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しらぬひシリーズ  作者: なにがし
1/3

episode1「丁半ばくち(前編)」

殺陣集団「しらぬひ抜刀隊」のメンバーをもとにした登場人物たちが謀略渦巻く京都市中にて出会い、物語をつむぐ。

各登場人物が主人公になり、オムニバス形式で連載予定。


episode1(主人公/五鈴)

幕末、博打狂いでもあり商人でもある五鈴という男がいた。

のらりくらり京都を根城に、商人・農民・佐幕派・攘夷派とあらゆる組織を相手をするに厭わない

自分の身を遊びに使う男であった。

今、己の人生を掛け金に丁半を張る。




 何故、賭けるのかという問いに、こたえられる人間は救いようがある。

 何故、賭けるのかという問いに、こたえを持たない自分は救いようがないのだ。



 「貴方にはほとほと愛想が尽きました。さよなら」

 単衣の小紋の着物に黒い羽織姿の女性が、朝露に袖を手繰り寄せながら言った。

耳にタコというぐらい女に言われてきた台詞である。女にこう何度も言わせるぐらいなのだから、むしろ自分の愛嬌でもあるんではないかと開き直りたくもなる。

「丁か半か、さあ張った張った」

 煽る声が、物思いにふける五鈴の耳に届き、慣れた手つきで丁に張る。

 男達の咳払いと、時折漏れ聞く女の囁きが昼の時間にしては空気をしっとりとさせた。

 五鈴は河原町通りにある直参旗本の屋敷の一室に設けられた賭場で有り金を賭け、先刻のやりとりを思い出していた。

 病的であると自覚はある。だが酒で暴力を振るうわけでなし、他所の女に使い込むことも、身を崩すほどの金を丁半にのせるでもない、いたって健全に遊んでいるのだ。

「盆中コマ揃いました」

と、中盆(なかぼん/賭場の進行係)が仕切ると、

ツボ振りが賽の目を張客に見せつけ、壺に叩き込む。

「勝負」

 十二畳を人が四角く囲み、中央向かい合ってツボ振りと中盆が座っている。五鈴は部屋の角隅で丁半を張っていた。

 障子を透かして入る外の明かりと、そこかしこに灯る蝋燭で室内に人影が揺れている。

「水戸藩の奴らがやったらしいじゃないか」

「ああ、江戸のだろ。嫌だねぇ物騒だよ」

「夷人(外人)のいる寺だろ。妙心寺が貸したらしいとかっていうじゃないか」

 人集まれば噂も巡る。

 桜田門で大老・井伊直弼が暗殺されてから、関東からの噂は京の人間にとって一番の娯楽となっていた。下手な御家人よりも商人のほうが情報が早く、金が回る場所には商人の息が吹いているもので、博徒も客も商人も神経を張り巡らしている。政治の左右によって儲けに響くために、死活なのだ。

「五鈴さん」

 隣で同じように張っている煮売り屋の手代が盆茣蓙(ぼんござ/壺をふせる所に敷くござ)から目を離さず、顔を寄せて話しかける。

「なんでしょ」

「あんた、色んなところに手ぇ出してるだろ。何か聞かないかい」

五鈴も開いた賽の目を眺めたまま何ってなんです、と返す。

「ああ、俺も気になってたんだよ、あんた、いやらしく鼻が利くじゃないか」

今度は手代の反対にいる風呂屋の番頭が肩を寄せてきた。

「よしてくださいよ、なんで女に振られた日に野郎に挟まれるんです」

「またかい、あんたも懲りないねえ」

「どうせ女そっちのけで、あっちの賭場、こっちの鉄火場で丁半やってるからだろ」

「見てきたように言わんでくださいよ。女も博打も分らないから触れたくなるんです」

「ほらな、そんで懲りずにここに来てんだから」

と、手代が言うに続いて、

「どうしようもない病だよ」

と番頭が締めた。

 五鈴も馴染みの二人にそうも畳み掛けられては、バツが悪い。

 次の勝負が始まる。中盆が仕切り始めると、張客が丁半にコマを置く。

 その様子を五鈴がざっと見渡しがながら、すり寄ってくる男二人に声の調子を落とした。

「あたしはねえ、仰るとおりあちらそちらの賭場に顔を出しておりますからねえ、顔はわかるんですよ。ここ最近見ない顔が増えましてね」

ほお、と番頭が関心する。

「俺も職業柄、色んな顔を見るが。確かに最近知らねえ顔があるな」

「ねえ、それも皆、関東訛りだ。物騒になってからというもの薩摩やら長州やらの訛りも増えましたが特に江戸からの人が多いんです。それに浪人崩れが増えたうえに身なりの良い侍が増えた。江戸から京に人が集まりつつある。何が起きるんですかねえ」

