オルド川の戦い
オニキスが戻ると、マリアンジュ皇女が勝手に翠を部屋から連れ出していた。翠の瞳は虚ろで、顔に表情もない。
「……あらあら。客人の部屋に勝手に入るなんて、お行儀の悪い姫様ですこと」
「うるさい!! お前、スイに一体何をしたんじゃ!?」
「ふふ……、お子様が知るのはまだ早くってよ。……さあ、こちらにおいでなさい、スイ。部屋に戻りますわよ」
そう言って、オニキスは翠に手を差し伸べる。
「……うん」
従順に頷いて、翠はその手を取った。
「スイ……」
泣きそうな顔をしている幼い皇女を、オニキスは嘲笑った。
*****
それから数日後、オニキスの姿はアイザル砦にあった。アイザル砦はルーセット共和国との国境であるオルド川の岸辺にあり、国境を守備・監視するために存在している。
「ほら、ご覧になって。川の向こうに見えるのがルーセット共和国ですわ。……お母様の大切な箱庭」
砦の塁壁の上に立って、オニキスは言った。
オルド川の対岸には、ルーセット共和国側が国境監視のために建設した城塞がある。
しかし、長らく外敵との戦いを経験していないルーセット共和国は、エルシア帝国に対して軍事面であまりにも脆弱だった。
オニキスの隣には、翠が虚ろな表情で立っていた。オニキスが体に触れても何も反応を示さない。
あれから、翠は人形のように従順だった。完全に自我を手放して、洗脳に身を任せているように見えた。
「可愛い弟子に大切な箱庭を壊されたら、お母様はどんな顔をするかしら……」
そう言って、オニキスは楽しそうに嗤う。
「……さあ、スイ。あなたの力を見せて」
オニキスは、翠の魔法を封じている首輪の錠を、ゆっくりと外した。
――待っていた。この時を。
「……ex……fogo……!!」
首輪を外されたその瞬間、翠は炎の魔法を放つ。オニキスに向かって。
「なっ……!?」
オニキスは咄嗟に後ろに飛びすさった。自動人形である彼女は、反射神経や身体能力が普通の人間よりも高い。
瞬間的に放った魔法ではエーテルもほとんど集められず、威力も弱い。彼女の衣装の裾を焦がすのがせいぜいだった。
「……まさかあなた、ずっと洗脳されたふりをしていましたの!?」
「半分くらいは本当に洗脳されていたけどね……」
洗脳に意識を侵される中で、自我を手放さないように必死に耐えていた。母親の幻覚に抗い続けた。
その時、タイミングを見計らったかのように上空から飛来するものがあった。
緋色の髪の少女を乗せて飛ぶ中型のドラゴン。――リューイだ。
「ガーネット……!!」
翠は彼女の名前を呼んだ。
ガーネットはリューイの背から飛び降りると、そのまま短刀を抜き、ダイレクトにオニキスに斬りかかる。
「くっ……」
オニキスはその攻撃を何とかかわし、致命傷を避けるが、刃は彼女の服と肌を切り裂いた。
ガーネットはそもそも戦闘用の自動人形である。肉弾戦では、オニキスはガーネットに勝ち目はない。
騒ぎに気付いたエルシア兵達が、塁壁の上に集まって来た。これ幸いとばかりに、オニキスは彼らの背後に逃げる。
「……あの女はルーセットの間者ですわ。殺してしまいなさい」
オニキスの精神干渉は、空気中のエーテルを媒介とし、言葉で巧みに相手を操る。
エルシア兵達は、ガーネットに銃剣を向けた。
ガーネットは後ろに飛び退って彼らと距離を取ると、指笛でリューイを呼んだ。
「スイ、つかまって!!」
「うん……!!」
ガーネットは翠の手を取ってリューイの背に引っ張り上げ、砦から上空へ飛び立った。
「……来てくれてありがとう、ガーネット」
「ううん、助けに来るのが遅くなってごめんね」
上空に退避したドラゴンを見上げて、オニキスは内心で歯がみした。
