなくて……」

 北窪は曖昧に答えた。朸込は何も言わず、ただ彼を見つめていた。彼女の沈黙は、言葉以上に彼の心を揺さぶった。北窪は視線を外し、手近な椅子に腰を下ろした。

「朸込さんは、どうしてこの研究室に入ったんですか?」

 朸込は少し首をかしげ、軽く笑った。

「私は、ここの研究室で扱ってるテーマに興味があったから、入っただけよ。」

「興味があったから……」

 その言葉は、北窪の胸に静かに響いた。興味。彼にはその感覚が遠いもののように感じられた。何かを知りたいから、それに近づいていくという感覚を、彼はずっと忘れていたように思えた。

「北窪君はどうしてこの研究室に来たの?」

 今度は朸込が問いかけた。その声には優しさがにじんでいたが、どこか探るような響きも含まれていた。

「ただ、何となく。ここを第一希望にしておけば、外れることもないと思って……」

 北窪は正直に答えた。朸込の前で嘘をつくことは、意味がないことのように感じられた。朸込は短い沈黙の後、ゆっくりと微笑んだ。

「まあ、確かに、人気がある研究室ではないわ。この研究室に来るのは、わざわざ厳しいことで有名な先生の下で研究しようとする変人か、成績が悪くて選択肢がなかった学生のどちらかだもの。北窪君は、そのどちらでも無い感じに見えるけど。」

「そう、ですかね……」

 北窪は、朸込の言葉にどう返すべきかわからなかった。

「まあ、せっかく『変なところ』に来たんだから、楽しんでみたらいいのよ。」

 その時、研究室の隅から微かな音が聞こえた。まるで何かが擦れるような音。北窪は驚いて顔を上げたが、朸込は動じることなく、再びパソコンの画面に目を戻した。

「うちの研究室では、よくあることよ。」

 朸込は静かに、そしてなぜか楽しそうに、そう言った。


 3

 生体電子機械研究室は、まるで長い間放置された洋館のような静けさが漂っていた。人の気配は希薄で、ここを訪れる者も限られている。時間が止まったかのような錯覚を感じるほどの静寂に包まれ、外の世界と切り離された別の空間にいるかのようだった。

 ほとんどの学生は、研究室に顔を出すことすらなく、名前だけが出席簿に残されている。そんな無責任な存在がいることは、北窪にとって驚くことでもなくなっていた。しかし、その中で唯一際立っていたのが朸込京香だった。彼女は修士2年生で、すでに博士課程へ進むことが決まっている。朸込の存在は、ただその場にいるだけで目を引いた。

 彼女のスタイルは、図形的な美しさを持っていた。切りそろえられた黒髪のボブ、大きな丸眼鏡。そして、その胸元にある豊かな曲線。北窪の視線は、大きな天体の引力に引き寄せられるかのように、自然にそこへ向く。

 彼は、その存在感に圧倒され、まるで何か秘密を覗き見てしまったかのように、すぐに視線を逸らした。だが、一度意識してしまうと、どうしても彼女のその部分に目が行かざるを得ない。

「北窪君、今日は何をする予定なの?」

 朸込の声に、彼は現実に引き戻された。

「あ、えっと……特に決まっていません。前回の実験データを整理しようかなと思ってるんですが……」

 北窪は、言い訳のような言葉を口にした。視線は一瞬、再び彼女の胸元に吸い寄せられたが、すぐにそれを振り払うように目を眼鏡に移した。

「そう。それは良いわね。」

 朸込は微笑み、そのまま自分の作業に戻った。その声には優しさがありながら、どこか突き放すような冷たさも含まれていた。その冷たさは、北窪の中で燃え上がる衝動を瞬時に冷ました。

 彼はパソコンの画面をぼんやりと眺めながら、何気なくネットサーフィンをしていた。特に興味を持つこともなく、ただ指先が画面をスクロールしていた。その時、ふと「灯蛾」という言葉が目に飛び込んできた。

 灯に引き寄せられる蛾。光に魅了されながらも、その光に焼かれて命を失う存在。それは、まるで自分の姿そのもののように思えた。朸込京香という存在に引き寄せられながら、その光が彼に何をもたらすのか、北窪にはまだ分からない。

「灯蛾……」

 北窪は、その言葉を口の中で反芻した。それはまるで、研究室の静寂に溶け込み、消えていくかのようだった。北窪はふと、朸込の姿に目を向けた。彼女は目の前にいて、手を伸ばせばその光に触れることができるかのように感じたが、その光は自分を破滅に導くような気もして、手を伸ばせないでいた。


 4

 昼下がりの薄曇りの日、研究室の空気は一層重たく、何かが潜んでいるかのような不穏な気配が漂っていた。北窪優は、一人静かな室内でパソコンに向かっていた。朸込京香は外出しており、研究室には彼以外の気配は感じられない。だが、その静けさが、逆に彼の不安をかき立てていた。