 人が増えれば動く金も増え、関係もより複雑化する。特に京の人間は他と比べて内々にため込む性分であるから、見えにくい。

「半ないか、半ないか」

 半に賭ける人間がいない。中盆が丁半の釣り合いを揃えるよう張客を煽るので、五鈴が緩慢にすべてのコマを半に置く。

「おや、あがるのかい」

「なんだか調子がでないのでね」

 薄暗い遊びに興じるには、心持が重い。

 遊びを終いにするような仕草の五鈴に、知り合いの男がこんな早い時間に珍しいと茶化した時である。

「手入れだ‼ 目付のやつらだ‼」

「待て‼ 勝手しやがるな‼」

「旗本の屋敷に土足たあどういう了見だ‼」

「外に奉行所の連中もいやがる‼」

 賭場のこもった熱がにわかに鋭く変化し、かたくなる。

 必死に見張り役の三下が叫ぶが、揃った足並みがこちらに勇んでくる。

「どけ‼」

 今度は張客の二人が男達を押しのけ立ち上がる。

「先生‼ こちらです‼」

「邪魔だ‼ どけ‼」

 比較的身なりが良いと、先ほど五鈴が称した武家の男が、いかにも役方(文官)という物腰の男を早く賭場の外へ出そうとしている。

 物音の異常さに気づき、賭場責任者の代貸が飛んで出てきた時には、巻き込まれたくない客と武家とが押し合いへし合い、

「ええい‼」

と一人が刀をすらりと抜いた。ひとだかりで狭くなった廊下と部屋とが悲鳴と怒号で騒然となる。

「野郎、刀を抜きやがった‼」

洪水のように部屋から人が噴出し、それに乗じて逃げようとする先生を守りながら逃げる侍二人の顔を五鈴は慌てもせずじっと見つめる。

「御用改めである! 尊攘派の盛岡道宗だな! ひっとらえ!」

 あとは早かった。目付らが一人を張り倒し、一人を殴り倒し、本命の盛岡は後ろ手に締め上げられ、連れ去られていった。

「お前らはここに残れ、話を聞く」

と目付(武家の監察役)の手下が賭場にいた人間をとりあえずひとまとめに拘束し始めた。

 五鈴はそろりと隅で影を薄くしていたこともあってうまく逃げだせたが、さて表の通りにといったところで背中を引き留められた。

「おい。どこへいく」

白を切ろうとし、五鈴は肩をすくめて振り向いた。

「あたしはいいじゃないですが、知らない仲であるまいし」

「そうはいかん」

 京都町奉行所三〇俵二人扶持同心・島田新之助。つまりは世襲で代々同心を担っている贅沢はできない清貧な下っ端御家人で、賭場に入り浸る五鈴が顔見知りになってしまった同心でもある。妙な場面に出くわす度に口八丁手八丁で袖の下を渡し、多くの同心を躱すものだから堅物偏屈で知れた島田が相手するようになった。五鈴も顔が広いために情報提供者として同心の捜査に協力するもあって、もちつもたれつの仲である。

 先ほどまで密度の濃かった賭場は、障子が開け放たれ人が素早く往来し、少しも重たく感じさせなかった。

「知ってることを吐け」

「何もございませんよ。お侍さんが最近入り浸るなあと思ってたぐらいで素性も、交友関係も知りません」

「本当か」

「嘘ついてどうするんです。ねえ、枯れた御家人の屋敷じゃあるまいし九〇〇石の旗本直参のお屋敷じゃあないですか。ここが踏み込まれるとは驚きですが」

「・・・・・・ここの中間が博徒に場所貸した。主人が気づいてやめさせようとしたが実入りがいい。もともとここの旗本は尊攘などと考えはなかったが、上役が攘夷派でな。ご機嫌伺いに無碍にもできず場を貸すだけならと、のらりくらりとしていたらしい。そこに目付の糸がのびて発覚に至ったと聞いている」

