空気クラゲの泳ぐ空の下で
それから、何事もなく三日ほどが過ぎた。
体は少しずつ回復し、ラピスの助けもあってここでの生活にも徐々に慣れてきた。食事はあの味のしないビスケットばかりだが、不思議と腹持ちがする。
ただ引きこもっていても退屈なので、翠はラピスに頼んで文字を教えてもらった。快く引き受けてくれたラピスは、児童向けの本を何冊か選んできてくれた。
文字が読めるようになれば、本から情報を得ることができる。せっかく、この館には溢れるほどの蔵書があるのだから。
この世界に来てから、もう三日。
――元の世界では、僕は行方不明という扱いになっているんだろうか? まあどうせ、友人関係も希薄だったし、家族関係も冷え切っていたから、僕がいなくなったところで悲しんでくれる人は誰もいないのだろう。未練があるとしたら、受験勉強が無駄になったことくらいだ。
徐々に気持ちの整理がついてくると、意外にも、あまり元の世界に戻りたいと思っていない自分に翠は気づいていた。
ふと本から視線を上げて、翠は窓の外を見た。
窓の外には木々が生い茂っている。残念ながら植物の知識があまりないため、元の世界と比べてどのように植生が違うのかは分からない。
木々の合間から見える空は青い。――心なしか、元いた世界よりも青色が濃いような気もする。
窓越しにぼんやりと外を眺めていると、急に上からひょっこり人の顔がのぞいた。
「…………!?」
木の枝に足をかけて逆さ吊りになった状態で、窓の外から部屋の中を覗き込んでいる。
見覚えのある、緋い髪のツインテール。宝石のような紅い瞳。
――間違いない。『天使』に襲われていた翠を助けてくれた、あの少女だ。
翠と目が合うと、少女はにっこりと微笑んだ。窓を指さして、『開けて』とジェスチャーで示す。
慌てて、翠は窓を開けた。
少女は木の枝でくるりと回転して、窓から部屋に飛び込むと身軽に床の上に着地する。
「よかった、元気になったんだね……!!」
人懐っこい笑顔で、少女は翠に言った。明るくて良く通る声。
アーカーシャのおかげで、今は彼女の言葉がちゃんと理解できる。
『天使』と戦っていた時の彼女は険しい表情をしていたため、印象が大分違っていた。今の彼女は、明るくて人当たりの良い美少女だ。クラスにいたらきっとすぐ人気者になるに違いない。
「あの、……この前は助けてくれてありがとう。ずっと、お礼を言いたかったんだ」
思ったより早く彼女と再会できたことにドキドキしながら、翠は言った。
「ううん、もっと早く助けてあげられなくてごめん。……あの村の人たちだって、本当は助けてあげたかった」
本心からそう思っているのだろう、彼女は表情を曇らせる。
――いい子なんだな。
「本当はもっと早く様子を見に来たかったんだけど、害獣駆除に時間がかかっちゃって」
「害獣って……あの『天使』のこと? ……君が全部倒したの?」
「うん、そうだよ。放っておいたら、また別の村が襲われるかもしれないし」
彼女はそう答える。
軽やかに双剣を振るう彼女の姿を、翠は思い出した。その双剣は今は彼女の腰の鞘に収まっている。
「……君のおかげで命拾いしたよ。本当にありがとう」
翠は心からお礼を言った。
――彼女がいなければ、きっと僕はあのまま死んでいた。
「えへへ……、そう改まって言われると照れちゃうな……」
照れ隠しのように、彼女は微笑む。その笑顔が可愛らしい。
「あの……、僕は翠。……君の名前を聞いてもいい?」
「ガーネット」
少女は言った。
「よろしくね、スイ!!」
明るい笑顔で、ガーネットは翠の手を取る。彼女の手は暖かかった。
「よ、よろしく……」
――顔が近い。赤くなっているのを彼女に気づかれそうで、翠は内心焦った。
「ねぇねぇ、スイは別の世界から来たってほんと!? 母さんから聞いたんだけど!!」
無邪気に、ガーネットはそう尋ねた。好奇心で瞳がキラキラと輝いている。
「う、うん……。そうだよ……」
――『母さん』……?
