10、誰がために雪は降る。
王城の厨房が戦場の空気に変わる。
この日、初めて戦場に投入された若き戦士、もとい若き料理人は食材を前に愕然とした。
(これを、どうやって料理しろと?)
異常なほど広い厨房の床を占有する三つ首の巨獣。
サーベラスと呼ばれる魔物の前では、自分の持つ包丁が小ナイフのように思える。
天才の名をほしいままにしてきた若き料理人が、初めての壁に突き当たった瞬間だ。
「小僧、退け」
隻眼の副料理長が、歴戦の英雄の如き面構えで大剣と見紛うような包丁を肩に担いで言った。
若き料理人は気圧され、すぐさまその場所を明け渡してしまった。
挑戦すらすることなく、退いたことに後悔したがもう遅い。
副料理長の口の端が持ち上がる。
「見てろ、まずは背骨に沿って!」
『ズバンッ』
と、大剣のようでありながら、包丁のような切れ味を誇る刃が、左右に巨獣を割った。
その瞬間、料理人4人が同時に動き出す。
剣ではないのか? と言いたくなるような包丁で肉と皮の間に刃を滑り込ませる4人の料理人。
連携や一人一人の動き、呼吸までもが違う。
全員が猛者の風情を醸している。
若き料理人は思う。
(俺は、一体何を見せられているのだろう……)と。
そんな若き料理人の肩に、手が乗せられた。
「魔物は血も肉も毒だからな。ヘマをするんじゃないぞ」
声色は優しい。
肩越しに見れば、細身だが纏う空気はとてつもなく大きいな英雄の如き、料理長【サーエル・ドッシュ伯爵】その人だった。
鼓舞なのか、サーエルは若き料理人の肩を揉み、自分も前へと進み出る。
「一匹は、エルンド風香草焼きに、潰れた方はミソ煮込みにする。各自、命を大事に!」
料理長サーエルが、腰の双剣、……ではなく双包丁を抜き放つ。
悪魔憑きの姫、キューコのためにのみ、その料理は作られる。
そこからは強者のみが立つことを許された修羅場だった。
若き料理人は思った。
(田舎に、帰ろうかな)と――。
――キューコが御輿で神殿に運ばれて入る様子を近衛兵長ベルク・フォルク子爵が眺めていた。
「顔、緩んでますよ。ベルク卿」
不意にメイド姿の兎人族の戦士カロワン・ヤーが笑う。
メイド姿なのに、衣擦れの音すらさせない独自の歩法は、知らない者だったら突然現れたかのような錯覚を覚えるだろう。
そんな彼女に対し、ベルクは驚くどころか慣れた感じで頷き、大扉の横の柱に背を預けて腕を組む。
「いや、だって、運ばれるお姿も可愛いらしいからな」
「もはや、隠す気もないのね」
「お前に隠す? どこにそんな必要があるんだ」
「まあ、確かに」
と、カロワンはいったん口を閉じ、耳をくいっと大扉に向け中の様子を伺う。
それからスッと大扉の前から退くと、計ったように扉が開き、御輿を担いでいた屈強な男たちが出て来た。
そんな男たちが去っていく様子を、カロワンは指折り数えながら見送る。
「6人か。キューコ姫は、また重くなった?」
「あぁ。見掛けより遥かに重いだろうな。担ぎ棒が撓んでた。魅力と同じくらいの重さだろう」
はいはい、とカロワンは呆れた様子で肩を竦めた後、ベルクの隣に背を預ける。
しかし、いくら重いと言っても屈強な男6人は多すぎるし、担ぎ棒が悲鳴を上げるとなると余程のことだ。
カロワンは神殿の中を気にしながら、横の近衛兵長に呟く。
「呪いのなせる業かぁ」
対し、ベルクは頷きで応えた。
神殿の中に悪魔が現れた瞬間、カロワンの耳が、ピン、と直立するように跳ねた。
「でたっ」
訝し気にベルクがカロワンの顔を覗き込むと、眉間に皺が寄っている。
「出たって、まさか悪魔か。人族の俺には分からんが、間違いないのか?」
「ええ、間違いないわ」
驚くのも無理はない。
歴史書の中以外で、ムラクモに悪魔が現れたのは神が失せた日の一度きり。
それがたった半年で、再び現れたのだ。
神殿の上空から粉雪のような光が降ることがある。
これは降臨雪と呼ばれる、神が現れたことで起こる現象なのだが、その場合は誰もがその光を視認でき、神殿に神が現れている事を知ることが出来る。
だが、悪魔の場合は特に何も起きることはない。
霊的に敏感な者しか気が付くことはないが、兎人族はかなり敏感な部類だ。
その中でもカロワンは特に鋭敏な感覚を持っていた。
しかし現れた事に気が付いても、カロワンたちに特にできることはない。
中が気にならないと言えば嘘になるが、役目を放り出して覗こうとは思わない。
ベルクにしてみれば、キューコ姫が見えるわけでもないから結局は手持無沙汰に腕を組んでいるだけだ。