こんなにタイミングよくガーネットが現れたのは、どう考えてもおかしい。まるで、あらかじめ今日この時間にオニキス達が砦に現れるのを知っていたかのようだ。
――まさか、誰かが情報を流した? 一体どうやって……
「……どうする? このまま一旦ルーセットに逃げる?」
ガーネットは、翠に尋ねた。
「ううん、駄目だ。あいつら、ルーセットを攻撃するつもりだ。それは阻止しないと……」
――よりによって、僕にルーセットを攻撃させようとした。
「それに、できればオニキスとはここで決着をつけたい」
翠は言った。
――オニキス。彼女のことを許すことはできない。
洗脳に抗って自分のトラウマと向き合う中で、翠はずっと抑圧されていた一つの感情を思い出した。
これは、「怒り」という感情だ。
「……うん、そうだね」
ガーネットは頷いた。
「な、何だ今の女は……!?」
思わぬ乱入者の出現に、アルフレッドは動揺していた。
現在、このアイザル砦に展開しているエルシア軍の司令官はアルフレッドが務めていた。彼は軍隊の中でかなり高い地位にいるため、本来はこんな前線には出ない。
だが、今の彼は完全にオニキスに精神を掌握されていた。わざわざ洗脳などするまでもなく、小物の分際で権力欲の強い彼の心を操ることなどオニキスには容易かった。
結果として、アルフレッドはオニキスがエルシア軍を操るためにその地位を利用されることになった。
「あの化物にルーセットを攻撃させる算段ではなかったのか!?」
「……うろたえる必要はありませんわ、アルフレッド閣下」
露骨に動揺するアルフレッドの態度に内心で舌打ちしながら、オニキスは言った。
「エルシアのカノン砲であれば、対岸には十分届くでしょう?」
「だ、だが……」
――あの化物の力を利用してルーセットを攻撃させ、何かあった際は彼に全責任を押し付けて切り捨てればいい……と、アルフレッドは軽く考えていた。だが、エルシア軍がルーセットを攻撃するとなれば、話は違ってくる。
「今頃になって怖気づきましたの?」
蔑んだ目で、オニキスはアルフレッドを睨んだ。
――全く、皇帝の弟というその立場以外何の役にも立たない男ですこと。
「……もう、構いませんわ。砲兵部隊に伝えなさい、ルーセットを攻撃しろと。今すぐに」
伝令兵に向けて、オニキスは自ら指示を出す。
「ま、待て……!!」
アルフレッドは慌てて止めようとしたが、伝令兵はオニキスの指示に従った。伝令兵もまた、オニキスの精神干渉を受けている。
伝令を受け、塁壁に敷設された大砲に、砲兵たちが砲弾を装填していく。
――その時。
「……explosion……!!」
大砲に込められた火薬がその場で暴発を起こし、砲台もろとも破壊される。
リューイの上から、翠が爆破魔法を使ったのだ。
ドラゴンは塁壁の上を旋回するように飛び、翠は大砲を一つずつ破壊していった。
――ルーセットを攻撃はさせない。
「く……、くそっ、あいつらを撃ち落とせ……!!」
自棄になったように、アルフレッドが銃兵隊に命令する。一斉に、リューイに向けて銃撃が行われた。
ガーネットはリューイの手綱を操って、急旋回して銃弾を回避する。
「スイ、大丈夫……!?」
後ろに乗っている翠を気遣って、ガーネットが声をかける。
「だ、大丈夫……、僕のことは気にしないで。それより、まだ大砲が残ってる……」
しかし、迂闊に近づくと銃兵隊の的になってしまう。――どうする……?
破壊力の大きい爆轟魔法でまとめて吹き飛ばすことも可能ではある。だが、それに巻き込まれて死ぬ人数の多さを考えて、翠は躊躇してしまった。
その間に、残った大砲の装填が完了した。
「撃てぇーー!!」
砲兵隊長の号令で、砲口が一斉にルーセットに向けて火を噴いた。
――しまった……!!
