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結局のところ私はなにがしたいのだろうか。
私は昔からなりたいもの、というのがなかった。だからだろうか、なにかになりたと思ってもそれは一時的な感情であって本当になりたいわけではなく、なったとしても続かないだろうという自分に対する諦めの感情のようなものがある。実際のところそれは大きく間違っていないのだろう。
高校生のとき、小説家になりたいと思った。しかし私がなりたかったのは小説家になった私ではなく、小説家として世間に認められ持て囃される私だ。もちろんそれがすべてではないと思う。小説を読んだときの、未知の世界に踏み込んだようなあのワクワク嘘であったとは、そんなことはあり得ない。その不可思議な道への邂逅に憧れ、自分の中にそのような世界を作りたいと思った私は間違いなくそこにあるのだ。
しかしそういった憧れというのは美しくも弱い力だ。いや、弱いからこそ美しいのだろうか。愛、憧憬、喜び、怒り、最近の人はこういった一時の感情に大きな価値を置いているような気がする。つまり、生きている今が大事なのだと、そう叫んでいるのだ。それもまた素晴らしい考えだと思う。この考え方が私は好きだ。駆け落ちした男女が悲しい結末を迎えるのが多くの現実だとしても、一時の燃えるような恋の結末が現実的に終わるのを認めたくはない。愛は不滅で、友情は不朽であってほしい。憧れは止まることなく、死ぬその時まで一直線に進んでいてほしい。
しかしどうしようもなく現実は現実的なので、私たちはその齟齬に苦しむことになる。百年の恋はご飯の食べ方一つで冷め、毎日のように語らった友人は次第に疎遠になり、なりたいものは自分のなりたいそれではないと気づかされる。
私は馬鹿な人間なので、それでも憧れがまだくすぶっているのではないかと思ってしまう。まだ私のなかで赤い炭となって、燃えるそのときを待っているのではないかと願っている。お前が描きたい世界があるはずだと、お前にしか動かせないキャラがいるはずだと、一度抱いた憧れを捨てきれずにいるのだ。
まあよいではないか。そうやって見苦しく生きていけるのなら、それは素晴らしい人生に違いない。少なくとも、順風満帆な人生よりはずっといいはずだ。求めるからこそ、人生は濃くなる。ならば私は、私なりのやり方でみっともなくあがいていきたい。




