11、魔物と青年。
「腹が立つ……」
夢の中、いつもの教室。
赤地に白い線の入ったジャージ姿のルイは、教壇に立ったまま苛立ちを隠すことなく親指の爪を噛んだ。
それを見て藍色のセーラー服姿のキューコは首を傾げる。
ルイはいつも余裕がある。
そんなルイが怒りをあらわにしていることが珍しい。
「ルイ?」
「あぁ、ごめんね。今日の授業はボクが落ち着くまで自習だよ」
「それはいいのだけど……。どうしたのか聞いてもいい?」
「君が食べた魔物のことだよ」
「あのサーベラスっていう魔物だよね。串焼きは程よい弾力があってジューシーで、煮物はほろほろに解けて、すごく美味しかったけど……」
「それは料理人の腕だね。とりあえず……味の話じゃないから」
ルイの肩から力が抜ける。
キューコの純粋な感想を聞き、苛立ちは消えないものの、怒りの熱量は沸点から随分下に降りた。
じゃあ、なぜなのだろう。
と、顔にでも書いてあるように、キューコは表情でルイに問いかける。
ルイは、やれやれと、まんざらでもない様子で黒板に向かってチョークを滑らせた。
「この世界において、名前と言うものは非常に重要でね。あの魔物のサーベラスという名は、女神ウェヌースが使役するために変えてしまったものなんだよ」
『Cerberus』
と、黒板には異世界の文字が記された。
アルファベットは、授業中しばしば目にする文字でもある。
意味までは分からないが、キューコは地頭が悪い訳ではないから、違いや法則性は何となくわかる。
「さーべらす」
と、読むのだろうな、とキューコは声に出す。
「サーベラス。あの女神のルーツは、どうやら地球の、英語圏なのだろうね。だから、“サーベラス”だった。だけど、ボクらに言わせるとそうじゃない」
ルイは、チョークの先で、文字の上を何度も打つ。
そして、フリガナを振るかのように、文字の上にキューコにも分かる文字でこう記した。
『Cerberus』
「けるべろす?」
「そう、ケルベロス。ラテン語という言語での呼び名だ。読み方が違うだけだろって思うかもしれないけど、さっきも言ったが名前と言うのは重要なんだ。特にこの世界では、言葉が強い意味を持つからね」
「あの、それでルイとケルベロスは、何か深い関係が?」
「大ありだよ。ケルベロスは、地獄の番犬でね、よく遊んだんだ。……ああ見えて甘党でね、ハチミツたっぷりの小麦菓子が大好物なんだ。そんな子たちを無理やり使役して、人を襲わせるようなことをさせやがって……」
再びルイの怒りが再燃するのが分かる。
そしてチョークがルイの指先で粉々に砕け散った。
「ルイ……」
「考えてごらんよ。自分の可愛いペットが、いや友達と言ってもいい。それが突然連れ去られ、変な名前を付けられて無理やり戦わせられたら。しかも殺された。勿論、殺した奴は悪くないよ。やらなきゃ殺されるからね」
なるほど、と。
いかつい魔物の姿が、キューコの中で、昔王城の衛兵が飼っていた“ワンちゃん”に置き換わる。
そしてルイの怒りの意味も理解できた。
「あの、食べて……ごめんなさい」
「まあ、なんというか、複雑な気分だけど、文字通り君の糧になったわけだから……」
またルイの沸点を指していた矢印が、スッと下がった。
悪魔的な悪戯をするルイではあるが、可愛らしくおもっているキューコに甘いという部分も一助になった。
キューコは改めて、カクリと首を傾げた。
「でも、なぜ女神ウェヌースはケルベロスを使役したんだろう?」
「ボクを煽ってるのさ。完全に逆なでされた気分だよ」
「そう、なのかなぁ」
何かが違う。
キューコの喉に何かが引っかかるような、そんな違和感を覚える。
だがその違和感を確かめる術はなく、女神ウェヌースの思惑は、未だ全容がつかめないままだ。