 耳鳴りが再び頭を叩き始める。まるで誰かが彼の内面を覗き込み、その不安を拡大させようとしているかのようだった。周囲の物音はすべて遠くに感じられ、北窪はこの空間に自分だけが取り残されているような錯覚に襲われた。

 その時、突然、スピーカーから奇妙な音が響き始めた。甲高く、何かが擦れ合うような音が、静けさを一瞬で引き裂いた。金属が歯ぎしりをしているような不快な音色は、北窪の背筋を凍らせ、彼の体は反射的に硬直した。

「……何だ?」

 かすれた声で呟いたが、その声はすぐにかき消された。音は徐々に大きくなり、まるで見えない何かが彼に迫り来るかのように感じられた。心臓が早鐘のように打ち始め、冷たい汗が背中を伝って流れた。恐怖がじわじわと広がり、北窪はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、足はまるで鉛のように動かなかった。

 スピーカーからの不気味な音は、まるでこの無人の空間に何かが確かに存在していることを告げているかのようだった。北窪の視線はスピーカーに釘付けになり、その不協和音が彼の頭の中で反響するたび、彼の恐怖は確実に増幅していった。

 その時、緊張の糸を断ち切るように、バン、と研究室の扉が開いた。北窪の心臓が止まりそうになる。だが、そこに立っていたのは、朸込京香だった。彼女の姿が視界に入ると同時に、音はピタリと止んだ。まるで、それまでの出来事がすべて幻であったかのように、静寂が再び部屋に戻ってきた。

 北窪は放心状態のまま朸込を見つめた。彼女はまるで何も感じていないかのように、淡々と研究室に足を踏み入れた。

「どうしたの? 北窪君、顔が真っ青よ。」

 朸込は少し心配そうに彼を見つめた。

「さっき……変な音が……そのスピーカーから……」

 北窪はようやく口を開いたが、その声は自分の耳にも弱々しく聞こえた。自分が現実と幻想の狭間に取り残されているような感覚に囚われていた。

「音?」

 朸込は首を傾げる。

「私は何も聞こえなかったけど。」

 その言葉に、北窪の不安はさらに募った。自分の聞いたものは何だったのか、本当に現実だったのか。それとも、ただの幻覚だったのか。彼は朸込の言葉を疑うこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。

「……気のせいかもしれません。」

 北窪はようやくそう言ったが、胸の奥に残る恐怖は、未だに彼を蝕んでいた。朸込はそんな彼の様子をじっと見つめた。

「何か気になることがあったら、いつでも言ってね。私でよければ力になるわ。」

 研究室には再び静寂が訪れたが、北窪の心の中では、あの甲高い音がまだ鳴り響いていた。


 5

 北窪優は、心の中に抱える不安を少しでも解消するために、朸込京香の机へと向かっていた。彼女が自分に答えをくれるかもしれない——そんな期待が彼の足を自然に早めていた。ここ最近、研究室で起こる奇妙な現象や、自分自身の将来に対する不安が膨れ上がり、彼はそれを一人で抱え込むには限界を感じていた。

「朸込さん、少しお時間いいですか?」

 彼は少し緊張しながらも、勇気を出して声をかけた。朸込は顔を上げ、優しく微笑んだ。

「どうしたの? 何かあった?」

 北窪は一瞬、言葉に詰まったが、意を決して話し始めた。

「実は……将来のことや、ここで起こっていることについて、どうすればいいのか分からなくて……」

 朸込はしばらく彼の話を静かに聞いていた。

「将来のことについては……私が言えることはあまりないわ。」

 彼女は肩をすくめ、軽く笑った。

「私だって、よくわかってないもの。なるようにしかならないって思ってるから、とにかく全部、全力でやるだけよ。」

「それでも……ここで起こっている現象については、何か知っているんじゃないですか?」

 朸込は一瞬黙り込み、視線を落とした後、静かにうなずいた。


「この研究室には、〈隙間の怪〉がいるの。」

 朸込の声には重みがあった。

「それは、心の中にある不安や恐れが形を成す存在。隙間に潜み、電子機器やこの空間に干渉してくるもの。先生が言うには、30年前から、この研究室は〈ノイズまみれ〉だったそうよ。でも、私は単なるノイズではないと思ってる。現に、私には特に実害がないけど、あなたには何かあったんでしょ? もし、本気で何とかしたいと思っているなら、電子工学のことも、怪異のことも、何でも教えるわ。学んで、実践することが、唯一の対抗策だから。」

