29、かつての神
「私は、お前が嫌いだ」
神殿の中央に立つ悪魔ルイに対し、イッロは開口一番で告げた。
「それで?」
「私の可愛いキューコを独り占めするのも許せないが。それよりキューコを選んだことだ。……血に塗れるのは、父や私でいいのに。優しいあの子は、蝶よ花よと育てばよかったのだ」
「君は、そんな恨みを言いに来たのかい?」
「本題に入る前に、恨み言の一つや二つ、聞いてもいいだろう」
「なるほど。本題があるみたいで安心したよ」
そう肩を竦めるルイに、イッロは静かに歩み寄る。
すると、一羽のカラスが天井をすり抜けるように現れ、イッロの肩に止まった。
洞窟を出た瞬間、消えていたあのカラスだ。
イッロは艶のある黒を視界の端に捉えた。
ルイの視線も自然とカラスに向けられ、そして眉を潜める。
「なぜキューコだったのか。お前は、キューコが最初に反応したからという理由で選んだといったな?」
「うん、言ったね」
ルイの答えに、イッロが一呼吸の間を置く。
「本題に入る前に悪魔ルイ、お前に問う。志津火を覚えているか?」
ルイの体が僅かに、ピクン、と揺れた。
だがすぐにルイは、首を横に振った。
「いや、知らないね」
「そうか」
「その志津火って……ヒトがなんだい?」
ルイ自ら志津火という名を紡ぐ時、小さな体がまた、ピクン、と揺れる。
事実、ルイは志津火のことを忘れてしまっていた。
だが心のどこかで覚えていて、それが体に現れている。
そんなルイをカラスは、イッロの肩で静かに見守っている。
「地獄に封印されたお前を、解き放った者の名だ」
「……そうか。ボクに因縁がある人物なんだね。……ここに零れ落ちた記憶の余韻があるから、何となくわかるよ」
ルイは、自分の胸に手を当てる。
そして自嘲するように、静かに笑みを落とした。
「志津火は言っていた。まだ封印は完全に解けていないのだと、だから全部を思い出す前に言わせてもらう」
「うん、聞こう」
イッロは、ゆっくりと頭を下げた。
お辞儀と言う、礼の作法だ。
「感謝する。この国の礎を作ってくれたことを。この国がまだ“ヤルマテア”だった頃、あなたはこの国の守護神だった。私たちは、あなたのおかげでここにある。かつて神だったあなたに最大の感謝を」
それは、丁寧で心の籠った深い礼だった。
「酷いね君は。ボクが覚えてないことなのに、そんなに真摯な礼を向けてさ。……頭を上げてくれ、まだ続きがあるんだろう?」
イッロが頭を持ち上げると、向かいの翡翠の目は、潤いを湛えていた。
それに気が付いたルイは、零れる前に自らの手で目を擦る。
ルイは涙を見せてしまった悪魔らしからぬ自分に、少しだけ落胆したが、気づかないふりをしてすぐに笑う。
イッロも、ルイの見せた人間くささに僅かに微笑んだ。
「私が頭を下げたのは悪魔にではない。かつての神に対してだ。そして思い出して得意顔されるのは癪なのでね。まあ、ささやかな嫌がらせだよ」
「感謝に嫌がらせを混ぜるなんて、君らしいよ」
イッロは己が肩のカラスの嘴を一瞥。
「さぁ、行け」
イッロの声に、カラスが羽ばたいた。
なぜ“それ”が、カラスの姿をしていたのかは分からない。
志津火と共にあった想いの欠片は、カラスの姿を借りて、ルイへと羽ばたき向かう。
そしてルイに吸い込まれて消えた。
ドクン、ドクンと、ルイは体全体で脈動する。
どれほど欠けた部分が埋まったのかは分からない。
ルイは緩慢な動きで、己でも確認するかのように頷く。
「あぁ、そうか……」
と、自嘲笑いのまま零す。
その表情でイッロは察した。
「思い出したなら、なぜ英雄が生まれるのか等々、説明の必要はないな」
「あぁ、おかげで思い出したよ」
「悪魔ルイ。真の御名をこの場で告げるなら、ひざまずく用意はあるが?」
それはイッロの願望でもある。
だがイッロの意に反して、ルイは首を横に振る。
「君がひざまずく。それはなかなか魅力的だけど、まだその時じゃない」
「なぜだ?」
「ボクも腹を割って言うけど、女神ウェヌースと戦うためには悪魔の方が都合がいいんだよ」
「戦う以外の道筋は?」
「それを見つけられるのはボクじゃなく、志津火に“預かった”君じゃないのか?」
イッロは思い当たる胸の内ポケットにある小瓶に、表から手を置く。
「ウェヌースの記憶か」
「そう。だけど希望的観測はしない主義でね。それで聡い君の見解を聞きたいんだけど」
多くを思い出したうえで、ルイはイッロの知に擦り合わせを望む。
イッロも、小さく頷く。
「ウェヌースは、お前と人々を塩に変えたという“神代”の超兵器を使う気だろう」
「君もそう思うか。ウェヌースは不老のヒト達を生贄にヤルマテアを死地に変えた。今度は、ムラクモを生贄にする気だ」
悪魔とイッロの意見は、恐ろしい方向で一致をみる。
強大なウェヌースが、超兵器を使わざるを得ない相手が存在するという推測が、確信に変わる。
だが、それが一体なんなのかは、ウェヌースに問う以外はない。
ならばと、イッロは他の疑問を問いかける。
「超兵器とは、一体なんだ?」
「残念ながら。ウェヌースの管轄についてはボクにも分からない」