 にしても無理のある捕手だったと、同心・島田も納得していない。

 このとき幕府内でも朝廷内でも政治が渦を巻いていた。尊攘派つまり帝を中心に諸外国を打ち払おうとする一派と、幕府体制はそのままに諸外国を打ち払いたい一派、幕府と朝廷が協力して諸外国と貿易をしていこうとする一派など様々な勢力が入り乱れていた。

 尊攘派と攘夷派は諸外国を排除する点では考えが同じだった。互いに利用しようとすると守らねばならぬ付き合いが生まれる。

「日和見するには看過できない人間が出入りするようになって、密告されたわけだ」

 多くの武士はこういったどちらの勢力権力につくかお茶を濁して生活している。脱藩浪人や、草莽の志士(民衆※1)と違って飯を食うには今の役職を失うわけにはいかないのである。

「いやですねえ、そちらは複雑で。金の繋がりはいいですよ、わかりやすくって」

「馬鹿を言うな、生ぬるい湯に浸かりおって。似合わぬ」

「——さあてね」

 五鈴は肩をすくめ、もういいですねと屋敷を後にした。







 初夏の気配が朝にも匂ってくる時節。

 五鈴は前の晩に、伏見の旅籠・角倉屋に泊まると朝一で大坂に下った。伏見と大坂をつなぐ三十石船がある。伏見から大坂へは川の流れに沿うので夜のうちに、大坂から伏見は川を逆行するため早朝から夕方までかかった。

「五鈴さんじゃあおまへんか」

「どうも、ご無沙汰しておりますよ」

 人混みを縫うようにやってきた五鈴に、まさに問屋の大旦那といった風体の男が頭を下げた。

「お足を伸ばしてくれなはって、嬉しいです」

 船場の商人がつかう丁寧な口調が、京とも違い、しなやかな印象を相手に与えた。

 商都大坂天満、大阪三大市場のひとつである。伏見から流れる淀川と大和川が合流し、大川となったところにある。

大川の北、天神祭りで有名な天満天神宮が鎮座するここら一帯は天満と呼ばれ、秀吉の時代から寺内町として栄えた。

徳川の時代に入り大坂城が再建され、市街地が拡大されて今の天満問屋街ができあがっていった。

ずらり天満問屋街が伸びて広がってまさに圧巻。問屋・仲買業者が数千軒以上、店先には屋号が白に染め抜きされた藍色の暖簾がかかり、通り沿いに暖簾が連なっている。野菜や果実がひっきりなしに運びこまれ、九州から北海道まで廻船問屋が運んだ日本中の青物がここに集まった。

ぱたぱたと初夏の風に藍暖簾がはためく。

「どうですか、商いは」

「そうですなあ、濁させてもらいますわ」

そう口にする伊藤屋の表情は困り顔だ。

 大きな荷車が五鈴のすぐ後ろで二台すれ違う。背中を押されるかたちで、問屋屋敷の店先にかかる藍暖簾をくぐる。「伊」と屋号があった。

大阪商人らしく、柔らかい言葉尻と眉をハの字にした伊藤屋の主人は、藍の濃い地色の生地に薄く細かい模様と裾にわずかな刺繍のある洒落た装いであった。

「五鈴さんは、私がおつなぎした舟問屋さんがうまくいっていなはるようで」

「いえねえ、伊藤屋さんの目利きとお人柄でご紹介頂きましたお方ですから。あたしは運が良いんです」

「舟を貸す商売なんて聞かへん。貸し借りはよくありますけど、商売として成り立たせなはるとは」

 問屋屋敷に入ると、大きくひらけた土間に商品が積み上げられている。五鈴は玄関先に座り、お茶をすする。

「あたしは一つの商いだけだと飽いてしまう性分だから、中途に手出しして大成せずに終えるが合ってるんです。根がねえ、商人でなく博打打ちだから、真面な商人には煙られますんでねえ」

と、悪戯に伊藤屋の旦那を上目にすると、困り顔をさらに困らせた伊藤屋が、

「五鈴さんも、いけずでなさる」

 うらめしげに苦笑いした。

 伊藤屋は草履を脱いで奥に入り戻ると、丁寧に扱われた書状が手にあった。

「五鈴さんには感謝してるんです。青物だけじゃあ、私も危なかった。生糸販路に噛ませて頂きましたから、貿易の甘みを吸わせてもろうてます」

 五鈴は差し出された書状を受け取り、開く。

「それは良かった」

「ただ百姓が不憫です。昨年までのコレラでたくさん死にました。私の妹夫婦も子供一人残して亡くなりましてね」

 ここにくるまでの街道筋ですら、死体が転がっていたな、と五十鈴は気の毒そうに頷いた。一歩、京から出てしまえば、地獄を降ろした光景が広がる。今年はコレラが落ち着いたにせよ、その疫病は猛威を振るう。