 朸込の話に、北窪は一瞬、信じがたい思いに駆られた。〈隙間の怪〉? まさか、オカルトの話をしているのか? 彼女の冷静で知的な外見とはあまりにかけ離れたこの発言に、心の中で疑念が膨らんだ。だが、それを口にする勇気はなかった。ただ、どこか信じがたい気持ちと、同時に湧き上がる恐怖心が入り混じっていた。

 そしてもう一つの問題——電子工学。北窪は、電子回路に対する苦手意識を抱いていた。授業でも、いつも何とか及第点を取るのが精一杯だったし、研究においても回路設計は得意ではない。それに、今回の怪異のような未知の現象をどう電子工学と結びつければ良いのか、見当もつかなかった。

 彼の頭の中では、朸込の提案に対して強い抵抗感が渦巻いていた。彼女が言っていることは、本当に現実的なのか?朸込は本当にこれが科学的に対処できると信じているのだろうか?それとも、彼女がからかっているだけなのか……?

「いや、でも……」

 朸込は一瞬、表情を変えた。冷ややかな笑みが彼女の口元に浮かんだかと思うと、少し鋭い目で北窪を見つめた。

「じゃあ、教えなくてもいいわよ。」

「い、いや、教えてください!」

 北窪は慌てて声を上げた。ここで突き放されてしまったら、何もかもが終わってしまう気がした。

 朸込は満足げに頷き、「じゃあ、少し待っててね。資料を作るから。」と告げた。

 北窪はホッと胸を撫で下ろし、感謝の気持ちを言葉にした。

「ありがとうございます。その……何か、お返しできることがあるといいんですが……」

 朸込は少し考える素振りを見せた後、にっこりと笑った。

「どこかのタイミングでごはんを奢ってくれれば、それでいいわ。」

「え、ごはんですか?」

 北窪は意外そうな表情を浮かべた。

「そう。なんかいい感じのお店探しておいて。」

 北窪は小さく頷いた。

「分かりました。それでいいなら、ぜひ……ご馳走させてください。」

「期待してるからね。そうだ、希望を言っておくと——」

「ま、待ってください。メモするんで……」

 研究室の静かな空気の中で、彼の胸には新たな不安と期待が入り混じっていた。


 6

 北窪優は、朸込京香の言葉に促されるように、毎日のように電子工学の勉強に励むようになっていた。最初は、美人の朸込と少しでも仲良くなりたいという下心だけが、彼の背中を押していた。だが、朸込が用意した資料――プレゼンテーションのスライドは、文字が大きく、説明は定性的で、まるで子供に教えるような優しさがそこにあった。

「ここではね、スパイクみたいな高周波ノイズが問題になることがあるけど、こういう時はコンデンサを使って除去するのが基本よ。」

 朸込は、指先でスライドの一部分を示しながら、丁寧に話を進めていた。彼女の口調は柔らかく、北窪の心にスッと入ってくる。まるで、彼の知らなかった世界の扉がゆっくりと開かれていくような感覚だった。

「なるほど、そういうことなんですね……」

 北窪は、ふと呟いた。電子工学に対して感じていた拒絶感が、少しずつ薄れていくのを感じた。朸込が示す世界が、彼にとっては新鮮でありながらも、どこか心地よいものであった。

「簡単でしょ?」

 朸込は、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、これまでに北窪が見たことのないような、喜びに満ちたものだった。

「北窪君がわかってくれると、私も嬉しいわ。」


 ある日、朸込は北窪に新しい話題を持ち出した。

「今日はスピリットボックスについて話そうと思うの。これは、一般的な『スピリットボックス』よ。」

 朸込が机の上に置いたのは、ただのラジオだ。

「ま、ただのラジオよね。でも、これが霊界との交信に使えるそうよ。ノイズに弱いものほど、霊的なものに干渉しやすいというのが、私の仮説。もしそうだとしたら、北窪君は、FMとAM、どっちが霊的なものに干渉しやすいと思う?」

 北窪は少し考え込んだ。朸込の問いかけは、彼の知識を試しているようでもあり、挑戦的でもあった。

「FMは周波数変調だから、振幅に乗るノイズに強いですよね。だから、もしノイズを避けたいならFMですけど……朸込さんの言うように、霊的なものを捉えたいなら、AMの方がいいんじゃないですか?」

 朸込は彼の答えに満足そうに頷いた。

「そうね、よくわかってる。」

 彼女は、おそらく3Dプリンタ製と思しき白色の直方体を取り出し、それを彼の前に差し出した。

「これは、私が作ったものよ。本当に微小な信号を捉えたいなら、ノイズに弱いだけじゃなくて、それらを積極的に拾いにいくべきでしょう? 私が思うに、ラジオよりも、確率共鳴を使った方がスピリットボックスとして機能しやすい。これは、中にホワイトノイズを流し続けるだけの回路が入った箱だけど、何か他のノイズがあれば、それを音声として出力してくれるわ。」

