エーテル結晶
広い部屋の中は、様々な標本で埋め尽くされている。
古き魔女アーカーシャの居室。この館の主である彼女は、この居室から外に出ることは滅多にない。
「異世界人の様子はどうだ?」
アーカーシャは、ラピスに尋ねた。
「ガーネットと交流して以来、精神状態は良好のようです。体の方も順調に回復しています」
淡々と、ラピスは答える。
「そうか。早めにガーネットと会わせたのは正解だったな。……他に何か気づいたことは?」
「――学習能力が高いですね。現在は共用語の読み書きを学んでいますが、習得にさほど時間はかからないでしょう」
「なるほど……」
アーカーシャは、彼女が作業台として用いている大理石の机の上に視線を落とす。そこには、翠がこの世界に迷い込んだ際に持っていた私物が置かれていた。通学鞄の中には、彼が使っていた参考書が詰まっている。
「……彼の世界の知的水準はかなり高いようだな」
――ガーネットも、妙なものを拾ってきたものだ。天使病で死にかけている彼を、彼女がここに運び込んできた時は驚いた。サンプルとしてはとても興味深いが、さて、どう扱ったものか……
『この世界の者ではない』ということ、それは、それだけでこの世界にとって大きな意味を持つ。
そのことに、彼自身が気づくのが先か、世界が気づくのが先か。――あるいは、それを知る何者かが彼を引き込んだのか……?
*****
「……ええと、昨日は勝手に外出してすみません」
念のため、翠は勝手に外出したことをラピスに謝った。あれから結局、館に戻ったのは夜半過ぎになった。翠を館まで送り届けたガーネットは、「周囲の様子を見回りしてくる」と言って飛ぶようにどこかへ行ってしまった。
「構いませんよ。ガーネットと一緒だったのなら、危険は少ないでしょうし」
相変わらず淡々と、ラピスは言う。
「うん。……彼女は強いんだね」
「ガーネットは戦闘力に特化しています。その力を濫用しないよう、性格は善良に設定されているんです」
「設定……」
――彼女のあの性格が、「設定」だとはあまり考えたくなかった。
それからしばらくは、何事もなく過ぎていった。
傷も癒えて、右目の包帯も必要なくなった。眼球を失った眼窩からは、歪な小さい羽根が生えている。
「……グロいなぁ」
翠は思わず呟く。
右目から羽根を生やしたその姿は、なかなかにシュールだ。
療養しながらコツコツ勉強したおかげで、この世界の共用語は、子供向けの絵本程度なら問題なく読めるようになった。
この館の大量の蔵書を管理しているだけあって、ラピスは司書として優秀だった。翠の学習段階に合わせて、無理のないレベルの本を選んできてくれる。読めなかった本が少しずつ読めるようになっていくのは楽しかった。
この世界の事についても、少しずつ学んだ。
『古き魔女』とは古代の魔術師の生き残りであること。――なお、『魔女』と呼ばれてはいるが性別は関係ないらしい。
現在も生存が分かっている『古き魔女』はアーカーシャも含めて五人。彼女達にはそれぞれテリトリーのようなものがあり、多かれ少なかれ、そこに住む人間の文化や風習に影響を与えているらしかった。
その日、本に目を落としていた翠は、ふとある違和感に気づいて顔を上げた。
――何だろう、背中の羽根がザワザワするような……?