その単語に、翠は引っ掛かりを覚えた。つい先日、ラピスから同じ言葉を聞いた気がする。
「あの……、『母さん』って……?」
「古き魔女アーカーシャのことだよ」
「……まさか、君も自動人形なの?」
「うん、そうだよ」
にっこり微笑んで、ガーネットは答える。
にわかには信じられなかった。終始無表情なラピスとは対照的に、ガーネットの仕草や表情は、あまりにも感情豊かだ。
「……人形って、みんなラピスみたいな感じなのかと思ってた」
「ラピスはこの館の保守管理用の量産型だから、個性や感情は実装されていないの。……それより」
ガーネットは少し小首をかしげて、翠の顔をのぞき込む。
「君も全然笑わないね……?」
「えっ……」
――今はとてもではないが笑っていられる状況ではない。……いや、考えてみれば、この世界に来る前から愛想笑い以外で笑った記憶があまりなかった。
「ちょっと来て」
そう言って、ガーネットは翠の手を引っ張った。そして、当然のように窓枠に足をかけて外に出ようとする。
「えっ、待っ……」
この部屋は、だいたい三階くらいの高さにある。ガーネットはともかく、翠は落ちれば絶対に無事では済まない。残念ながら、背中の翼は全くの役立たずなので空は飛べない。
「大丈夫……!!」
ガーネットの一見華奢な腕が、軽々と翠の体を抱き上げた。彼女はそのまま、窓の外に身を躍らせる。
「うわあぁぁぁ……!!」
一瞬の浮遊感。翠は思わず情けない悲鳴を上げた。ガーネットは危なげなく地面に着地し、翠の体を下ろした。
「私、けっこう力持ちなんだよ?」
「そう……みたいだね……」
人形とはいえ、女の子にお姫様抱っこされてしまった。――けっこうショックだ……
とにかく、彼女の身体能力が人間離れしていることはよく分かった。
「あの部屋からじゃ外の景色もあんまり見えないでしょ? せっかくだから、スイにはこの世界をちゃんと見てほしいと思って」
「う、うん……」
翠の手を引いて、ガーネットは木々の合間を歩いて行く。
――森の匂いがする。湿った土と、木々の香りだ。
振り返って、翠は初めてアーカーシャの館の外観を見た。館というより、その大きさはまるで城のようだった。森の中にそびえる古城だ。
何度か増改築をしているのだろう、古い部分と比較的新しい部分が、モザイク状に組み合わさっている。
「……すごい建物だね」
「うん、母さんのコレクションの収納スペースがなくなるたびに建て増ししてるから、どんどん大きくなるんだよね。何百年も経てば古い部分は崩れてくるから改築しなきゃだし」
随分とスケールの大きな話だ。
――アーカーシャは、一体どれくらい生きているんだろう?
館から少し離れると、森が開けて眺めの良い場所に出た。
山の中腹から、下に広がる森の木々がよく見える。そして、その上に広がる大空も。
「……見て!!」
ガーネットが、空を指差して言った。
青い空は、上空に行くに従ってグラデーションが濃くなっていく。その美しい青い空を、優雅に泳ぐ大きな生物がいた。
――クラゲだ。
巨大なクラゲが、傘を揺らしながら空を漂っている。その傘の半径が何十メートルあるのか、翠には想像もつかなかった。半透明の傘は空の青色に透け、優雅になびく長い触手には、青い光が絡みついているように見えた。
クラゲよりも下の空の高度を、トビウオのような魚とも鳥ともつかない生物が飛んでいる。
まるで、海が頭上にあるかのような錯覚に襲われる光景だった。
「眺めいいでしょ、ここ」
「うん……、というより、あの空に浮いてるクラゲは何……!?」
「空気クラゲだよ。上空のエーテル層を泳いでいるの」
「エーテル……?」
翠の知識の中にあるエーテルは有機化合物の一種だが、どうやらこの世界では違うらしい。
「エーテルは空気中にある不可視の元素なの。万物の源であり魔力の源。基本的には、上空に行くほどエーテル濃度が高いの。空気クラゲは、高濃度のエーテル層でしか生きられない生物なんだって」
「へぇ……」
――魔力の源。この世界には、「魔法」があるのか。まあ、「魔女」がいるんだから当然か……
*****
それから、ガーネットの後ろについて森の中をしばらく散策した。獣道のような道しかないため足元は悪いが、木漏れ日は心地よい。
「……あ、見て!」
ガーネットが、とある木の上を指さした。木の枝に鳥の巣があり、大きな卵が見える。親鳥の姿は見えなかった。
「ちょっと待ってて」
「えっ、ちょっ……」
言うや否や、翠が止める暇もなく彼女は身軽に跳躍し、木の枝へと飛び移る。
――彼女の身体能力の高さは知っているが、何となく見ていて危なっかしい。
ガーネットが卵を手につかんだその時、戻って来た親鳥が上空から襲ってきた。鳥……というより、それは羽毛の生えた小型の翼竜のように見えた。くちばしに小さな牙が生えており、翼には鉤爪がある。
彼女は咄嗟に枝から飛び降りて難を逃れる。
――が、地面に着地した彼女の頭上に、巣から滑り落ちた卵が運悪く直撃した。
「きゃん……!」
割れた卵から黄身と白身が零れ、彼女の綺麗な髪がドロドロになる。
「ふっ……」
――駄目だ。申し訳ないけど堪えきれない。
その様子がおかしくて、翠は思わず吹き出していた。
「も~、ひどいなぁ……」
「あははは……ごめん……!!」
「……よかった、君はちゃんと笑えるんだね」
「えっ……」
――心配してくれたのか。ずっと陰気な顔をしている僕のことを……?
