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私はボーカロイドが好きだという話は以前したのかどうだったか。ボーカロイドにせよ、ボイスロイドにせよ、私は機械音声が好きなのだ。細かく言うとこの表現は適切ではなく。私は実際の人間ではなくキャラクターが好きなのだが、また話だすと止まらなくなりそうなので今日は抑えておこう。
さて、ボーカロイドが好きなので、以前作曲をしてみたいとあれこれ模索していた時期もあった。まあ金もパソコンもなかったので、結局スマホアプリを買ってすぐに諦めたのだが、作曲することの難しさをなんとなくでも感じることができた。
というより。社会で楽しまれ、認められるコンテンツを作るというのなんでもそうだ。小説を書くにも、絵を描くにも、作曲も、ゲームも。私たちが見ている完成品の裏には、想像できないほどの膨大な努力や地道な苦労が眠っている。
しかし、そうやって苦労の果てに完成したものが、認められるとは限らない。「努力が報われるとは限らないが、成功者というのはすべからく努力している」誰の言葉であったかは忘れてしまったが、そんな名言があった気がする。最もなお言葉であり、そうすべきだと思っている。
だが、私が日本人として生まれてきたからだろうか。報われない努力というものを見聞きすると、私はとても悲しくなるのだ。私は努力が報われないような挑戦をしてこなかったから、それがどれほどの悔しさ、悲しさであるかは分からない。それでも、努力をしている人が報われないというのは悲しいのだ。
私が歌い手が嫌いな理由も、ここらあたりにあるのだろう。ときに歌い手は作曲した本人よりも人気になっていたりして、世間はその曲を歌い手のものだと認識したりする。「千本桜」という有名なボカロ曲があって、私はそれを歌い手から知った。当時はボカロというものを知らず、当然歌っている人が作った曲なのだと思っていた。それが結局、別で原曲があると知ったときはたいそうな衝撃だった。
正直なところ、原曲よりも歌い手のほうが聞いていて気持ち良いと思うような曲はいくつもある。しかし、私はかたくなにそれを聞かないで、原曲を聞くように努めている。それは私がボカロのキャラが好きだというのもあるが、報われる世界であってほしいという思いがあるのではないか。
素晴らしい曲をつくっているのに数千、数百しか再生されていない人たちがいる。そういう人の曲を聞いていると、そんなことに思考を巡らせるのであった。