弱い静電気のような何かを、翼が感じていた。
「……?」
椅子から立ち上がって、周囲の気配を伺った。少し移動してみると、羽根がざわつく感覚が強くなる方向が何となく分かった。
視覚的には何も異変はないし、音も感じないが、空気の流れのような何かを翼が感じ取っている。
部屋を出て、その感覚が示す方向へ歩いてみた。
吹き抜けの大図書館を通り抜け、階段をいくつか上がって行く。
――この辺りは、あまり足を踏み入れたことのない場所だ。とある大きな扉の前で、翼のざわつきは一層強くなった。空気中の何かが、この扉の中に向かって流れ込んでいる。
扉に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
その部屋の床には魔法陣のようなものが描かれており、淡い光を放っていた。魔法陣の中央に、フラスコのようなガラス器具が置かれている。上下に二つの丸いガラス容器が、らせん状のガラス管で繋がっている。
軽い眩暈のような感覚と共に、翠の失ったはずの右目に何かが『視えた』。
空気中に、青い光の粒子が渦を巻いている。
粒子は、上部のガラス容器に向かって流れていた。粒子は容器の中央で収束し、徐々に結晶を形作っていく。そうして生成された青い結晶が、ガラス管を通って下の容器に溜まる仕組みになっていた。
キラキラと輝く青い結晶は、宝石のようで綺麗だった。
魔法陣の向こうには、アーカーシャがいた。最初の日に会って以来、その姿を見るのは久しぶりだった。
「あっ……、あの、勝手に入ってすみません」
「構わないよ。好きに見学するといい」
アーカーシャは、落ち着いた声で言った。
「ありがとうございます……。あの、これは一体何をしているんですか?」
「空気中のエーテルを抽出して結晶を作っている」
――エーテル結晶。
空気中のエーテルが凝集したものであり、現在では主に魔道具の動力源として使われている物質だ。
「人間達が普段利用しているエーテル結晶は、上空のエーテルを含んだ雨が地中に沁み込み、自然に結晶化したものを採掘しているんだ。だが、私が抽出したものはそれよりも純度が高い。人間の町で売れば高値が付くんだよ」
アーカーシャはそう説明した。
「そうなんですか……。じゃあ、僕に視えているこれは、空気中のエーテルの流れなんですね」
「……『視える』?」
翠の言葉に、アーカーシャは興味を示した。
空気中のエーテルは本来なら不可視である。人の目に見えるものではない。
アーカーシャは足代わりの車輪を滑らかに動かして、翠の方に近寄って来た。下半身である歯車の構造を含めると、彼女の身長は2メートル近くある。近くで見ると、見上げるほど大きい。
アーカーシャは翠の顔を見下ろし、機械の指で翠の顎を軽く持ち上げた。そして、眼帯のように彼女の左目を覆っているメダルの下から、肉質の触手を伸ばす。
「ちょっ……!? すみません、その触手を突っ込むのは勘弁して下さい……!!」
右目に触手を突っ込まれた時のあの気持ち悪さは忘れていない。慌てて翠が拒否すると、アーカーシャは大人しく触手を引っ込めた。
「……そうか、残念だな。視界を共有すれば話は早いんだが。……では、口頭で説明してもらえるか? お前に何が視えているのか」
「え、ええとですね……、そのガラス容器の中心に向かって集まっていく、青い光の流れみたいなものが視えるんです」
「ふむ、……なるほど、面白い」
何かを理解したように、アーカーシャは言った。
「お前を襲ったアンゲルスが、どういった原理で飛んでいるか知っているか?」
「え……?」
アーカーシャの質問の意味を測りかねて、翠は困惑した。
――赤子のような姿をしたあの『天使』は、確かに自身の体積に比べて翼が小さかった。理屈で考えれば、あんな大きさの翼で飛べるはずがない。ほとんど羽ばたくことすらしていなかった。
「あの翼は、空気中のエーテルを感知するための感覚器官なんだ。連中は翼でエーテルの流れを読んで、その力を利用して空を飛んでいる。お前の右目に生えたその羽根は、どうやら視神経と繋がってしまったようだな」
右眼窩から生えている異形の翼がエーテルの流れを感知し、視覚情報としてそれを認識している……ということのようだ。背中の羽根がざわついたのも、アーカーシャの魔法で空気中のエーテルの流れが変わったのを敏感に察知したからということか。
「……この羽根にそんな機能があったんですね」
ただ重いだけの役立たずの翼だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
――だが、この機能に何か使い道はあるんだろうか……?
