3、暴虐の一刃。
ルイという悪魔が大きな黒板の前で、ワイシャツにネクタイ姿で熱弁を振るう。
「なぜお湯が沸くのか問いかけた時、大抵の人間は火で温めたからと答えるでしょ。それは正しい説明ではあるけど、正確な説明ではないんだよね。実際には、水分子が水素と酸素の結合から解離し、その際にエネルギーが吸収されて沸騰したんだ。火はこのプロセスを引き起こすための加熱源であり、炎はエネルギーの放出として現れる現象なんだよね。ここまではいいかな?」
悪魔は叩くように黒板へと文字や記号を書き上げた後、振り返ってキューコの様子を眺め見た。
「あ、はい、何となくですが……」
キューコは慌てて取り繕ったが、表情は引きつっている。
「君たちの世界で言えば、素精霊たちが結びつき、新たに火の精霊が生まれ、熱と光を放出するわけだけど、魔法だろうと理屈はだいたい同じ。まあ何が言いたいかと言うと、エネルギーという概念が、君の強さへと変換できるって事なんだけど」
「あの、ルイ様……」
おずおずと控えめに手を挙げたキューコに、
「はい、キューコ君」
ルイは威勢よく指さした。
「ところで、この格好は一体……」
キューコは可憐と評された頃の姿のままだ。
“ブレザー”という衣装に身を包み、“教室”という場所でシンプルな机に向かいノートを取るように命じられていた。
「まだ君はボクのものではないからね、“様”はいらないよ、ルイでいい」
「では、ルイ……とお呼びします」
「うん。それでいい」
ルイはつま先立ちになりながら、キューコの机に少し無理をする形で腰かけた。
そして、その位置から見下ろすようにキューコに笑う。
「その姿が学ぶ者の正装であり、ここは聖域。まあ様式美かな」
「はぁ……」
キューコは今までで一番困惑した表情を浮かべながら頷いた。
「まあ、そんなことはいいさ。それより君にはその刀、『青錬刀、花一文字』の力を行使するために、二つの呪いをかけた」
スカートのベルトには紫鞘の刀がぶら下っていて、ルイはそれを指さしている。
「呪い、ですか?」
キューコは刀を見下ろしてから、ルイの言葉をおうむ返しをする。
「そう呪いだ。一つは“暴食”。もう一つは“深淵の眠り”。この二つは、呪いでもあるが、同時に恩恵でもある」
「恩恵……?」
やっぱりキューコはおうむ返しで、キョトンと目を点にした。
「そう恩恵だよ。“暴食”は、喰らえるものなら何でもエネルギーに変える“悪食”と言う能力。“深淵の眠り”は、こうやって夢の世界で学びを得られる“夢次元隔離”」
「あ、そっか、ここは夢なのか」
夢だと分かれば、この不思議な空間も頷ける。
キューコは初めて納得して、ぽんっと手を打った。
「いいかいキューコ。人の体が食べ物をから得るエネルギー効率はとんでもなく優秀でね。火でお湯を沸かすより、魔力で魔法を運用するより全然効率はいい。もっとも同列に扱うのは暴論ではあるが、さておき、つまり暴食で力を蓄え、深淵の眠りで学んだ力を、現実世界で行使するわけだよ」
初めからそう言ってくれればいいのに、とキューコは口に出さないが顔に書いてある。
察しのいいルイは大げさに肩を竦めながら、
「まあいいさ。次は実地練習と行こうじゃないか」
そう指を、パチンと鳴らした。
辺りの様子が一変、教室は“体育館”に変わっていた。
そして、キューコの姿も。
「あの、ルイ……。この格好は一体……」
「それは体操着といってね。まあ様式美かな」
悪魔は、満面で笑った――。
――神が消えたムラクモ王国の民は一様に混乱した。
神の存在に敏感な種族は、絶望に近い落胆もある。
しかも麗しい少女だった末っ子姫が悪魔に憑かれたとか、この地が戦場になるという情報が、あけすけなく開示されたりと、情報量の多さに民は慌てふためくばかりだ。
万人規模の疎開が直ぐに始まり、王都の道は大混雑。
外街道には長蛇の列が生まれた。
逃げ出したのは市民だけではない。
当初、4千人いた守備兵も2千人まで減少した。
ムラクモ王国は、今や転覆寸前の船の様相を呈していた。
――半月は光の矢の如く一瞬で経った。
明け方。
3万の兵の先鋒隊が、とうとう王都目前に現れる。