 北窪は不安げにその箱を見つめた。箱の中からは、かすかに何かが囁くような音が聞こえてくる。それはまるで遠くの世界から届く幽かな声のようだった。

「聞こえるでしょ? 『助けて』って。」

 朸込は、彼に促すように微笑んだ。

 北窪は、朸込の期待に応えようと、その音に耳を澄ませた。そして、恐る恐る頷いた。

「……はい、聞こえます。」

 その瞬間、朸込は意地悪そうに微笑んだ。

「ふふ……それ、たぶん錯聴よ。」

 その言葉が放たれた瞬間、北窪の顔は一気に赤くなった。彼は、自分が彼女の共感を得たい一心で、口車に乗せられた以上に、そのことを彼女に見透かされていたように思えて、恥ずかしかった。


 7

 毎日、決まって11時になると、朸込京香はふと作業の手を止めて呟く。

「時間ね。」

 その言葉が、彼女にとっての合図のように響くたび、北窪優は時計を確認し、自然と彼女の行動に注意を向けていた。

「朸込さん、毎日この時間にどこへ行くんですか?」

 彼はある日、ついに尋ねてみた。朸込は少し驚いたように目を見開いたが、やがて穏やかに微笑んだ。

「食堂が開く時間だから、昼ご飯を食べに行ってるのよ。一緒に行く?」

 北窪に誘いを断る理由はなかった。

「行きます。」

 食堂に向かう途中、朸込はどこか楽しそうに歩いていた。11時のキャンパスはまだ静かで、学生たちは大半が授業を受けている。食堂のドアをくぐると、ほんの数人の利用者がいるだけで、どこか落ち着いた空間が広がっていた。

 北窪は、食券機の前で少し迷っていたが、朸込は迷うことなく、カツ丼の食券を一枚、それに加えて「大盛り」の食券を二枚、立て続けに購入した。その光景に、北窪は思わず目を見張った。彼女が渡した食券を手にした食堂のスタッフは、それが日常の光景だといわんばかりに、すぐに大盛りの大盛り、つまり巨大なカツ丼を用意し始めた。

「大盛りの、大盛り、ですか……?」

 北窪は、その尋常ならざる量に圧倒された。

「ええ、いつもこうしてるのよ。」

 朸込は、テーブルに運んできた巨大な山の前で手を合わせる。

「いただきます。」

 北窪は、自分の前にある料理と、朸込の前に置かれた巨大なカツ丼とを比較せずにはいられなかった。まるで、自分の食べているものがお子様サイズであるかのように感じさせられる量の差がそこにあった。しかし、朸込はそんなことを気にする様子もなく、箸を持ち、ぱくぱくと食べ始めた。

 彼女が一口ずつ食べ進める様子を眺めているうちに、北窪の頭にあるキャラクターの姿が浮かんできた。ピンク色で、丸くて、可愛らしいけれど、どこか底知れない存在感を持ち、何よりも食べることが大好きなあのキャラクター。朸込の食べる様子は、まるでそのキャラクターが具現化したかのように見えた。そして、彼の視線は自然と彼女の豊かな胸元へと引き寄せられていた。

 こんなに食べてるから、こんなに大きいのだろうか——そんな妄想が彼の頭の中に広がり、すぐに振り払おうとしたが、視線はどうしても彼女に向かってしまう。

「いつもこんなに食べるんですか?」

 北窪は、動揺を隠すために、わざと当たり障りのない質問をした。朸込は、カツ丼を口に運びながら軽く頷く。

「ええ、うどんでもラーメンでもカレーでも何でも、いつも大盛りの大盛りね。食べるのが好きだし、たくさん食べると元気が出るの。」

「すごいですね……」

 会話は続かず、二人は黙々と食事を続けた。そして、あれほど量に差があったはずなのに、結局、二人はほぼ同時に食事を終えた。

「美味しかったわ。」

 朸込は、最後の一口を飲み込んでから、満足げに言った。北窪は、その言葉に小さく頷きながら、これほどの量を食べたにも関わらず、全くそれを感じさせない朸込の姿に、再びピンク色のまん丸なキャラクターの姿を重ねるのだった。


 8

 朸込京香は、研究室の静かな一角で、北窪優に声をかけた。

「今日は筋電図計測装置を試してみたいの。ちょっと北窪君の筋肉で測らせてもらえない?」

 北窪は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。筋トレを日課にしている彼は、自分の筋肉を見せることに抵抗はなかったし、むしろ朸込に日頃のトレーニングの成果を見てもらいたかった。