「これは?」

「私も五鈴さんが来なはったら渡すようにと、頂いただけで深くは」

 それも伊藤屋も知らない人間からだとういう。人と人を介して、最後は浮浪者から手渡された。

「与太郎!」

伊藤屋が呼ぶと、幼年が顔を出す。

「この子は妹夫婦の子供です。行く当てがないもんで、引き取りました。この子がお使い中に押し付けられたんです」

長崎に条約にきたアメリカ船がついてから、コレラはたったの数ヶ月で大坂に、そして江戸へ魔の手を伸ばした。その間、二カ月。

 欧州では「青い恐怖」と呼ばれたコレラは日本でも違わず異様な症状が出た。

 こぶが出来、筋がつり、黒く干からびて死に至る。腹痛、嘔吐、下痢にも見舞われ、一日コロリ、三日コロリ、即死病と恐れられた。

不思議なことに、武士や公家には広がらず、百姓農民、街道沿いの村々で爆発的に流行した。

棺桶は足らず、死体が山積みになっていく。

地獄絵図の餓鬼がそこらにいた。

東海道中には乞食や雲助(※2)が倒れ死んだまま放置され、死体が狐狸の餌となり果て、猛暑も手伝って死臭が鼻を突いた。

「この子もね、ひどい熱にかかってもうダメかってところで助かりまして。村にいてはね、病扱いされてかわいそうだから」

伊藤屋が、目の奥に影を落として与太郎を見つめた。

「……先日ねえ、あたし旗本屋敷の賭場にお邪魔してたんですよ。どうやら攘夷派の人を捕まえにきたんですがね」

 読んだ書状には何も言わず、五鈴はひょうひょうと続ける。

伊藤屋の旦那が、与太郎の背を押して下がらせた。

「天満でも、その顔、見たんですよ。あたし顔だけは覚えますから」

伊藤屋の旦那は困り眉で微笑む。

「それでね、ちょっと気になったものだから、天満で馴染みといったら伊藤屋さんだからねえ、話をしにきたんです」

「——その足の軽さが、五鈴さんの強いところですなあ」

 伊藤屋の旦那は、少々お待ちを、と五鈴を一人にしてから外出する支度をすると番頭に店のことを頼み、二人連れだって天満問屋街の雑踏へと消えていった。



 女の小さくころころとした笑い声が隣から響く。

「いつの世も、内緒話はお茶屋さんと決まっておりますねえ」

 五鈴は、足のない折敷(おしき/お膳)から煮魚を頂いた。

 引手茶屋の二階で、五鈴と伊藤屋は料理を頂いていた。折敷には海老の天ぷらに、金柑、汁、粕漬に煮物、雑魚場市場より新鮮な魚に飯と高級会席料理が置かれ、金額にして銀三十匁つまり二〇〇〇文つまり小判四分の一。庶民の食べる一膳食事が二十文である。

細格子のついた窓から下をちらりと覗くと、昼間の仕事を終えた町人や商人が瓢箪橋を渡り、瓢箪町という橋の名前をとった高級花街に入ってくる。

商都大坂新町廓は江戸の吉原、京の島原に連ねる天下の遊所で、その歴史は一番古く、豊臣秀吉が大坂城の建設とともに始まった。

「ねえ伊藤屋さん、なあんで状屋がいるんですかねえ」

 二十畳ほどのお座敷は、大坂新町でも高級のお茶屋「つの井」にあった。ここで料理や酒を嗜み、お目当ての遊女へ会いに行ったり、おすすめの遊女を紹介してもらったりした。もっぱらお金のある人間しかこれないため上級武士や、富豪商人などが密会に使用し、この状屋(じょうや)のような身なりの者が似合う場所ではない。

