深層の傷
石造りの独房の中に、翠は繋がれていた。壁から伸びた鎖で両腕を吊るし上げられている。
あれから、尋問という名のただの暴行を受けた。
兵士もアルフレッドの息のかかった連中なので、そもそも翠の話を聞く気など最初からなかった。翠がアルフレッドにとって都合のいい自白をするまで、ひたすら痛めつけるつもりなのだろう。
――どうしよう。
本当にまずい状況になった。皇女誘拐犯に仕立て上げられれば、処刑は免れない。かと言ってこのまま黙っていても、衰弱して死ぬまで暴行されるに違いない。釈明の機会すら与えてもらえない。
翠は痛みと疲労でぼんやりする頭で何とか打開策を考えたが、何も妙案は浮かばなかった。
その時、廊下を誰かが歩いてくる足音が聞こえた。
また『尋問』が始まるのかと思って心臓が竦み上がったが、現れたのは意外な人物だった。
「……オニキス」
「あらあら、随分と可愛がってもらいましたのね」
当然のように、オニキスは独房の鍵を開けて中に入ってきた。ボロボロになって繋がれている翠の姿を見て、唇を歪めて笑う。
そして、翠の体の痣を優しく撫でるように指を這わせた。
「……っ」
痛みに、翠は顔をしかめた。
「こんなに殴られて可哀想……。もし、あなたが私のものになると約束するなら、助けてあげてもよろしくてよ?」
「…………」
どうするべきなのか、翠は逡巡した。
――この状況から逃れるために、口約束でも彼女のものになると言うべきなのか。……いや駄目だ。彼女に精神を支配されれば、二度と逃れられない気がする。
「……それって君の奴隷になれって意味だろう……? そんな約束、できるわけないじゃないか……」
「そう、残念ですわね。……もし約束してくれるなら、あなたの自意識くらいは残してあげようと思っていましたのに」
「え……」
オニキスは嗤う。嘲るように、憐れむように。
「本当はもう少し準備を整えてから、ゆっくりとあなたを調教しようと思っていたんですけど……。こうなってしまっては仕方ありませんわ。……少し乱暴ですけど、我慢なさって」
オニキスは、翠の唇に自らの唇を重ねる。
また何か飲まされるのかと思ったが、口の中に入り込んできたのは彼女の舌だった。頭を押さえつけられ、強引に口内を犯される。それに抵抗するだけの体力が、翠には残っていなかった。
ロマンチックの欠片もない強引な口づけを受けながら、翠はふと違和感に気づく。
――舌が、長い。
それは舌というより、まるで触手のようだった。口内どころか喉奥まで侵入してくるそれに、翠は吐き気を催してえずいた。
気持ちが悪くて、気力を振り絞って翠はそれに噛みついた。
翠の口内からズルリと触手を引き抜き、オニキスは笑った。
「ふふっ……、まだ噛みつく気力は残っていますのね」
「そ……、それ……」
彼女の口から伸びる肉質の触手に、翠は見覚えがあった。
――アーカーシャの左目に生えている触手と似ている。
「あら、見覚えがありますの? お母様に脳を弄られたことがあるのかしら?」
翠がこの世界に迷い込んだ最初の頃、アーカーシャに脳を弄られたことがある。そのおかげで意思疎通が可能になったわけだが、右目に触手を突っ込まれた時のあの気持ち悪さは忘れていない。
「……私はお母様ほど優しくなくってよ。あなたの深層心理まで犯して、私のものにしてあげますわ」
オニキスはその触手のような舌で、翠の顔や首筋を舐め回す。
「どの穴に挿れてほしい……? ああ、やっぱり右目かしら……」
うっとりと呟いて、オニキスは翠の右眼窩から生えている翼に舌を這わせる。
「や……、やめっ……」
抵抗しようとしてもがいたが、腕を拘束する鉄の枷が手首に食い込むだけで無駄だった。
眼球を失った右目の洞、今は翼の生えているその隙間から、ずるりと触手が潜り込んでくる。殴られるのとは全く別のその痛みに、翠は呻いた。強引に挿入されたせいで裂けた傷口から血が流れ落ちる。
『……ふふ、痛いのは最初だけですわ。さあ、あなたの記憶を見せて……』
オニキスの思考が、直接脳内に流れ込んできた。
脳に直接アクセスされて、記憶を暴かれていく。
『……何、この記憶は……』
オニキスが驚いているのが分かる。――当然だ。彼女にとっては未知の異世界の記憶なのだから。
『あなた、まさか……、この世界の人間ではないの……?』
狼狽と、好奇心。オニキスの感情が直接流れ込んでくる。
『……ふふ、ますますあなたのことが欲しくなりましたわ。あなたは、世界樹に至る鍵に成り得る……』
――世界樹?