「でも、笑ってる場合じゃないかも……!!」
ガーネットは、翠の手を引っ張って駆け出した。
「走って!!」
親鳥――もとい、親翼竜が卵泥棒に怒って襲い掛かってくるのを、全力で走って逃げた。
しばらく走ると、縄張りの範囲を抜けたのか、翼竜はそれ以上追いかけてこなかった。
森の中を綺麗な川が流れている。川の底が見えるくらい水が澄んでおり、流れも穏やかだ。二人は、川のほとりで足を止めた。
――久しぶりに全力ダッシュしたせいで脇腹が痛い。
「大丈夫?」
「だ……、大丈夫……」
翠が肩で息をする一方、ガーネットはけろりとした顔をしていた。息一つ乱れていない。
「……ガーネットこそ、大丈夫? 服汚れちゃったけど……」
割れた卵の黄身が、ガーネットの白いエプロンに染みを作っている。
「これくらい別に大丈夫。泥とか血とかで汚れて帰るのはしょっちゅうだし」
――血。物騒なことを彼女はさらりと言った。
「まあでも、一応洗っておこうかな」
髪に付着した卵の殻をつまみ取りながら、ガーネットは言った。
「ちょっとこれ持っててね」
そう言って彼女が翠に手渡したのは、卵だった。どうやら、さっきの巣からしっかり取って来ていたらしい。
「いつの間に……」
翠が卵を受け取ると、ガーネットはおもむろに服を脱ぎ始めた。
「ちょっ……!?」
慌てて、翠は彼女に背を向けた。
「別に見てもいいよ? 私人間じゃないし、気にしなくても大丈夫だよ」
「いやでも、さすがにそれはちょっと……!!」
――いくら人形と言われても、彼女はどこからどう見ても人間にしか見えない。
「そう……?」
腰のベルトを外す音。エプロンのリボンを解き、スカートを脱ぐ衣擦れの音。
――音だけで、つい生々しく想像してしまう。
やがて背後で水音がして、彼女が川に入ったのが分かった。
「気持ちいいよ~!!スイも入ったら?」
「え……、遠慮しておく……」
――彼女は本当に人形なんだろうか?
こんなに表情豊かで、体温も暖かいのに。体は本当に、人間と変わりないんだろうか……?
好奇心に負けて、翠はちらりと後ろを振り返ってしまった。その瞬間、思いっきり顔に水をかけられた。
「やっぱり気になってるじゃん……!!」
ガーネットはそう言って、無邪気に笑う。
「ち、違っ……、これはその……、うわぁ……!?」
ガーネットに腕を引っ張られ、翠は川の中に落ちた。
「ああもう……!! 何するんだ……よ……」
言葉は尻すぼみになって消えた。目の前で見た彼女の裸体があまりにも綺麗で。
濡れて白い肌に絡みつく緋い髪。なだらかな胸のふくらみを滑り落ちる水滴。全く恥ずかしがる様子もなく、邪気の無い笑顔で彼女は微笑んでいる。
「…………」
翠が思わずフリーズしていると、不意に彼女は何かに反応して動いた。
川岸に置いていた自身の武器に手を伸ばし、短刀を抜き放つとそのまま横に薙ぐ。茂みの中から、狼のような獣が飛び出してくるのとほぼ同時だった。鼻先を斬りつけられ、キャンッと小さく鳴いて狼は文字通り尻尾を巻いて逃げて行った。
「あれは角狼、この辺にはよくいる獣だよ。一匹だけでよかったね」
短刀を鞘に納めながら、ガーネットは言った。
――そういえば、狼の額に角が生えていたような気もする。
一連の動きが速すぎて、翠にはそれを確認している暇すらなかった。翠一人だったら、あっという間に食われて終わりだ。
「……追い払うだけなんだね」
そういえばさっき卵を取った時も、親翼竜から逃げるだけだった。天使と戦った時の、彼女の戦闘力の高さを翠は知っている。彼女からすれば、翼竜も角狼も敵ではないはずだ。
「必要がない時はわざわざ殺したりしないよ」
ガーネットはそう言って微笑んだ。
「そっか……。それはそうと、早く服着て……?」
彼女は自分の裸体を全く隠そうとしないので、本当に目のやり場に困ってしまう。
着衣のまま川に落ちた翠は、川岸で服の裾を絞っていた。濡れそぼった背中の羽根が重い。
「服、濡れちゃったね。乾かしに行こうか」
ガーネットは手早く衣服を身に着けながら、そう言った。
「どこに?」
「この近くに私の秘密基地があるんだ」
川沿いに少し歩いたところに、その秘密基地とやらはあった。木で作られた小さな掘立小屋が、川べりの空地にぽつんと建っている。
「ここが君の秘密基地?」