「嫌われたもんですなあ、私も」

にこにこと笑みを崩さないでいる男は中肉中背、薄くなった頭皮に、丸まった背中、前にせり出した頭が、どうにも品がなかった。

 シャンンシャン、と別のお座敷に呼ばれた芸者が鳴らす三味が漏れ聞こえる。夕方から太陽の落ちる速さが増すと、仲居がそっと蝋燭に火を灯しにきた。

「まあまあ、五鈴さん、付き合って頂けませんか」

「仕方がないから状屋と呼びますがね、かわら版も兼ねて下らない記事を書く極めて卑しい人間ですよ。ああ口がひんまがる」

 状屋を名乗るにおこがましいと、心底軽蔑する声色で五鈴は顔を背ける。目にすれば鼻が曲がるとも言いたげな様子だ。

「こっちはこっち、あっちはあっちで住み分けさせてもらってますもんでね。どうか勘弁を」

「勘違い甚だしいですねえ、状屋もかわら者もあたしはどうも思いませんよ。あなたが嫌いなんです」

「五鈴さんおっしゃることも、分かります。けどこの方が一番分かり易い相場状をお書きになはる」

 伊藤屋が苦笑する。

 相場状とは大坂や、他大規模市場の状況を整理してまとめた書状だ。商売人のみならず、農家にも渡った。内容は金銀の交換レートや、直近の各国の作物豊凶などが詳しく記載され、日本の経済を知るに欠かせないものである。

 商売貿易をするは商売人だが、その産業を支えるのは百姓農民で、彼らは商売人と同じぐらい、自分の売手物がいくらで売れるか把握しておく必要があった。

 この相場状の作成を渡世している者を状屋と呼んだ。

「私もかわら版で売れるのに庶民様にうける手法を随分と模索しましたから」

 かわら版は、庶民の関心事を盛んに報じた。津波や地震、火事に関することから、有名人の恋愛事、ガセネタ、風刺ネタが多く製作者が不明なことも多かった。幕府への風刺は禁止されていたため違法な出版物だが、だからこそ売れた。

 懇ろにしていた女が、面白いとこの男のかわら版を寄越してきたことがある。絆されて手にしてみたが、始め二行で鼻噛んで捨てた。

「五鈴さん、昨日の京での攘夷派が捕られた場にいたんでしょ。あの連中、確かに大坂の賭場にもいましたが堂島米市場の長州藩蔵屋敷を出入りしてたぐらいで、天満にゃ関わりないですよ」

 そこから詳しいいことは私も知りませんと状屋が五鈴に情報を渡す。

五鈴は一分銀を状屋に投げる。

状屋は片手で掴み取り、一分銀を手の内で遊ばせた。

「——横浜港、やはりすごいですよ」

 状屋が猫背をさらに丸め、正座した膝に肘をのせて寄りかかり、両の手を揉んで目を光らせた。

 外の様子も、いよいよ人が往来し女郎屋としては最下層の切見世から女たちが男を誘う文句が聞こえる。返す言葉もヤジと遊びがまじり、花街がまさに花開くといわんばかりに息を吹き出す。

「幕府がお触れを出しましたからねえ」

 五鈴は腰に下げていた煙管を手に取り、行灯の明かりをたよりに刻み煙草を火皿にのせた。

「私も上から流通を整えろ言われましたなあ」

「江戸付近はもう駄目ですわ。多摩八王子でも幕府領の百姓ですら問屋通さず売っちまう」

「知人の在郷商人も売込商とさっそく手を組んで、イギリス人相手に儲けてますねえ」

 在郷商人は問屋商人と対立する存在で、大坂や江戸の問屋商人は幕府から価格設定や流通の独占を許可してもらうかわりに、幕府のお願いを聞いてきた。在郷商人は百姓から直接消費者に売るために幕府も問屋の支配も受けず幕府による価格統制を受けない。問屋商人と幕府は癒着の関係もあったが、価格を調整できるため安定し貧富の差が出にくかった。在郷商人は自由度が高いために、経済の安定を欠く存在でもあった。

 売込商とは輸出業者だ。

「どこ見ても金回りが良いのは確かですがねえ、外国に売る産物のない農村は苦しそうですねえ」

 こんなことを言っているが、五鈴の商売相手に在郷商人もしっかりいて、ちゃんと儲けている。

 アメリカを始めとして諸外国と条約を結び自由貿易が始まった。今までは長崎で幕府役人が窓口となり、官貿易であった。貿易利益が幕府の財源に入っていったが、自由貿易となると幕府を通さない。常に財源不足に頭を抱える勘定奉行所は怒りで震えているそう。