聞き覚えのないワードが出てきて、翠は困惑する。
『あなたにはもう関係のないことですわ。……これから私のものになるあなたには』
右目の奥で異物が蠢いている感触が不快で、早く解放してほしかった。
――もう、僕の記憶は十分見ただろう……?
『まだ、ここからですわよ……。さあ、もっとあなたの奥深くを私にお見せなさい』
翠が触れられたくない深層に、オニキスは強引に手を伸ばす。
「いっ……、嫌だ……」
――そこから先は駄目だ。その先は、思い出したくない……
*****
翠の育った家は、いわゆるエリート家系だった。
父親は大学教授。母親も高学歴の才女で、父とは大学の研究室で出会ったらしい。父と結婚後は、実家の意向もあって専業主婦になった。
翠の兄はまぎれもない天才で、アメリカの大学に進学して飛び級で博士号を取得し、そのまま向こうで研究者になった。
――そんな兄と比べて、翠はあまりにも「普通」だった。
“お兄ちゃんはもっと出来たわよ”
それが、母親の口癖だった。
小学生の頃から塾に通わされ、成績は一番が当たり前。少しでも成績が落ちれば食事抜きを言い渡された。――食べ盛りの頃に食事抜きは本当につらかった。毎日泣きながら勉強させられたことを覚えている。
当然、友達と遊ぶ時間なんてなかったから、仲のいい友達も作れなかった。
中学に入ると、思うように成績が上がらなくなった。そのせいで、母親の教育はエスカレートした。
成績が落ちると、落ちた点数の分だけ定規で背中を叩かれた。食事をもらえない日も増えた。
父親は仕事で滅多に家に帰ってこないから、母親と二人きりの家は地獄だった。もっとも、父も「できるのが当然」という考え方の人だったから、翠の成績には厳しかった。
高校は、何とか母親の希望通りの進学校に入学できたが、授業について行くのに本当に必死だった。
ストレスのあまりトイレで吐いたことが何度もある。
母親とは、もう会話もしなくなっていた。
――全部、僕ができないのが悪いんだ。僕が、兄のように優秀ではないから。
翠は、そう思っていた。
「やめっ……、やめて……」
――こんな記憶を掘り返さないで。
『辛い思いをしましたのね……。お母様を恨んでいるのかしら』
――違っ……、違う……。母さんは、僕のために……
父方の実家は厳しい家だった。妻として、家庭にも教育にも完璧を求められ、母がいつも悩んでいたことを翠は知っていた。
『ああ、だからお母様はあなたをストレスの捌け口にしていましたのね』
――違う。……違う。
“あなたのためにやっているのよ”
口癖のように、母はいつもそう言っていた。――その言葉を信じていた。
『嘘ばっかり。全部自分の見栄とプライドのためですわよ。……ねえ、本当は気づいていたんでしょう?』
――違う……
『だって……、あなたを叩いている時のお母様、とても楽しそうな顔をしていましたもの……』
――違う……!!
――やめて。やめろ。違う違うちがうちがう……!!
――母さんは、僕のために……
『……“そう、あなたのためよ”』
母の声と、オニキスの声が重なった。
『“全部あなたのためよ……。愛しているわ、翠……”』
オニキスは、唇を歪めて嗤う。
――捕まえましたわ。もう逃がさない。
『……だから、あなたはもう何も考えなくていいの。全部、私に委ねなさい……?』
強張っていた翠の体から力が抜けていく。
オニキスは、翠の右眼窩から触手を引き抜いた。涙のように流れ落ちる血を丁寧に舐め取る。
トラウマを抉り出し、相手が一番欲しがっている言葉を与えてやれば、洗脳など容易い。
表情を失った翠の頬を、オニキスは愛おしげに撫でた。
「今日からは、私がたっぷり愛してあげますわ……。私の可愛いスイ……」