アーカーシャの図書館
翠が目覚めたのは、ベッドの上だった。
見覚えのない小さな部屋だ。壁のほとんどが本棚で埋め尽くされている。
ベッドの近くに小さなテーブルと椅子が置かれており、窓際には文机が備え付けられていた。窓の外には、木が茂っているのが見える。木漏れ日が、床に柔らかい光を落としていた。
――ここは……?
翠はぼんやりと部屋の中を見回す。ふと、壁にかかった鏡が目に留まった。
「……!?」
鏡に映る自分の姿を見て、翠は愕然とした。一瞬、自分の姿だと気づかなかったくらいだ。
黒かった髪が何故か真っ白に変色し、更に、左目も緑がかった色に変わっている。――これも、天使病とやらの影響なんだろうか?
右目は、包帯で覆われていた。包帯の隙間から羽根がはみ出している。
次第に頭がはっきりしてきて、自分に何があったか翠は思い出した。
妙な世界に迷い込み、異形の『天使』に襲われて、緋い髪の少女に助けられた。
そして、アーカーシャと名乗る存在と出会った……
右目だけでなく、背中にも歪な翼が生えていた。右に一枚、左に二枚。大きさは右の方が少し大きい。
左右非対称のためバランスが悪く、「天使」という言葉のイメージからはかけ離れた歪な姿だ。
下手に腕を動かすと、背中が引きつれるように痛んだ。
――こんな羽根、重いし邪魔でしかない。翠は溜息をついた。
一体いつ誰に着替えさせられたのか分からないが、翠はローブのようなゆったりした服を着せられていた。羽根が出せるように、背中の布に切れ目が入っている。
持っていたはずの通学鞄やスマートフォンなどの私物は見当たらなかった。
――『天使』に襲われた時に落としたんだろうか。まあ、あったところでどうせ使えないからいいか……
その時、扉が開いて誰かが部屋に入って来た。
「……お目覚めでしたか。体調はいかがですか?」
部屋に入って来たのは一人の少女だった。スカート丈の長い、クラシカルなメイド服を着用している。背中まである長い髪は青く、瞳の色も青い。透けるような白い肌の、人形のような美貌の少女だった。
「ええと……、はい、大丈夫です……」
右目と背中の傷はまだ痛むし、体にも倦怠感が残っている。だが、翠はつい反射的に「大丈夫」と答えてしまった。
「そうですか。まだ無理をしない方がいいですよ」
事務的な調子で、少女は言う。表情の変化もなく、なまじ顔が整っている分どこか冷たい印象を受けた。
「もし食事ができそうでしたらこちらをどうぞ」
そう言って、彼女は持ってきた籠をベッド脇のテーブルの上に置いた。籠の中には、食料と思われる布包みと、水の入った瓶が入っている。
「ありがとうございます……。あの、あなたは……?」
「ラピスとお呼び下さい」
淡々と、彼女はそう名乗った。
「……ラピスさんは、ここで働いているんですか?」
「はい、この館の雑務全般を任されております」
「そ、そうなんですか……」
ラピスはあまりにも事務的に淡々と答えるので、何も会話が続かない。
「この部屋は自由にお使い下さい。何か必要なものがあれば準備いたします」
「はい……。ありがとうございます、ラピスさん」
「さん付けは不要です」
「あっ、はい……」
「それでは、何かありましたらいつでもお呼び下さいませ」
深々と一礼して、ラピスは部屋を出て行った。
――綺麗な子だった。あんな子がここで働いているのか……
翠はラピスの持ってきた布包みを開けてみた。
包みの中には、四角い形状のビスケットのようなものが入っていた。試しに齧ってみると、食感も硬めのビスケットのようだ。しかし、無味乾燥であまり味がしない。保存食のようなものだろうか?
不味くはないが、決して美味しくもない。
食べていると口の中が乾燥するので、水と一緒に飲み込んだ。水は特に変な味もせず、普通に飲めそうだったので少し安心した。
食べ物を腹に入れたことで少しだけ元気が出たので、翠は改めて今の自分の状況を整理してみることにした。
――どうやら自分は、異世界に迷い込んでしまったらしい。
帰る手段もなければ行く当てもない。
アンゲルスと呼ばれる化物に襲われて右目を失った上に、妙な羽根が生えている。
そして、今はアーカーシャという魔女の館にいる……らしい。
都合よく時空のおっさん的な存在が現れて、元の世界に戻してくれるような展開は起こらない。
異世界に来たからといってチートなスキルが付与されることもない。
外見だけ妙な姿に変わってしまったが、中身は自分のまま、何もない自分のままだ。
……いや、言葉が分かるようにしてもらえただけでも、十分と言えば十分か。
アーカーシャと名乗った魔女は、それをサラッとやってのけた。一体何者なんだろう。
――そして、僕は一体どうすればいいんだろう。
ベッド脇に用意されていた布靴を履き、翠は少しだけ部屋の外に出てみることにした。
自分が置かれている状況を、少しは把握しておきたかった。
部屋を出ると、そこは吹き抜けの廊下になっていた。
廊下は、ホールのような広い空間をぐるりと周回している。そこから見えるのは、大量の蔵書だった。どこまでも、本棚が並んでいる。
「うわぁ……」
その光景に、翠は思わず声を上げた。
翠のいる位置から上の階も、下の階も、見渡す限り延々と本棚で埋め尽くされており、本棚の間を縫うように階段が設置されていた。所々無計画に増設をしたような、少し歪な造りになっている。迂闊に歩き回ると迷子になりそうだ。
