思惑
「オルダキアの反乱軍が壊滅……か」
あの後、エルシア軍に追撃をかけられたオルダキアの竜騎兵団は、別動隊も含めて事実上壊滅した。反乱軍が勢力を回復させるのは、もう難しいだろう。
皇帝アレクサンドルは、オニキスの後ろに虚ろな表情で立っている少年に畏怖の眼差しを向けた。
――『魔法』を行使する者が、現代にも存在しているとは。
「これが彼の本当の力でございますわ、皇帝陛下」
そう言って、オニキスは微笑む。
「う、うむ……」
内心で肝を冷やしていたのはアルフレッドだ。
――ただの奴隷だと思っていた小僧が、とんでもない化物だった。
マリアンジュは、明らかに様子のおかしい翠のことを心配そうに見ていた。幼いが故に何もできない自分が歯痒かった。翠に冤罪がかけられた時も、自分は何もできなかった。
「スイ……」
――スイは私のことを助けてくれたのに。
*****
自分の悲鳴で、翠は目を覚ました。
どこか知らない部屋の中で、ベッドの上に寝かされていた。首にはまた、エーテルを拡散させる例の首輪を付けられている。
自分が何をしたのか、翠ははっきり覚えていた。
――あの時、一体何人死んだのだろう。……自分は、一体何人殺したんだろう。
吐き気と悪寒が止まらなかった。意識はしっかりしているのに、体が思う様に動かない。
――逃げないと。このままでは僕は、人殺しの道具にされてしまう……
「あら、お目覚めになりましたの……?」
オニキスがそこにいた。
ベッドに横たわる翠の体を優しく撫でながら、オニキスは言う。
「……まだ自意識があるなんて。もっとしっかり調教してあげますわ」
「い……、嫌だ……」
オニキスの声が、翠の精神を侵食する。
「“いい子ね、私の可愛い翠……。さあ、私の言葉を聞いて……?”」
――駄目だ。彼女の言葉に身を委ねては。
オニキスは母親の幻想を見せてくる。翠が望んでいた母親の幻想を。
――現実を直視しろ。母さんは僕を愛していなかった。
血が出るほどに強く、翠は自分の舌を噛んだ。
*****
ルーセット共和国とエルシア帝国の国境には、オルド川という大河が流れている。
エルシア帝国側の川岸にはアイザル砦と呼ばれる要塞が建設されており、常に国境線を監視していた。普段は最低限の兵士がルーチンの監視業務を行っているだけの砦なのだが、どうもここ数日で明らかに兵の数が増えたらしい。明らかに軍備を増強しているという話だ。
そんな報告を受けて、エミディオは難しい顔をした。
――ルーセットに対して示威行為を行っているのか? 一体何のために。
オルダキア反乱軍の敗北の件も、ルーセットまで話は届いていた。
「……オルダキアは、君の故郷だったね」
エミディオは、側に控えていたカルラにそう言った。
「はい……」
カルラはエミディオの私兵として主に身辺警護や偵察の任務を行っている。彼女の出自は、オルダキアからルーセットに流れてきた難民だった。
オルダキアに対するエルシア軍の防衛拠点だったジレーズ砦では、多くのオルダキア兵が犠牲になったと聞く。
――気になるのは、ジレーズ砦に現れたという少年の噂だ。
彼は、『魔法』のような力を使い、オルダキアの竜騎兵団を壊滅させたという。……話によると、彼は背中に翼の生えた異形の姿をしていたとか。
「スイ君……」
ガーネットから、彼が例の黒い少女に拉致されたという話は聞いていた。――まさか、帝国に連れて行かれたとは。
「……如何いたしますか?」
カルラがエミディオに指示を仰ぐ。
「残念だけど、現時点で我々にできることは何もない。下手に動いて帝国を刺激しない方がいい」
アーカーシャのおかげで長らく外敵から守られてきたルーセットには、帝国に対抗できるような軍事力などない。国境の警備と監視は強化させるが、牽制にすらならないだろう。
――何が何でも、戦争だけは回避しなければならない。
*****
精神を凌辱される苦痛に耐え、翠は何とか洗脳に抗っていた。
舌を強く噛みすぎて、口の中は血の味がする。
――あれから、どれくらいの時間が経ったのかよく分からない。
時間の感覚が曖昧で、自分がちゃんと自我を保てているのか自信がなかった。部屋の中は薄暗く、人の気配はない。恐らくこの部屋は、オニキスが滞在している客室なのだろう。
翠は指をゆっくりと閉じたり開いたりして、身体感覚を取り戻そうとした。
その時、部屋の扉が小さくカチャリと音を立てて開いた。
オニキスが戻って来たのかと思って思わず身構えたが、こっそりと部屋の中に入って来たのは、小さな人影だった。
――マリアンジュ皇女だ。
意外な人物の登場に、翠は驚く。
「スイ……!!」
「マリアンジュ様……。ど、どうやってここに……?」
「侍女からマスターキーを拝借したんじゃ」
マリアンジュは、翠のいるベッドの方に駆け寄ってくる。
「スイ……? 大丈夫か? 血が……」
口の端から血が零れて、翠の着ている服を汚していた。
「あ……、だ、大丈夫です……、これは自分で噛んだので……」
慌てて、翠は口元の血を拭う。
「あの女が来てから、父上も少し変なんじゃ……。みんな少しずつおかしくなってきておる」
オニキスは皇帝に取り入って、少しずつ精神干渉を行っているのだろう。――何のために?
彼女の行動原理がアーカーシャへの反抗だとするなら、目的はまさか、ルーセットとの戦争なのか……?
「……私はまだ小さいから、誰もまともに話を聞いてくれん。スイ、お前だけでもここから逃げるんじゃ」
マリアンジュは、翠に言った。
「私は確かに魔法を使ってみたいと言ったが、あんな……、あんなのは……」
ジレーズ砦の一件は、彼女の耳にも入ったのだろう。彼女が、幼いながらに翠の身を案じてくれていることが、翠は嬉しかった。
「……ありがとうございます、マリアンジュ様。でも、今はまだ逃げられません……」
首輪で魔法を封じられている状態では、逃げたところですぐに捕まってしまうだろう。エルシア帝国から脱出するのも困難だ。――逃亡するなら、もっと確実なタイミングを待たないといけない。
「それよりも、確認したいことがあるんです……」
「……え?」