「もちろん、いいですよ。」

 彼らは、実験室の代わりに使っている半無響室に向かった。

「ここはね、本来であればスピーカの周波数特性とか、あとはマイクの指向性とかを測るための部屋なんだけど……そういうテーマの研究をやってる研究室ってないのよね。だから、借り放題ってワケ。今は実質、うちの研究室の第二の拠点よ。」

 その場所は外界の音をすべて遮断し、まるで別世界に閉じ込められたかのような静寂が広がっていた。朸込は、皮膚表面に電極を貼りたいからこれに着替えてほしい、と話し、北窪にタンクトップを渡した。彼が指示に従い着替えると、朸込の視線が、北窪の露わになった筋肉に注がれた。彼女の目が、まるでその筋肉を味わうかのように、ゆっくりと動いていくのを彼は感じた。彼女の表情には、何か抑えきれない喜びが宿っていた。

「ああ、すごい。北窪君……素晴らしいわ。」

 彼女の声はどこか熱っぽく、北窪の心に微かなざわめきを呼び起こした。

 朸込は、慎重に北窪に電極を貼り始めた。隆起した筋肉を確認するために彼女の手が滑らかに筋の上を撫でると、その感触がまるで電気が走るように彼の体に伝わった。

「ん……ここね。」

 彼女の指が北窪の筋肉をなぞるたびに、その指先から伝わるひんやりとした感触が、熱となって彼の体全体に広がっていく。全ての電極を貼り終わると、朸込は北窪の体から離れて、部屋の隅に配置されたモニターに向かっていくが、その動きには名残惜しさが見え隠れしていた。

「……じゃあ、筋肉を収縮させて。」

 朸込は息を荒くしながら、モニターに表示された筋電図を見つめた。北窪が指示通りに筋肉を収縮させると、モニターの線が大きく上下した。それを見た朸込は、思わず歓喜の声を上げた。

「はぁ……最高。すごくきれい。」

 北窪は調子に乗って「鍛えてますからね。そ、その……もっと触ってもいいですよ。」と話した。

 その瞬間、朸込の目に冷静さが戻った。

「ん? いえ、筋電はきれいに計測できているから、もう筋肉の位置を確かめる必要はないわ。あなたの筋電は、振幅の変化が大きくて、とてもわかりやすいの。多分、脂肪が少ないから、筋電が測りやすいのね。」

 その冷たい解説が、まるで氷水をかけられたかのように、部屋の熱気を一気に冷ました。北窪は、急に現実に引き戻されたような気がして、先ほどの雰囲気が失われたことに落胆した。彼は、自らの発言を後悔しながら、朸込の説明を無言で聞いていた。


 9

 ある日、朸込京香は研究室で資料を整理しながら、ふと北窪優に声をかけた。

「北窪君、ちょっと大事な話があるの。」

 その声色には、いつもと違う慎重さが含まれていて、北窪は不安な予感を覚えた。

「何でしょうか?」

 朸込は、机の上に置かれた一冊のノートを手に取りながら、彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「私、7月の第四週にシドニーで開かれる国際学会に出張することになったの。だから、その間は、北窪君に研究室を任せることになるわ。先生も一緒に出張だから、その期間に他の学生たちが来ることは、もはやないでしょうね。」

 その言葉は、北窪にとって予想外のものだった。彼女が不在になるという現実に、彼の胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がった。

「え……僕一人ですか?」

 ええ、と朸込は、軽く微笑みながら続けた。

「これまでに教えた知識があれば、何があっても対処できるはずよ。とにかく行動に移して、自分の知る限り全てを試してみるの。それで、大抵のことは何とかなるわ。」

 その言葉には、揺るぎない信頼が込められていた。しかし、北窪はその信頼が重く感じられた。朸込がいない間、自分一人で研究室を守ることができるのか。不安がじわじわと彼の心を蝕んでいく。

「でも、本当にできるか……」

 北窪は、自分の声が弱々しく響くのを感じた。朸込は、彼の不安を見透かすように、優しく頷いた。

「君ならできるわ、北窪君。」

 その言葉は、北窪の胸に少しの安心をもたらしたが、それでも不安は完全には消え去らなかった。彼女がいない間、自分は本当にやり遂げることができるのだろうか。彼はその不安を抱えながらも、朸込の信頼に応えようと決意した。

「……分かりました。やってみます。」

 北窪は、覚悟を決めたように頷いた。

「よろしくね。きっと大丈夫よ。」

 しかし、彼女がいなくなるという現実が迫る中で、北窪の胸には、どうしようもない不安が募った。彼はその感情を抑え込みながらも、朸込の期待に応えたいという思いだけを頼りに、自分を奮い立たせた。


 10

 朸込がシドニーへと旅立った後、北窪優は研究室の静けさに耳を澄ませながら、日々を過ごしていた。彼女の不在は、彼にとって思った以上に大きな穴を残した。研究室はいつもと変わらぬ光景だったが、時計の針が動く音さえ気になってしまう。