「そうだよ。……まあ秘密基地って言っても、ただガラクタを貯め込んでいるだけなんだけど」
小屋の中をゴソゴソと漁って、ガーネットは大きめの布を取り出してきた。
「はいこれ、着替えはないから、服が乾くまでとりあえず被っててね」
「……ありがとう」
翠が濡れた服を脱いで木の枝に干している間に、ガーネットは周囲の木の枝と石を集めて焚火の準備をしていた。――どうやって火を起こすんだろう。と思って見ていると、小さな筒状の道具を使って簡単に点火する。
「……それは?」
「これは発火筒。火を付けるだけの簡単な魔道具だよ」
――ライターみたいなものか。この世界にも、便利な道具があるんだな。
「……便利だね。魔道具っていうのは、この世界では一般的なの?」
「うん。少なくとも、この国では一般的だね、他にも色々便利な道具があるよ」
ガーネットは言った。
「――昔はね、誰もが魔法が使えた時代があったんだって。でも、いつしか『魔法』は衰退してしまって、その代わりに魔道具が発達したんだって。今では、魔法を使えるのは『古き魔女』と呼ばれる数少ない古代の生き残りだけ」
そんな話をしながら、ガーネットは焚火を石で囲い、その上にフライパンを置く。そして、先ほど取った翼竜の卵を割って焼き始めた。
「じゃーん!! 翼竜の卵の目玉焼き~」
元々の卵のサイズが大きいため、フライパンいっぱいの大きな目玉焼きだ。下の方は焦げてフライパンに張り付いているが、黄身はちょうど半熟で美味しそうだった。
「ご飯はあの保存食ばっかりでしょ? 人間用の食べ物って、あの館にはあれしかないし。だから何か、他のものを食べさせてあげたいなって思って。……まあ、私料理できないから、こんなものしか作れないけど」
「……僕のためだったんだね。ありがとう」
翠がお礼を言うと、ガーネットは照れたように微笑む。仕上げに、塩と香草で軽く味付けをしてくれた。
用意してくれたフォークで黄身を割ると、トロリと中身が零れる。
「美味しい?」
「うん……!! 黄身が濃厚ですごく美味しい」
素直に、翠は答える。あの無味乾燥な保存食以外で、初めて食べたこの世界の味だった。
「よかった。卵まみれになった甲斐があったよ~」
その時のことを思い出して、二人で笑った。
こんな風に誰かと笑いながら食事をするのは、翠はずいぶん久しぶりのような気がした。
気が付くと、辺りは暗くなり始めていた。暮れ始めた空に、星が瞬いている。
ガーネットが、小屋の中からランプを持ち出してきた。ガラスの中に何もないのに、柔らかく光っている。――アーカーシャの館にあるランプも、全てそうだった。どうして光っているのか、翠はずっと不思議に思っていた。
「これも魔道具なの? 中に何もないように見えるけど」
「これはガラスケースの中に発光生物を閉じ込めているの。昼間は明るいから何も見えないだけ」
ガーネットは上空を指さした。
「ほら、見て」
本格的に暗くなり始めた夜空には、色とりどりの星が舞っていた。赤や青、緑や紫。まるで、宝石箱をひっくり返したようにキラキラと輝いている。昼間に見た空気クラゲも、淡い光を放って夜空を彩っていた。
「……すごい」
思わず、翠はつぶやく。
「この世界の星はカラフルなんだね」
「君の世界ではあれを星って呼ぶの? あれはね、エーテル中に生息する発光生物の群れなんだよ」
「……そっか。何もかも、僕がいた世界とは違うんだな」
「スイは、やっぱり元の世界に帰りたいの?」
「どうだろう……。実はよく分からないんだ。元の世界に、それほど良い思い出もないし……」
――無理をして必死に勉強していた記憶しかない。少しでも良い成績を取って、良い大学に行くために。余暇も趣味の時間も犠牲にして。思えば、心をすり減らすような日々だった。
「そうなの……? 私、スイの世界の話も聞きたいな」
「あまり楽しい話はできないかもしれないけど……、僕が知ってる範囲で良ければ」
それから、夜が更けるまでガーネットと話をした。
翠はもともと口数の多い方ではないが、彼女が相手だととても話しやすかった。時間を忘れるほど、彼女との会話は楽しかった。誰かと話をするのがこんなに楽しいと思ったのは、初めてのことだった。
発光生物たちが瞬く幻想的な夜空の下で、翠は思った。
――僕は、この世界のことをもっと知りたい。そして、ガーネットのことも。