王都前の平野が、敵陣の旗で埋まっていく。
ムラクモ側は籠城。
王都の門を固く閉ざしていた。
見せつけるような大軍の暴威が、太陽が昇るとともに進軍を開始。
すると意気揚々と進む兵士に、天から純白の羽が降り注ぐ。
“女神ウェヌース”の祝福だ。
隊の先頭では、イヴァールの英雄が剣を掲げた。
「我らが女神ウェヌース様の名のもとに、我に続け!」
イヴァール兵の士気が爆上がる。
『オォォォォ』
軍勢の雄叫びが、ムラクモ王都前の平原を支配する。
威勢を受けムラクモの守備兵は、逃げ出すもの、死を覚悟して祈るもの、そして無駄に狼狽えるものもいる。
破城槌の一撃が、
『ドーン』
と、閉ざされた門を揺らした。
一度引き、
『ドーン』
再びの激突で門が軋み、ひび割れる。
門は、あと一撃喰らったら砕け散るだろう。
破城槌が、最後の勢いをつけるべく下がった。
『ドォォォン』
と、響く破壊音は門からではなかった。
敵軍の最後尾からだ。
地面にすり鉢状の、馬鹿げた穴が開いていた。
文字通り、クレーター。
イヴァール軍総大将の隊列数百人が一気に消え失せている。
だが、数秒後、そこにあった兵士たちは肉塊となって辺りに降り注ぐ。
何が起きたのか、誰も理解ができないような状況だ。
しかしイヴァールの先陣に立つ英雄だけがいち早く状況を認識、赤毛の馬を駆る英雄の隊が一気に反転した。
「ムラクモ側の刺客だ!」
呆ける自軍の中央を割って、烈火のごとく英雄の騎馬隊が総大将のあった場所へと駆ける。
当然、英雄とその隊はイヴァール軍全隊の注目を集めていた。
英雄が目掛けるその先、クレーターの後方には少女が一人いた。
腰を落とし刀の柄に手を添え、どす黒いオーラを纏う妖艶な少女だ。
「魔性……、いや! 悪魔憑き、かっ!」
英雄が馬上で再び叫んだ。
その瞬間、
「青錬刀、花一文字 、飛花落葉!」
少女の手元で、鞘から抜けた刃が異彩を放つ。
風に青い花びらが散った。
いや青い刃が空中を踊った。
万の兵の視線が注がれるその中心で、英雄の、隊全員の、上半身が地面に滑り落ちた。
そして下半身を乗せた馬だけが、血飛沫、血の花をまき散らしながら敵軍の中を方々に駆けていく。
まさに悪魔の所業だった。
もっとも残虐な方法で、もっとも“効果的”な場所を討つ。
穿たれた楔が、巨大な岩盤を砕くように。
少女がそれを行使したと、敵兵が把握するのに要した時間は約十秒。
そしてもう十秒後に、副指揮官相当の貴族たちが声を張り上げた。
「撤退!」と。
イヴァールの兵に、効率よく、的確に、確実な恐怖を植え込んだのだ。
――ムラクモに悪魔憑きの姫あり、と国内外に知れ渡った。
膨大な兵站を消費し、立て直しに年単位を要することになったイヴァール帝国は、ムラクモ王国からの休戦要求を承諾。
戦争は一応の終結を見た。
だが、それはあくまで国家間の戦争の終結だ。
女神ウェヌースが何を見据えていたかは分からない。
だが、蹴とばすはずだった小石に、大きくつまずいたのは事実。
ムラクモ王国は、間違いなく女神ウェヌースの怒りを買ったのだ。
――キューコは、暴食で何百人分と同等の食事を平らげる。
そして肥え、力を蓄える。
そんなキューコを民は嫌悪した。
国を救った英雄にも関わらず。
真実がどうとか、正義がどうとか、そんなことは民には関係はないし届かない。
善政、仁政、徳政を行おうが、そんなものは恐怖の前には意味はない。
本当に大変なのは、戦後、これからだ。
――暴虐の、初めて殺めたその夜。
キューコは夢の中で嘔吐し、震え、泣き叫んだ。
手に残る肉を断つ感覚、迫りくる英雄たちの憤怒の視線が脳裏に残って苛んだ。
悪魔の一撃を放った悪魔憑きの少女の中身は、十七歳の少女なのだ。
目を覚ませば、キューコの苦しみは幾分か和らいでいた。
だが、キューコは理不尽な女神の暴威を退ける度、葛藤と共に嘆き苦しむ事だろう。
――別に珍しい事じゃない。
こういう世界にはね、百人に一人くらいの割合で生まれるんだよね。
“英雄の相”ってのを持った人間が。
たまたまキューコがそうだった。
王国の守護者として、苦しみながら生きていくんだろうね。
あぁ、可哀そうに。
じゃあ、続きはまた。