「ところで、ここでの生活はどうだ? スイ」
不意に、アーカーシャはそう尋ねた。
「あっ、はい……、おかげさまで不自由なく……。あの、今までお礼も言えずにすみません。色々とありがとうございます」
思えばこちらの世界に迷い込んでからというもの、ずっとアーカーシャの世話になっている。
「構わないよ。君からはすでに十分なお代を頂いている」
「え……?」
アーカーシャは大理石の机の上を指さした。そこには、翠が持っていた私物が置かれていた。通学鞄と参考書、そしてスマートフォン。
――なくしたと思っていたが、ここにあったのか。
「君が持ってきた異世界の書籍、それだけでお代としては十分だ。……それと、これ」
アーカーシャは、スマートフォンを手に取る。すでに充電は切れているため、画面は真っ黒のまま反応しない。
「君の記憶の中で見たが、これは君の世界の通信機器であり多機能端末なんだろう? とても興味がある。解析しても構わないか?」
「どうぞ……」
――持っていたところで、どうせこちらの世界では役に立たない。
「それに、君自身にも価値はあるんだよ。異世界人」
アーカーシャは、意味深なことを口にした。
「僕に……?」
自分自身に一体どんな価値があるのか、翠には全く見当がつかなかった。チート能力も何もないのに。
「まあ、君の自由を奪うようなことをするつもりはない。ここに居るのも、出ていくのも君の自由だ。身の振り方は自分で決めるといい」
「……あの、できればもう少しこの世界のことを勉強したいので、まだしばらくここでお世話になっても構いませんか」
「構わないよ。ここに留まる以上、君のことはこの古き魔女アーカーシャが保護してやろう」
アーカーシャの冷たい指が、翠の頬を撫でる。
「ありがとうございます……」
「……この世界のことを知りたいなら、今度人間達の町に行ってみるか?」
ふと思いついたように、アーカーシャが言った。
「えっ……?」
「ガーネットは、私の遣いとして定期的に町へ行っている。その時にお前もついて行くといい」
願ってもない話だった。この世界の人たちがどんな生活をしているのか、とても興味がある。
「はい、是非……!!」
*****
「……というわけで、町に行くよ~!!」
元気よく、ガーネットが言った。
「よろしくね、ガーネット」
「まかせて!! 何かあっても、私がちゃんと守ってあげる」
「うん……、頼りにしてる」
彼女と町に出かけるのは楽しみだが、彼女にとって、翠はあくまで保護対象でしかない。それが、翠にとっては少し歯痒かった。
「そうそう、これは母さんからの忠告だけど、スイが異世界人だということは、軽率に人に言わないでね」
少しだけ真剣な顔をして、ガーネットは言った。
「え……? うん、分かった……」
――まあ、言ったところで信じてもらえるとは思えない。自分の素性は隠しておくのが無難だろう。
翠が出発のための準備をしていると、ラピスが部屋に入って来た。
「よかったらこちらをお使いください」
彼女が持ってきたのは、全身を覆うゆったりしたコートと、革製の眼帯だった。
「その翼は目立ちますので、町では隠した方がいいでしょう。……天使病の生存者は珍しいですから」
「ありがとう、ラピス」
翠はありがたくそれを受け取った。ダボダボしたコートは少し不格好ではあるが、自然に羽根を隠せる。眼帯は顔の右半分を覆うのに十分な大きさがあり、ベルトで長さを調節できるようになっていた。
「それと、こちらもお持ち下さい」
そう言ってラピスが差し出したのは、シンプルなペンダントだった。革紐に金属製のメダルがぶら下がっている。メダルには、本を意匠化した紋章が刻まれていた。
「これは……?」
「あなたがお母様の庇護下にあることを示す証です。それを持っていれば、少なくともこの国内では、あなたの身の安全は保障されるでしょう」
――アーカーシャの影響力というのは、そんなに強いんだろうか。
「ありがとう。……何から何まで気を使ってくれて」
「いえ、礼ならばお母様に言ってください」
ラピスは、相変わらずそっけなくそう言った。