 最初の数日は何事もなく過ぎていった。北窪は、彼女との勉強会で使ったノートをお守り代わりに身に着けて、日常を維持しようと身構えていたが、彼女の不在が信じられないほど、穏やかな日々が続いていた。

 ——それは朸込が帰国する前日のことだった。北窪は、いつものように研究室に座り、データの整理をしていた。突然、スピーカーから不快な音が響き始めた。あの甲高い、何かが擦り合わさるような音——一ヶ月前に聞いた、あの音だ。

「……またか。」

 北窪はその音に心臓が跳ね上がるのを感じた。恐怖が一気に胸を締め付け、彼の手は止まった。冷たい汗が額ににじみ出る。スピーカーは、まるで何か不気味な存在がこの世のものではない声を発しているかのように、音を響かせ続けていた。

「落ち着け……」

 北窪は、自分に言い聞かせた。朸込がいれば、この音はすぐに止んだ。しかし、今日は違う。朸込はここにいない。彼女が現れることはない。北窪は、それを痛感し、より一層の孤独感に苛まれた。

 音は次第に激しさを増し、彼の耳をつんざくようだった。まるでスピーカーの向こう側から、何かがこちらに向かって進んでくるかのように。その何かが、隙間から這い出して、彼のすぐ傍に迫っているような感覚が、彼を支配していた。

「くそ……!」

 北窪は、思わず声を上げた。手が震え、呼吸が浅くなる。朸込が教えてくれた対処法を思い出そうとするが、恐怖が彼の思考をかき乱し、頭の中が真っ白になった。

「どうすれば……」

 彼は、朸込の言葉を必死に思い出そうとしたが、その声は遠くかすんで、今の彼には届かない。音はさらに大きくなり、研究室の四方から響いてくるように感じられた。

 北窪は、椅子から立ち上がり、部屋の中を見渡した。しかし、どこを見ても、何かが見えるわけではない。ただ、その音が彼の心を引き裂き、恐怖が彼の意識を支配しているだけだった。

 朸込はここにいない。北窪は、一人でこの怪異に立ち向かわなければならない。彼の胸に、冷たい現実が突き刺さるようだった。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、彼は何とか自分を奮い立たせようとした。しかし、その決意がどこまで持つのか、彼自身にも分からなかった。

 スピーカからの音は、なおも鳴り続けている。それはまるで、彼の心の奥底に眠る恐怖を具現化したかのように、彼を追い詰めていた。北窪は、これが本当に現実なのか、それとも自分の妄想なのか、その境界さえも見失いかけていた。


 11

 スピーカーから響き続ける不気味な音に、北窪優の全身は冷たい汗で濡れていた。まるで、目に見えない手が彼の心臓を握り締めているかのように、恐怖が全身を支配していた。しかし、彼の心の奥底で、朸込京香の声がかすかに響いてきた。

「とにかく行動に移して、自分の知る限り全てを試してみるの。それで、大抵のことは何とかなるわ。」

 その言葉が、彼の中に小さな灯火を灯した。北窪は震える手を無理やりに抑え込み、朸込が教えてくれたことを思い出そうとした。

「自分の知る限り、全てを試す……」

 彼は自分に言い聞かせるように呟いた。スピーカーの前に立ち、恐る恐るその電源スイッチに手を伸ばした。指先がスイッチに触れた瞬間、音が一瞬止まるような錯覚を覚えたが、それは単なる幻だった。

 冷静さを装いながら、彼はスイッチをオフにした。しかし、部屋に広がる音は全く衰えず、むしろその音が強まっているように感じられた。北窪は慌ててスピーカーのケーブルを引き抜いた。

 だが、ケーブルを抜いても、音は止まらなかった。むしろ、さらに不気味な響きを伴い、部屋全体に染み渡っていく。北窪は目を見開き、絶望的な思いに囚われた。

「そんな……無茶苦茶だ……」

 彼は呆然とスピーカーを見つめた。スピーカーからは、依然として甲高い音が鳴り続けている。

「何が……どうなってるんだ……」

 北窪の声はかすれ、喉の奥で途切れた。彼の心は、まるで底なしの闇に飲み込まれていくようだった。全てを失ったような感覚が彼を包み込み、彼の意識はぼんやりと霞んでいく。朸込の言葉も、彼の中から遠のいていくかのようだった。

 スピーカーの音は、依然として彼の耳をつんざくように響き続けていた。それは、ただの機械音ではなく、まるで彼の心の奥深くを抉り取るかのような音だった。北窪はその場に立ち尽くし、何もできずに音に圧倒され続けた。彼の中にあった最後の希望の灯も、その音によって消し去られていくかのように感じられた。