自分の躊躇いを、翠は後悔した。
だが、砲弾がルーセットに届くことはなかった。
オルド川の上空で、まるで空間に縫い付けられたかのように砲弾が止まっている。
「な、何だ……?」
エルシアの兵士たちがざわめく。何が起こったのか誰一人理解できずにいる中、大きなエーテルのゆらぎが、翠には視えていた。
砲弾が縫い留められたその空間に、魔法陣が出現する。魔法陣を中心として、ぱっくりと空間が裂けた。
――すごい。空間転移の魔法だ。一体どんな理論を構築すればこんな魔法が使えるんだろう……
大きなエーテルの流れを感じ取って、翠の背中の翼がザワザワした。
空間の裂け目から、何者かが姿を現した。
ゆるやかに波打つ金色の髪。
歯車仕掛けの下半身に、マネキン人形のような上半身が乗っている。そして、肩からは機械のような四本の腕が生えた、人ならざる存在。
――古き魔女アーカーシャ。
「お母様……どうしてここに……」
驚いて、オニキスが呟く。
「人間同士の争いなら放っておこうと思っていたが、私の不肖の娘が関わっているとなれば話は別だ」
静かな声で、アーカーシャはそう言った。彼女の体は、オルド川の水面の上に浮いている。
空間上に止まっていた砲弾が、ボトボトと川の中に落ちた。
「あ……あれは、あれはまさか……」
アルフレッドは、腰を抜かしてその場に倒れた。
突如として出現したそれが、人智を超えた存在であることは誰の目にも明らかだった。
「ふ……、古き魔女……?」
エルシア軍の兵士たちに動揺が広がっていく。
ガーネットはリューイの手綱を操り、アーカーシャの元へと飛んだ。
「師匠……!!」
翠は、リューイの背からアーカーシャに声をかけた。
「……スイ。私の作った人形のせいで色々と済まなかったな」
「いいえ、諸々僕の不手際です……」
――そもそも、オニキスに拉致されたのは僕が油断したせいだ。
「……あの、こんな所まで来て頂いて申し訳ないんですけど、オニキスへの決着は僕につけさせて下さい」
「ああ、もちろんだ。どちらにせよ、私はこの国境線より向こうには干渉できない。ルーセットへの攻撃は防いでやるから安心しろ」
「ありがとうございます……!!」
「何をしておりますの!? 連中を撃ち落としなさい……!!」
オニキスが叫ぶが、突然のアーカーシャの出現に、兵士たちは震え上がっていた。
そうこうしているうちに、アイザル砦にリューイが舞い戻って来た。
リューイの背から降りて、翠が言う。
「……決着をつけよう、オニキス」
オニキスを守るように、周囲の兵士が翠に銃を向けた。
「……ex……fogo……!!」
翠は兵士たちの銃に詰まっている火薬を燃焼させ、銃を暴発させた。破裂音とともに、兵士達の悲鳴と呻き声が響く。
「……邪魔をしないで下さい」
「スイが怒ってる……」
驚いて、思わずガーネットはそう呟いた。翠と出会ってから、彼がこんなに感情をあらわにするのを初めて見る。
「……どうして、こんなに都合よくガーネットお姉さまと合流できましたの?」
追い詰められたオニキスは、翠にそう尋ねた。
ガーネットだけではない。よりによってアーカーシャまで、こんなにタイミングよく現れたのは一体何故なのか。
「それは……」
翠が答えようとしたその時、
「それは、俺様のおかげだ!!!!」
突如として炎が巻き起こったかと思うと、その中から一人の女性が姿を現した。炎のような赫い髪に、体のラインがはっきりと出る赤いドレス。――「炎のような」というのは比喩表現ではなく、本当に髪が炎をまとって燃えている。
女は、不敵な顔で笑った。
「あなたは……」
驚いて、オニキスは呟く。
「俺はテジャス、――古き魔女テジャスだ!!!!」
エルシア帝国をテリトリーとする古き魔女テジャス。彼女は、ここ百年ほど消息が分からなくなっていたはずだ。
――それが、どうしてこんな所に。
「テジャス……まさか……、どうしてあなたがスイに力を貸しますの……?」
「いやぁ、ちょっとこいつと取引してな、一個だけ頼みを聞いてやったんだよ」
そう言ってテジャスは、翠の首に腕を回す。
「こいつの仲間と、アーカーシャに情報を伝えるっていう頼みをな。……まったく、古き魔女を使い走りにするとは、大した奴だよお前はよぉ」
ちなみに、テジャスのこの姿は彼女の本体ではない。よくできた立体映像のようなものなので、燃える髪の女に絡まれても熱さは感じない。
――テジャスの本体は、意外な場所にあった。