「なぁ、カロワン。一つ聞きたいんだが」
「ん、私で分かる事なら」
カロワンの片耳がクイっとベルクに向けられた。
器用なことに、もう片方は神殿の中を伺っている。
「12神は、どこへ行ったんだ?」
悪魔が現れたことで、たまたま思い出したような素朴な疑問だ。
カロワンも、このタイミングの意図を汲んで頷いた。
「王都の民って、半分ほど疎開したまま帰ってこなかったでしょ?」
「あぁ」
「神々が、各々の縁故地に信徒を呼び寄せたのよ。人族は“鈍感”だから気が付かなかったでしょうけど」
「なるほど、神様も引っ越したってわけか」
ベルクの中で、戻ってこなかった者の大半が人族以外だった理由がここで氷解した。
だがそれと同時に、新たな疑問が湧き上がる。
「お前はどうして残ったんだ?」
「あぁ、それは――」
と、カロワンが答えようとした瞬間、ビンッと耳が立った。
なぜ耳が立ったのか、今回はベルクにも分かった。
辺りの空気感が一気に鋭利なものへと変わる。
キューコが刀を抜いたのだ。
厳密に言えば、抜き切ってはいないが、壁をはさんですら身の毛がよだつ。
常人が神殿の中にいたなら一瞬で昏倒するレベルだ。
暫くしてキューコが刀を鞘に納めたのだろう。
空気が一瞬で弛緩した。
外のカロワンの耳も緩み、ベルクも、ふぅ、と息を吐きだす。
それからカロワンは悪魔が消えたことまで感じ取ると、
「じゃあ、担ぎ手を呼んでくるわ」
と、神殿の敷地の外へと歩いていく。
ベルクは、頷いて壁に預けたままだった背を離し我が君の退場を待つ。
程なく、担ぎ手の男たちが神殿の中へと入って行き、そしてキューコを乗せて出てくる。
「何故、私が残ったのか、だったかしら」
また、衣擦れすらなくカロワンがベルクの横に立った。
ベルクは、キューコを追って歩き出そうとした足を止める。
「ああ」
「ベルク卿と同じよ」
「同じ?」
「私も、キューコ様が好きなのよ」
なるほど。と声には出さず、ベルクは笑ってしまった。
そしてベルクが再び歩き出そうとした瞬間、
「去ったのは、11神だったみたいね」
カロワンが空を指さして言った。
ベルクは、その指につられ空を見上げる。
「あぁ、なるほど」
何度目の納得だろう。
空には半年ぶりに粉雪のような光が舞っていた――。
――神殿の中に、一人残ったススム。
女神の祝福を失ったはずの彼だが、表情は晴れやかだ。
そんな彼の前、先ほどまで悪魔がいた主神の台座に光の収束が認められた。
そしてススムは、それが女神が顕現だとすぐに理解した。
その姿は、月桂樹の葉の冠に金糸の髪、純白の衣で若く見える。
手には、浅い海の色のような長杖を持って、『コン』と緩やかに床を打つ。
『私の名はイアマナ。勇者ススム。あなたに頼みがあります』
それはムラクモの主神、女神イアマナだった。
驚く間もなく告げられた言葉に、ススムは首を傾げる。
女神ウェヌースとは随分と違う、どこか朧気で柔らかい感じがする女神イアマナ。
それが力の差の表れかもしれないが、優しさともとれる。
「女神イアマナ。確か、この国の主神だったか。で、俺に頼みとは?」
ススムは膝まづくわけでもなく、柔らかな光を放つ美神を見上げた。
『恥知らずな願いですが、どうか貴方が守った村を、これからも守ってくれませんか?』
それはススムにとっても意外な言葉だった。
ススムは、ゆっくりと女神に歩み寄る。
「何故か聞いてもいいだろうか?」
『それは、私の縁故地だからです』
「なら、なぜ貴方は村にいかず、ここにいるんだ?」
『ここにも私の信徒が多くいるからです。私は共に滅ぶ道を選びました。しかし、この国は守られた。滅びていないのなら、神としての役目を全うする義務があるのです』
「義務か。神のくせに随分と人間臭いんだな」
義務に縛られる神か、とススムは笑う。
嘲笑めいたものではない、むしろ親近感で湧いた笑いだ。
『どうか、私の頼みを聞き届けてはくれませんか?』
神は、祈るように胸の前で両手を組み合わせた。
ススムは首を横に振った。
神の表情が、薄く憂いに染まる。
ススムは笑みのまま、憂う神を見上げた。
「その必要はないってことさ。おれはもともとあの村に住むつもりだからな。頼まれるまでもなく守るよ」
この国の神前の作法は分からないが、ススムは跪いて手を組み合わせた。
『勇者ススムよ。あなたに感謝を。そして祝福を――』
柔らかな光が、幾重にも重なるようにススムへと舞い降りる。
その日、神が失せたと思われた国の神殿に、半年ぶりに悪魔が現れ、神の祝福が降った。




