37、光雪の主
神は、自らの手で人を殺すことはできない。
人に限らず、肉体を持つ生命全般を殺すことができない。
だが天変地異、飢餓や疫病といった厄災による神罰。
魔獣などを生み出したり、人同士を争わせるなど、間接的な方法はあるが、それにしても肉体生命体に干渉するためには、いくつかの条件を満たす必要がある。
例えば自らが守護する領域内であり、聖堂や教会といった信仰施設内や、特別なアイテムを所持させるなどだ。
対象になる人物の信仰心の深さにも依存する。
神の意志は、啓示や教え、神託と言った形で信徒に植え付けられ、強い暗示となる。
直接的な命令であれば、“使徒”が行う。
ハチロたちが対峙した【黒錆の竜バリュオン】などが使徒で、戦争に駆り出された兵士達が信徒だ。
そして、もっと直接的な方法があるとすれば、遥か昔に【ヤルマテア】を滅ぼした超兵器か、あるいは――。
――天には光玉の粒子、降臨光雪が現れている。
他に類を見ない規模の光雪は、昼間の空にあって異常なほど輝いていた。
まもなく神が顕現するのは誰の目にも明らかだが、この降臨光雪はムラクモの主神イアマナとは、趣が違う。
霊的感受性の鈍い人族でも、感覚的にそれがもっと格上の存在だとわかるだろう。
霊的感受性の鋭いカロワンが門塀の上から、メイド服を靡かせて飛んだ。
「姫様、いや誰でもいい! ミナヨシの体を“潰して!”」
そう叫びながら、カロワンもまた強靭な脚力でミナヨシの亡骸に向かい砲弾のような速度で蹴り潰しに行く。
キューコほどではないにせよ、それは英雄に至った戦士の蹴りだ。
激しい錐揉みの蹴撃が、ミナヨシにねじ込まれるかに思えた。
だが、カロワンは一瞬だけ遅かった。
ズドンと、カロワンの蹴りが地面をうがった瞬間、すれ違うように真っ二つのミナヨシの亡骸が宙に浮いていく。
そして、城門のやや上まで到達して止まる。
何が起きているかは分からないが、それでも反応の早いベルクが剣を抜き地面を蹴った。
浮かぶミナヨシの亡骸へと、薙ぐような一閃がベルクの剣から放たれた。
だが、『ガインッ』とベルクの剣は見えない壁に阻まれ、弾かれる。
「ちぃ」
ベルクは舌打ちしながら、着地。
苦々しく亡骸が浮かぶ空を見上げた。
何が起きるのか、誰も問わない。
問うのを忘れるほど、異様な光景が皆の視線をさらっている。
だが、無言の空気をベルクの叫びが裂いた。
「抜剣せよ、総員姫様の盾となれ!」
すでにキューコは力を使い切っている。
この場で一番非力な存在に成り下がっている。
親衛隊の騎士たち16名が一斉に剣を抜く。
すでにカロワンはスカートを捲し上げ、幅広の厳ついナイフを片手に持ってキューコの傍らに移動していた。
ベルクの剣が弾かれた以上、並の攻撃は通じないのは明白。
それを理解したうえで不測の事態に備え、カロワンは騎士たちの出てきた通路が開かれたままなのを視認。
長い耳はレーダーのようにミナヨシの亡骸を捉えている。
広場を見下ろす門塀の通路にはニコと側近二人。
その背後には10名、黒装束の油売り達が控えている。
別の窓から、今にも飛び出しそうなイッロ。
広場につながる通用口では、様子を伺いながら、サーロが口を閉ざして腹腔内詠唱をすでに練り上げていた。
その傍らにはヨーコとハチロ。
さらにその後ろには、すべての指に銀糸鋼の光を纏わせるナーコと、料理長サーエル・ドッシュもいる。
都民誘導を行っているゴッロとロコを除き、兄姉達がそろっている状態だ。
そしてタッロ王は、中央塔からこの状況を見下ろしている。
タッロの指先が、何気ない仕草で首から下がったペンダントに触れた。
不安だからか、無意識に何かを求めた、とそんな風情だ――。
――ミナヨシの亡骸が唸った。
声帯からではない、例えるなら亡骸全体から、『うぅぅぅ』と、まさしく唸るような音が響く。