「恥ずかしい話、我々問屋は苦境ですわ。流通がめちゃくちゃで物が集まりまへん。夷人さんに取られてもうて、物価の高騰を眺めてるしかできおまへん」

「京の西陣織職人が苛立っちまって、大変そうですわ」

「生糸がねえ、イギリスがご所望で全部持っていくから織物職人の手に渡らないで反物もできない、で、呉服屋さんがご立腹と」

 吸い終わった煙草を灰吹き(灰皿)に落とし、五鈴が腕を組む。

 くゆらせた煙がゆっくりと三人の間を流れる。

「代わりに百姓大工飲食もろもろが活気づいてる」

と、五鈴は再度、格子窓から外を見下ろす。

 仕組みが変わる。

 どの立場の人間もせわしい日常の影で、その足音を聞いている。

「五鈴さんにお願いがあるんです」

 伊藤屋が衿を正して五鈴に向き直る。

「蒸気船、お借りできますか」

 ながれる煙がぴたりと止まる。

 五鈴は組んだ腕をそのままに、ゆったりと口角を上げた。

「よく、御存じで」

 下の階で新しい客を出迎える女将の挨拶がかすかに聞こえ、表の通りは人の声や物音がやかましく、座敷の静けさが際立った。

 五鈴はおもむろにまばたきし、状屋の顔を見る。

「情報はあなたですねえ」

 状屋は肩をすくめて肯定した。

「どこから、ってのは言えませんよ」

「今の立場をそのままに外国貿易に手を出したいんですわ」

 伊藤屋の話はこうだ。

 幕府が作った問屋仲間(同業者組合)に入っている自分は仕組みから出れば、大坂で商売すること叶わなくなる。かといってこのまま流通の外で指を咥えているわけにはいかない。隠れて行動しようにも商売人の中で顔が割れているため、それも現実的でない。

「船の上なら別です」

 まだ外国に開かれてない兵庫港から江戸への海路に従来の和船で進む。夜、海上で和船から蒸気船に移りそのまま外国船と接触する。蒸気船であれば、外国艦の一つと誤魔化せる。

「これでなら身元もばれまへん」

「私は相場状とは別に書をしたためて専属の米飛脚に選別した三つの農村に情報を伝えます。流通経路を確保できる」

「五鈴さんには利益の四割お渡しします」

 破格である。それほど伊藤屋にとっては正念場なのだ。

 沈黙が重さをもって降りてくる。

 男と女の駆け引きが行われる大阪新町廓で商売の駆け引きも行われ、富豪商人達がとある夜に日本の経済を決めてきた。

 五鈴は着物の袂から昼間に受け取った書状を引き抜く。

「この中、目をお通しになりましたか」

「いいえ」

 伊藤屋は即答する。

「知らないほうが良い。知ったらあたしは安全を保証できません」

 お断りいたします、と五鈴は目礼する。

「そこを、」

「その代わり他に蒸気船を持つ人間を紹介します。あたしは一割もらえれば良い」

 状屋の口を遮って五鈴は代案を告げる。

「直接あたしは関わりません。人も状屋に知らせるのであたし無しで話を進めてください。私の蒸気船は足が付く」

 ほう、と誰のため息か、それを合図に緊張がほどけ、外の喧騒が戻ってくる。

 しつけの行き届いた仲居がお盆に酒をのせてやってきて、三人のお酌をすると無言で去っていった。

 状屋がさっそく酒を口にした。

「ねえ、なぜ書の中身をご覧にならなかったんです」

 伊藤屋は膝の上で合わせていた手をはずし、酒を一息で飲んだ。

「商売人としての矜持です。私は博打はできまへん」

 二重の意味が含まれた言葉だった。

 書を盗み見ない、問屋仲間を抜けて新事業につぎ込むもしない伊藤屋のすべてを表していた。

 五鈴は金一両を置いてすっと立ち上がり、裾を整えて、そういえばと世間話をする。

「お店に御内儀と御子息がおられませんでしたが、旅行ですか」

 伊藤屋は眉を困らせて、

「死にました」

 一切の動揺もなく言葉を続ける。

「妹夫婦が亡くなって、コレラ除疫祈願でお伊勢参りにと、旅先でそのまま」

 死にましたと繰り返した。

 その伊藤屋の様子に五鈴はご冥福をお祈り申し上げますと深く頭を下げた。




 花街を出て瓢箪橋を渡り、繁華な心斎橋へ遊びに行く人の流れに五鈴はまぎれる。花街と外界を(へだ)つ大門の番所で、顔を隠す編笠を借りた男達がうつむいて花街に入っていくのとすれ違った。