 12

 北窪優は、研究室の中で立ち尽くしていた。スピーカーから流れ続ける不気味な音が、彼の心を鋭く切り裂いていた。電源を切り、ケーブルを抜いたのに、それでも鳴り響く音。まるで何か見えない存在が、彼の恐怖を楽しんでいるかのようだった。

「どうすれば……」

 彼の声は、自分自身に問いかけるようにかすれた。答えが返ってくるはずもなく、ただ音が空間を支配していた。恐怖が膨れ上がり、彼の足は無意識に後ずさりを始めた。

「もう、無理だ……」

 北窪は、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、研究室のドアの方へと歩み寄った。逃げ出したい、その一心で足が動いていた。朸込がいない今、彼を助ける者は誰もいない。ここから逃げ出してしまえば、この恐怖からも解放されるかもしれない。

 その瞬間、スピーカーから響くノイズの中に、かすかな声が混ざったように聞こえた。

「なら、逃げてもいいわよ。」

 それは、朸込京香の声だった。冷たく、穏やかな声が、彼の耳に届いたかのようだった。北窪は驚愕のあまり、立ち止まった。朸込がここにいるはずがない。これこそ錯聴に違いない。だが、その錯聴は、彼の心に深く突き刺さった。

「逃げても……いい……」

 北窪は、その言葉を反芻した。朸込の声は、まるで彼の弱さを試すかのようだった。逃げてしまえば、この恐怖からは逃れられるだろう。しかし、その先に何が待っているのか。

「ここで逃げたら……何が残るんだ?」

 彼は自問した。自分を守るために逃げる。それは生存本能として当然かもしれない。だが、もし今逃げてしまったら、彼の中に残るのは、ただの空虚な自己嫌悪と後悔だけではないか。

 朸込の言葉が再び頭に響く。だが、その声には裏があるように感じられた。それは、逃げるという選択肢を彼に与えつつも、その選択が本当に正しいのかを問いかけているようだった。思えば、最初に北窪が怪異について尋ねた時にも、似たようなことを言われた。

 北窪は、足を止めた。逃げるべきか、立ち向かうべきか。心の中で葛藤が渦巻く。だが、彼の中で一つの結論が徐々に固まり始めていた。

「逃げていいはずがない……」

 彼は小さく呟いた。もし、解決できなかったときに、自分の身に何が降りかかるかわからない。あるいは、死んでしまう予感さえする。だが、ここで立ち向かわなければ、生きる価値さえも失ってしまう気がしてならなかった。

 北窪は、再びスピーカーに向き直った。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、彼はその場に立ち続けた。逃げ出すことはできた。しかし、彼は自らの意思でその選択を拒んだ。朸込の声が、錯聴に過ぎなかったとしても、彼の中に残る何かが、それに答えるように燃え上がった。


 13

 北窪優は、スピーカーの不気味な音に追い詰められていた。耳をつんざくような高周波の音は、彼の思考をかき乱し、冷静さを奪っていく。恐怖が全身を覆っていたが、彼は必死に自分を保とうとした。

「逃げるのは、駄目だ。でも、立ち向かうと言ったって、どうすればいいんだ……?」

 これまでに学んだ知識が浮かんでは消える。北窪は震える手でスピーカーを乱暴に開け、中の構造を確かめた。とにかく、できることを試すしかない。スピーカに繋がるケーブルを探し、学んだことを頭の中で整理する。そして、目の前にある道具の中から、コンデンサを手に取り、ケーブルに接続した。

「頼む……これで……」

 そう呟きながら、コンデンサを接続する。瞬間、耳を裂くような音が一瞬途絶え、北窪は一瞬の静寂を感じた。心臓が早鐘を打つ中で、彼は音が止まったのだと確信しかけた。

 だが、その瞬間、再び音が蘇った。今度は断続的で、途切れ途切れに、まるで何かがそこから出てくるため何度も体当たりをしているかのように鳴り響く。

「……まだ止まらないのか……?」

 北窪は再び焦燥感に襲われた。ノイズは、不規則に鳴り続け、そのたびに彼の鼓膜を震わせた。

 しかし、コンデンサが接続されてからの音は、確実に以前とは違っていた。音の持続力が弱まり、何かが抵抗しているように、音が出たり止まったりしている。北窪はその変化に気づき、手元にある他の道具に目を移した。このまま朸込に教わった他の手法を片っ端から試していけば、きっと完全にノイズを止められるはずだ。

「次は、これを……」

 そう考えた瞬間、ふいに音が完全に止まった。

 静寂が、部屋中に広がった。それは不気味なほど静かで、まるで時間が止まったかのようだった。北窪はしばらくその場に立ち尽くした。耳の奥で感じていた不快な振動が、今は完全に消えている。