それに伴い、降臨光雪の輝きがミナヨシに集まっていく。
何が起きているかは分からないが、とにかく何かが起きている事はわかる。
理解に及ばない状況が、ムラクモ勢全員を後手に回らせた。
多くの視線がミナヨシに集まっている。
ミナヨシの“唸り”がさらに激しくなって……、『ボンッ』と軽めに爆ぜた。
規模からすれば、大きめの紙袋を膨らませて潰したような程度だ。
亡骸が文字通り塵と芥に変わった。
瞬間、今度は逆再生のように、肉体が構築されていく。
真っ二つだった亡骸は、人だった頃を象っていく。
(ミナヨシを再生させているのだろうか)
と、兄姉たちも、ベルクたちもがそう思った。
厄介極まりない。
唯一、単独で対抗できるキューコはすでに脂肪を使い切っている。
再生される前に攻撃を仕掛けたくても、ベルクの剣が阻まれるほどの防御壁に守られている。
取れる手段は多くはない。
障壁が消えた瞬間、キューコを除く、全員で“かかる”しかない。
キューコを守るために作られた騎士の壁。
当然捕まった農民たちは、放り出されたが、誰一人逃げようとはせず、逃げることすら忘れて異様な現象を見上げていた。
そんな農民たちが、突然バタバタと倒れはじめ、200名が残らず地面に突っ伏した。
悲鳴もないから気が付くのが遅れたが、一番近くにいた騎士が上を気にしつつも屈んで農民の一人に手を当てる。
「……死んでいます」
そう、すぐに現状を告げた。
上空も地上も、おかしなことになっている。
「姫様、下がります!」
カロワンが手に持っていたナイフを腰にぶら下げ、キューコを問答無用で抱き上げる。
そして、その姿から想像できないほど力強く、かつ軽やかに、脱兎のごとく走り出した。
「一体、……何が起きているの?」
そう問えるのは、キューコが今、状況を把握できておらず、ただ守られる存在だからだ。
「わかりません」
と、カロワンは、ただ一つわかっていることを告げた。
カロワンの判断は正しかった。
カロワンが走り出したすぐ後に、何かが、キューコを守る騎士の壁を薙ぎ払った。
騎士たちはベルク以外、ひとり残らずおもちゃのように弾け飛ぶ。
キューコは、カロワンの肩越しにその光景を見た。
ベルクだけは反射的に“何か”を、両手で持ち直した剣で受け流していた。
そして跳ねるように距離を取りつつ、キューコたちの背後に割って入った。
光に覆われたミナヨシだった“何か”が、すでに地面に降りている。
光度が徐々に落ち着き、人の形が見えだしている。
それが、人差し指をベルクに向けた。
「ばんっ」
声で、そう告げた瞬間、溜もなく小石程度の光弾がベルクを貫いた。
光は剣で受け流したはずだったのに、ベルクの剣と鎧の胸には穴が空いている。
ベルクの片膝が地面に落ち、胸から夥しい血が溢れ出した。
近衛兵長ベルク・フォルクの後方では、
「姫様……、ご無事ですか?」
そうカロワンは問い終えたすぐ、堪えきれずに血反吐を吐いた。
キューコはそれを浴びながら、
「カロワン……?」
と、名を呼ぶことしかできなかった。
カロワンも膝から崩れた。
それでもキューコを宝物でも扱うように、優しく地面に下ろして告げる。
「姫様、お逃げください。……門はすぐそこ……です」
キューコにそんなことができるわけがない。
赤く染まっていくカロワンの胸元を、キューコは両手で抑え込む。
「喋っちゃだめ、誰か、誰か来て!」
非力な姫は門塀に向かって叫んだ。
「其は煌めき、同胞を覆う。鋼鉄の理、鏡の如く澄み。星々の如く光、瞬きに似て、其すなわち鏡面煉華」
呪詛が、ハチロの声で紡がれた。
キューコたちを、半透明の障壁が包み込む。
それを合図に、サーロとヨーコが飛び出し、追ってイッロが走る。
そんな兄妹達の視線の先には、完全に沈静化していた光の中心に誰かが立っている。
ミナヨシではない。
白金の髪を持った美しい女だった。