 四角く堀で囲まれた花街は、外の町屋街と差別すべく堀で閉じられていた。その堀のひとつである西横堀に沿っていけば、大坂の不夜城とも称される新町廓の賑わいを眺めることができた。

 夜道を流さすこと数分、五鈴は三十石船の船着き場が多くある淀屋橋へたどり着く。多くの問屋、飲食店、お茶屋からは明かりがもれ、商都大坂の血気を感じさせた。

船着き場には五鈴と同じように京都へ戻ろうする人達が女男区別なくおり、三十石船が到着する度に入れ替わり立ち代り下船し乗船していた。

「あにさん、握り飯どうかね」

「遠慮しておきますよ」

 握り飯を歩き売るばあさんもいる。

 五鈴は雑踏から離れ、諸藩の蔵屋敷が乱立する川に挟まれた中州・中之島に身をひそめ、ある藩の舟入にするりと忍んだ。

 船入とは蔵屋敷の中に造られた池状の荷揚げ場で、荷を運ぶ船が川から蔵屋敷へ直接入れるようになっていた。

 五鈴は用意された小さな和船に乗り込むと、船頭が無言で漕ぎ出した。


 夜風を頬にうけて、流れに逆らい川を上る。身軽な五鈴を一人のせた和船は苦もなく、大坂を離れるにつれ河岸の明かりも途絶え町家もまばらになり、時折下りの三十石船とすれ違うだけになる。

 舟が水を滑る音と、棹で水底をつく衣擦れが穏やかで、月明かりに飛ぶ雁の影がうつった。

「揺れます」

 船頭が初めて口を開き、注意を促す。

 五鈴があたりを見渡すと、屋根船と五鈴の舟が近寄ろうとしていた。

屋根船は舟の上に小さな部屋がひとつ乗った遊船で、船宿や料理屋が所有し、庶民が風流な遊びで使うことが多かった。

 部屋の回りに備えられた(すだれ)がすべて降りていて、中の様子は窺えない。

 遂に水上で二つの舟がぴたりと寄り添い、船頭がうまく止めた。

「ねえ、手紙のお方、お初にお目にかかります五鈴と申します」

 五鈴は丁寧な仕草で伊藤屋にもらった書状を開く。

 さっ、と簾が半分上り、手紙の方の胸より下が月に照らされて身分がわかる。

 脇差が腰に差さっていた。おそらく打刀は脱刀しわきに控えているのだろう。

 武士階級の人間に違いなかった。

 そして若い。

「長谷川だ」

「長谷川様、」

「いい、様はいらない」

 人に命ずるに慣れた口調だが、声色が若い。元服を済ませたばかりだろうか。しかし侮るをさせない落ち着きがあった。虚勢を張るでもない、調子にのるでもない、自然体の呼吸だ。

 この名も本名かどうか、分からない。

 五鈴は知らず唇を舐めた。

町人階級と武士階級の人間と知り合うのは珍しくない。だがこの長谷川という人物、身なり風体からして下級どころか上級、おそらく一〇〇〇石は下らない身分。

「では長谷川さんと呼ばせて頂きますねえ」

 硬くなりそうな肩を、なだめながら表に出さない。

 心拍が上がり、五感が研ぎ澄まされる。認めざるをえない興奮に五鈴は脳の回転を速くした。

「ここ数日、あんたの行動を見てた」

「——左様で」

「どの問屋仲間にも属さない、野良商人でありながら博打打ち、町人の伝手もあれば与力同心の顔見知りもいる。けど、どこでも余所者だ」

 長谷川は正確に理解していた。

「ひとつに留まれない性分なのでねえ」

「だが探ってる」

 顔の見えない武士が断言する。

「あんたの周りには丁しかないんだ。半がねえ」

 丁か半か。

 賭け事をするには賭け先がいる。

「ここに半があるって言ったら、どうする」

 ど、ど、ど、といよいよ頂上に達しようとする高揚感が五鈴を刺激した。

「——お話、拝聴いたしましょう」


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