「……やったのか?」

 彼は恐る恐る周囲を見回し、再びスピーカーに目を向ける。音はもう鳴っていない。研究室は、静寂に包まれていた。

 北窪は息を整えながら、少しずつ実感が湧いてきた。自分の手で、この異常な現象を沈静化させたのだ。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、なんとか立ち向かい、結果を出した。

 スピーカーは今、ただの機械としてそこに佇んでいる。北窪は、ようやく肩の力を抜き、静かな部屋の中で深呼吸をした。


 14

 朸込京香がシドニーから戻ってくる日の朝、研究室はいつもと変わらぬ静寂に包まれていた。

「ただいま。北窪君。」

 北窪は、研究室に入ってきた朸込に挨拶を返す。

「えっと、おかえりなさい。朸込さん」

 朸込は柔らかく微笑み返したが、その目には何かを探るような光が宿っていた。

「どうだった? 私がいない間、何かあった?」

 北窪はその問いに一瞬ためらったが、すぐに意を決して口を開いた。

「実は……またスピーカーから変な、甲高い音が出てきて……でも、何とか対処しました。」

 朸込は北窪の言葉を聞き、少し驚いたように目を見開いた。

「あら、どうやって対処したの?」

 北窪は、どこか誇らしげに胸を張りながら答えた。

「コンデンサを使いました。スピーカーの間に、こう、挟むように入れて……」

 その言葉を聞いた朸込は、微笑みを浮かべながら頷いた。

「なるほど。高い音を黙らせたいなら、ローパスフィルタのようにコンデンサを入れるのは良い選択だわ。」

 ちょっと見せて、と朸込はスピーカを手に取る。北窪は、朸込の言葉に安心感を覚えていた。自分の判断が間違っていなかったこと、そしてそれが朸込も納得する手段だったことで、彼の胸には小さな自信が芽生えた。

「でも……」

 朸込は、北窪が細工をしたスピーカの中身を覗き、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら続けた。

「このコンデンサ、機能してないわよ。ちゃんと接着できてないわ。」

 北窪は一瞬驚き、顔を赤らめた。

「え……そうだったんですね。じゃあ、なんで何とかなったんだろう……」

 朸込は軽く首を振り、再び柔らかな微笑みを浮かべた。

「怪異だって、物理法則に従って動いてるものじゃないし、そうした不安定な存在が相手なら、『おまじない』でも効果があるものなのよ。とにかく、よくやったわね。」


 15

 八月の蒸し暑さが、東京電気大学の研究室にもじわじわと染み込んでいた。北窪優は、机に向かいながら、朸込京香が隣で何か資料を整理しているのを横目で見ていた。シドニーから帰国して数週間が経ち、日常が再び戻ってきたように感じられるが、その間に彼の中で何かが変わったことを、北窪自身も感じていた。

「それで、北窪君。やりたいことは見つかったの?」

 朸込が突然問いかけた。彼女の声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。

 北窪は少し考え込み、ゆっくりと答えた。

「正直に言うと、まだ……でも、学ぶことが楽しいと思えるようになりました。朸込さんのように、知識を活かして、何か、誰かのためになることをやりたいです。」

 彼の言葉は、自分でも驚くほど自然に口をついて出た。自分の進むべき道というものが、少しずつ形を成してきたことに、北窪は小さな充実感を覚えた。

「そう。それは良いわね。」

 朸込は微笑んだ。その笑顔は、優しさと共に何かを包み込むような温かさがあった。

 北窪は頷き、ふとした拍子に話題を変えた。

「そういえば……シドニーでは、何を食べたんですか?」

 その問いかけに、朸込の表情がぱっと明るくなった。「見る? 写真、いっぱい撮ってきたから、見てほしいわ。」彼女はスマホを取り出し、カメラロールを見せる。特大のサーモンフィレ、カンガルーステーキ、あやしい寿司のような何か……料理の写真は、まるでどれも超大盛りのように見えた。

「すごいですね……内容もそうですけど、この量……全部食べたんですか?」

 北窪は驚きながらも、どこか微笑ましい気持ちで写真を眺めた。

「もちろん。全部食べたし、おいしかったわ。この寿司みたいなやつは、微妙だったけど。」

 朸込は笑いながら答えた。その声は軽やかで、北窪もつられて笑みを浮かべた。しかし、その穏やかな時間の中、研究室の天井に灯る蛍光灯が微かにチラついた。

 北窪は、それを気にして、朸込に話を振る。

「あれ、寿命ですかね?」

「どうでしょうね。数か月前にLED照明に変えていたはずだけど、あんな風にチラつくものかしら。」

 北窪は、朸込の言わんとすることを察した。

「もしかして、これも……」


「うちの研究室では、よくあることよ。」

 朸込は静かに、そして楽しそうに、そう言った。

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