ヴァーユの望み
「それじゃ、僕たちはこれで……」
そそくさとその場を離れようとした翠を、ヴァーユが引き止めた。
「お待ちなさいませ。せっかく助けてあげたのに礼の一つもありませんの?」
「た、助けて下さってありがとうございました……」
距離を取ろうとする翠の腕をつかんで引き寄せ、ヴァーユは体を密着させてくる。黒い爪で翠の頬をなぞりながら、彼女は言った。
「……あなたがここまで来た理由はだいたい分かりましたわ。条件によっては、協力してあげてもよくってよ……?」
先ほど、顔を寄せた一瞬でヴァーユは翠の記憶を読んでいる。
――怖い。怪しい。一体何を要求されるんだ……?
「条件ってなんですか……?」
戦々恐々としながら、翠は尋ねた。
「……そこの人形がいない所で話がしたいですわ。今晩、時間を作ってもらえるかしら?」
ガーネットの方を一瞥して、ヴァーユは言う。
「わ……、分かりました」
翠が頷くと、ヴァーユは満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ今晩、以前会ったファイの遺跡に来てくださいませ。待っておりますわ」
そう言って、ヴァーユの姿は風に溶けるように消えた。
「……スイ、大丈夫なの?」
ガーネットが心配そうに尋ねる。
「うん……。まあ、クロもいるし多分大丈夫……」
――正直言って不安ではある。でも、もしヴァーユが協力してくれるならリスクを負うだけの価値は十分にある。
*****
その晩、翠はクロの背に乗ってファイの遺跡に赴いた。
ガーネットが近くにいては、恐らくヴァーユにはすぐに気づかれてしまう。そのため、彼女にはリューイと共に離れた場所で待機してもらっていた。
宝石を散りばめたような紫紺の空が、視界一杯に広がっている。
石造りの古代の王墓の上に、そこだけ黒く切り取られた影絵のように彼女は立っていた。
「……あら、思ったより早かったですわね」
オニキスの姿をした少女は、黒い唇でそう言った。彼女の纏った黒いローブが風で舞い上がり、まるで漆黒の翼のように見えた。
――以前に会った時と全く同じシチュエーションに、強烈な既視感を覚える。
ヴァーユは、翠のもとにふわりと舞い降りてきた。
「そんなに私のことを怖がらないで下さいまし。昼間、あなたに惚れ直したと言ったのは本当ですのよ……?」
緊張が顔に出ていたのか、ヴァーユは甘やかな声でそう言った。
「それで、条件ってなんですか?」
「せっかちですわね……」
そっけない翠の態度に、ヴァーユはため息をつく。
「私、過去に受けた拷問で自分の顔を失ってしまいましたの。……その話はしましたわよね?」
「はい……」
――『魔女狩り』の際に受けた拷問で全身の皮を剥がされ、彼女は自分の顔を失った。それ以来、ずっと他人の皮を被って生きている――以前、彼女はそう言った。
「その代わり、自分の中身は大切に保存しておりますのよ。人間の体を捨てた他の魔女たちと違って、内臓は人間の頃のままですの」
「……? そうなんですか……」
彼女が一体何を言わんとしているのか、翠には分からなかった。
「……卵巣も、子宮も、残っておりますのよ」
ヴァーユが言ったのは、あまりにも意外な言葉だった。
「私、子供が欲しいんですの」
その意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。
「えっ……?」
「優秀な魔道士の子供が欲しい。千年間待ちましたわ。……魔法が衰退したこの時代に、もう、こんな機会は二度とないかもしれない」
ヴァーユは、翠の腕をつかんだ。
「えっ、あの、ちょっ……」
全く予想だにしていなかった事態に、翠はパニックを起こしていた。
「私のことを抱いてくださいませ」
「ま、待ってください。僕は、僕には好きな人が……」
「……あの人形に本気で惚れていますの? まあ、別にそれは構いませんわ」
「構わなくないですよ!?」
「別に、私の男になれと言っているわけではありませんのよ? 孕ませてくれればそれで構いませんの」
「そ、それはあまりにも無責任というか……」
「あら、あなたに責任が取れるなんて思っておりますの? 自惚れないでほしいですわね」
「す……、すいませ……」
――どうすればいいんだ……? ヴァーユの協力は欲しい。でも、魔女に体を売るような真似をしていいのか? それに、ガーネットのことも……
混乱する心を何とか鎮めながら、翠は言った。
「わ……、分かりました。でも、その、段階を踏ませてください……」
「段階……?」
怪訝そうに、ヴァーユは尋ねる。
「……僕は、あなたのことをまだほとんど知らない。だから、あなたのことを教えてください」
「私の過去を知りたい……ということかしら」
「はい……」
――子供が欲しい。突然そんなことを言いだした理由が知りたい。
「私の過去なんて、正直大したことはありませんわよ。……それに、拷問を受けた私の過去を見る覚悟があなたにありますの?」
「それは……」
以前、ローズクォーツに見せられた凄惨な記憶を翠は思い出す。
「……覚悟は、あります。あなたの過去を見せて下さい」
オニキスと同じ顔で、ヴァーユは挑発的に微笑んだ。翠の顔を引き寄せて、深い口づけをする。
唇の間から、彼女の長い舌が口内に潜り込んでくる。
唾液と一緒に流れ込んできたのは、彼女が人間だった頃の記憶だった。