歩きながら、並んでいる本の背表紙を何気なく眺めてみる。しかし、何と書いているのかは分からなかった。試しに適当な本を手に取って、パラパラとめくってみる。そこに書かれた文字は、やはり全く読めなかった。
――アーカーシャは、「言葉が分かるようにしてやった」と言っていたが、会話と読み書きは別物ということか。まあ、考えてみればどの言語でもそれはそうか……
そもそも、この世界にある文字や言語が一つだけとは限らない。本を読めるようになるには、地道に文字を覚えるしかなさそうだった。
その時、本棚の間にラピスの姿を見つけた。本棚から溢れた蔵書を整理しているようだ。
「……大変ですね」
翠は、ラピスに声をかける。
「いいえ、仕事ですので。それと、私に敬語は不要です」
相変わらず淡々と、ラピスは答える。
「あっ、うん……」
念のため、翠はラピスに尋ねた。
「……ええと、館の中を見て回ってもいいかな?」
「構いませんが、体の方は大丈夫ですか?」
「うん……、少し見て回ったらすぐ部屋に戻るから」
「そうですか。それではご自由にどうぞ。くれぐれも足元にはお気をつけて」
「え?」
「本の重みで床が抜けていることがたまにあります」
「わ、分かった……。気を付けるね……」
ラピスはあくまで真顔なので、冗談なのか本当の事なのか判断がつきかねた。
――まあ、冗談を言うタイプには見えないけど……
しばらく行くと、壁際の本棚と本棚の間に扉があった。開けて中を覗いてもいいのか、翠は少しためらう。その時ちょうど内側から扉が開き、中から出てきた人物と翠は鉢合わせた。
ラピスだった。掃除用具を手に持っている。
「あれ……? さっき向こうにいなかった?」
「はい」
――その扉の向こうに抜け道でもあるのか? と思ったが、扉の中はただの物置のようで、どこかに繋がっているようには見えない。
「……もしかして双子だったりする?」
「いいえ」
「……?」
「失礼します、掃除がありますので」
「あの、もしよかったら何か手伝おうか……?」
「不要です」
すげなく断られた。取り付く島もない。
――もしかして嫌われてるのかな……?
本棚の迷宮のような館の中を目的もなくウロウロしていると、案の定、道に迷った。
「……広い……」
館の中は驚くほど広かった。階と階の間に中二階のようなスペースもあり、自分が今どこにいるのか、すぐに分からなくなる。
階段の途中で座り込んでいると、背後から声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
ラピスだった。――どこにでも出現するなぁ、この子。
逆に、館の中でラピス以外の使用人に出会わないのが不思議だった。これだけ広い館とその蔵書を、彼女一人で管理しているとは思えない。
「あっ、うん……。ちょっと迷っちゃって」
「よろしければ、お部屋までご案内しましょうか?」
「ありがとう、お願いするよ……」
「では、こちらへどうぞ」
全く迷うことなく、ラピスは本棚の間を歩いて行く。
その途中で、反対側から歩いてくる人物とすれ違う。――ラピスだった。よく似た別人ではない。鏡に映したかのように、全く同じ顔の同一人物だ。
「……!?」
混乱する翠を尻目に、ラピス同士はお互いを完全にスルーする。
さらに進むと、また別のラピスが蔵書の整理をしている姿が見えた。
「……えーと、ラピス? 君は一体何人いるのかな……?」
「現在稼働中のラピスは私も含めて13体おります」
淡々と、ラピスは答える。
「そ、そっかぁ……。ええと、失礼かもしれないけど、君は人間……?」
「いいえ、私達はお母様に創られた自動人形でございます」
――自動人形?
彼女の肌の質感も、滑らかな動きも、人間にしか見えなかった。
「ええと……、13人全員がラピス? 全員同じ名前だと不便じゃない?」
「業務に支障が出ないよう、私達ラピスは記憶を共有しております。そのため、個体の区別は不要です」
「そ、そっか……。あの、『お母様』って……?」
「この館の主、古き魔女アーカーシャ。それが私達のお母様です」
人形が管理する魔女の図書館。それがアーカーシャの館。
もっと色々と聞いてみたいことはあったが、これ以上は理解が追い付かない気がした。そもそも、この世界の基本的な情報を翠はまだ何も知らない。
「……僕は、これからどうなるのかな」
ラピスに案内されて部屋に戻る道すがら、翠はそう尋ねた。
「少なくともお母様は、あなたを悪いようにはしないと思いますよ」
ラピスは淡々と答える。
「お母様は知識を収集することを生きがいとしております。ですので、異世界人であるあなたにはとても興味を持っておられます」
「そうなんだ……」
――そういえば、貴重なサンプルとか言っていたな……
「私は、お母様からあなたの身の回りの世話を仰せつかっております。特に心身の状態には気を配る様にと」
ラピスは、事務的にそう言った。
――何にせよ、しばらくはここで生活させてもらうより他にない。これからどうするにしろ、もう少しこの世界のことを知らないと何もできない。
「……ところで、つかぬことを聞くけど、僕を着替えさせたのってもしかして君……?」
「元の服を脱がせたのはお母様です。傷の手当ての為もありますが、異世界人の体を全身くまなく調べたいと仰いまして。その後、その服を用意して着せたのは私です」
――気絶している間に一体何をされたんだろう。
怖いのでそれは聞かないでおくことにした。