「では、ムラクモを生贄にしないと運用できないという根拠は?」
「うん。自国を生贄に出来たとしても、英雄の数からいえば、ほとんどの都市が必要となるだろうから、そんなことをすれば何も残らない」
つまり信者を失い、守護神としての存在意義すら失う事態だ。
「なるほど」
と、イッロの口角が上がる。
切羽詰まっているのはイヴァール帝国、ウェヌース陣営だとすれば、いくらでもやり様はある。
序盤の絶望ムードと違い、全然いい風が吹いている。
「こちらも打てるだけ、手を打つとしよう」
そう言ってイッロは、ルイに背を向けた。
「イッロ、ありがとうね」
何に対する礼なのか、ルイはイッロの背に言を投げる。
イッロは、振り返りもせずに言った。
「お前の冠に“桜”が戻る日を願っている。だが、やはり私は、お前が嫌いだ」
言葉とは裏腹に、イッロの声色は随分と軟化していた。
神殿の中央に残ったルイは、尖った指の爪で頬を掻く。
「キューコを選んだ理由か。可愛いからに決まっているよね」
そう、キューコが夢次元で見ているだろうアングルに微笑む。
ルイは志津火を思い、キューコを思い、生き写しのような二人を脳裏で重ねながらフッと消えた――。
――黄昏が夜に変わる頃。
かつては多くの神官達が語らい、食欲を満たしたその食堂に、久しぶりの活気が戻っていた。
神官長エルテナを中心に、護衛のロド。
第二護国隊から来た重鎧の二人と、魔導士の娘。
そして、強張った顔のロレイと、対照的ににやけるカスミ。
漂う空気はやや硬く緊張感もあるが、そこそこに談笑も聞こえる。
「それでは、我々はこれで」
食堂の外でベルク卿がイッロに告げ、同時にカロワンが頭を下げる。
そして二人はキューコの部屋へと帰って行った。
イッロは見送ってから食堂の扉を開くと、一斉に視線が集まった。
「待たせた。では、私の言葉は決定事項だと思って聞いてくれ」
第一王子イッロの言で、王国兵に類する者たちの背筋が伸びる。
エルテナも居住まいを正す傍ら、対照的にカスミは寛ぎ、にやにやと笑っている。
「ここに、神殿騎士団の発足を宣言するものとする。団長は、ロレイ・クドル」
「はえ、……守備隊では?」
ロレイは困惑した。
守備隊と騎士団ではまったく格が違う。
「それは簡易の任命だ。そしてこれが正式だ。不服かね?」
「いえ、あの殿下。私は平民ですが……?」
イッロ殿下は、私を誰かと間違えているのではないだろうか、と、ロレイの中で疑いが生まれた。
が、すぐに否定される。
「伝統や格式はある程度必要だが、この騎士団においては実力を優先する。追って男爵位くらいは持ってもらうことにはなるが、不服かね?」
「い、いえ! 謹んで拝命いたしますです!」
ロレイの声が裏返る。
とんでもない大出世だ。
ロレイは胸に手を置きこれでもかと背筋を伸ばした。
「結構。次にエルテナ付き護衛に、ロド・ラド」
「はい。賜ります」
「副団長に、クリス・クロリス、シノ・ミクラ」
「拝命いたします!」
「同じく!」
重鎧の二人が鉄兜を小脇に、僅かに背の高いほうから澄んだソプラノの声で、背の低い方から穏やかなハスキーボイスが応える。
「パルメ・スガヤは、神殿騎士団、魔導士長に任ずる」
「承知いたしました」
淑やかな仕草で、パルメは頭を下げる。
それからイッロは面々を見渡した。
「兵舎が整い次第、身分問わず募集をかけるから、そのつもりで」
「「はっ!」」
覇気のある、軍属の声が重なる。
「ねぇ王子様。盛り上がってるところに悪いけど、アタシは?」
と、カスミの声が皆の視線を奪い取った。
「軍属ではない君は、顧問だ。この騎士団の参謀役を頼みたい」
カスミだけは命令ではなく、イッロは伺い立てるような雰囲気で告げる。
「アタシの“立場”は守られるってことね。他の子たちはどうなの? 嫌じゃない?」
特にあなた、とカスミはロレイへと微笑む先を変えた。
当然、イッロの視線も向かう。
悪女と呼ばれる娼婦が顧問に就く、その意味は分からないが、ロレイは首を大きく横に振った。
「いえ! 我々一同、殿下のお言葉に従うだけです!」
さっそくロレイが団長らしく述べ、他の面々も反論の様子はない。
「だそうだ」
イッロの視線は再びカスミへと向けられる。
「はぁ、不満の一つもないなんてね。いい子ばかり選んだみたいで。相変わらず王子様の目は確かよね」
そう、カスミは肩を竦めて鼻から息を吐き、同意に頷いた。
と、その時だった。
「イッロ殿下、お願いがございます」
今まで静かに佇んでいた、この場所の管理者エルテナが口を開いた。
当然のように面々の視線が集まると、エルテナは少しだけ俯いた。
イッロは改めて、エルテナに視線を向け、手の届く距離まで近寄ると、意を決してエルテナが視線を上げる。
先を促すようにイッロが頷く。そしてエルテナも応じて頷く。
「この都を離れて行かれた神々に、お会いしに伺いたいのです」
切り出すタイミングを見計らっていたのだろう。
普段のエルテナから想像できないような、気丈さがある声だ。
そして瞳には、並々ならぬ決意の光が宿っていた。