向こうに言わせれば、ムラクモ陣営の手札も分からないわけだから、おあいこかもしれないが。
とにかく根本的な部分、生贄の対象が何故ムラクモなのか、なんのために生贄を求めているのか。
早急に知る必要があるのは確かだ。
「幸いなことに、ケルベロスの魂は二匹とも回収できた。あとは女神の呪縛から解き放ち、今世を生きてもらうだけだよ。地獄に戻すのはそれからだ」
「でも、また戦わせることになるんじゃ?」
「戦おうと思うならそれもいい、もう道具じゃないんだからそれは意志だ。あとは主人との信頼次第じゃないかな?」
ルイは、自ら溜飲を下げるように微笑んだ。
「そっか、うん。そうですね。ススムさんと、“兄さん”ならきっと大丈夫」
キューコは“兄”を思い、そして笑った――。
――王都の外れにある農地では、休耕時期になると蓮華の花が咲き乱れる場所がある。
「おいでロビン。ハチミツクッキーだ」
顔の半分くらいまで長く黒いマフラーを巻いた幼さの残る男が、少しだけ大きな声で言った。
すると紫の雲のような花畑の中で、黒と茶色が混ざった大型の犬が遊ぶのをやめて顔を上げる。
そしてロビンと呼ばれた大きな犬が、男に向かって一直線に駆け出す。
ロビンが男の胸に飛び込むと、男は勢い余って尻もちをついた。
「あはは、加減してくれよ」
男は、そのまま片手でロビンを撫でまわし、もう片方でクッキーを差し出すと、ロビンはクッキーをくわえ取り、嚙み砕いて飲み込んだ。
そしてロビンは、次を催促するかのように男の顔を舐めまわす。
このロビンは魔物で、高い知能を有していた。
そんな魔物と信頼関係を築いているこの男の名は、ハチロ。
キューコのすぐ上の兄だ。
ハチロは、九人兄妹の中で唯一、養子だ。
だが血が繋がっていないわけではない――。
――それはタッロ王の妻、イツカ王妃がキューコを懐妊した年の事だ。
奇しくも、イヴァールの商家に嫁いだイツカの双子の妹、ヒムカもまた妊娠していた。
二人とも、ムラクモ特有の艶やかな黒髪の持ち主で、その容姿は端麗。
“麗華二つ”と謳われた姉妹だ。
キューコが生まれて丁度一週間が経ち、名付けの儀が行われる前日。
それは酷い春の嵐の夜だった。
ヒムカが生れて間もない我が子を連れ、ムラクモの王城へ、イツカの元へと現れた。
「どうしたの、ヒムカ」
やっとベッドから立ち上がれるようになった、イツカが問う。
「姉さん、どうかこの子をお願いします」
そうヒムカは一言紡ぎ、我が子を託すようにイツカへと手渡した。
そして空いたその手で轟く雷鳴に驚いて泣き出したキューコを撫で、ヒムカはそこで倒れた。
きつく締めた布で深い傷を隠していたのだろう、倒れた拍子で背中に血のシミが濃く主張する。
既に助からないと分かっていたのだろう。
そして託せたことに、安堵したのだろう。
ヒムカは、微笑むように呼吸を止めた。
ヒムカの子が、母を探すように手をばたつかせながら泣き出した。
するとキューコも一層大きく泣き出す。
そんなヒムカの子をくるむ布の間には、畑の中を駆け抜けて来たせいか蓮華の花が入り込んでいた。
後日、イヴァールに出した使いに、商家は既に存在はしていなかったとの報を王と王妃は聞く。
それから数日遅れで、ヒムカの子にハチロと、イツカの子にキューコと、王族の名が贈られた――。
――ハチロは、傍らのロビンを撫でた後、懐から銀縁の透明な板に挟んだ押し花を取り出した。
「ヒムカ母さん。俺、イヴァールに行ってくるよ」
視界一杯の蓮華畑の中央に、押し花を浮かせるように眺めながら、ハチロは生みの親譲りの優しい顔で笑った――。
――この日、ムラクモの若き英雄の一人が、若い魔獣を連れ、真実を探すために動き出した。
そして、これはこの物語の中核を成す英雄の旅の始まりでもある。




