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好きこそが最強だ。
最近はそんな潮流をうっすらと感じる。
大谷翔平があれほどまでにすごいのは、彼が野球が好きだからに他ならない。
私が絵を描き続けたのは、やっぱり絵を描くことが好きだったから。
最高に音楽を楽しんでいるやつの演奏だからこそ、心が震える。
私はこの流れが好きだし、自然と受け入れていた。
好きだから楽しめるし、楽しめるから続けられる。続けられるからこそ高みにいける。
シンプルながらも完成された構成だ。
どんなに辛いことがあっても、好きだから辞められない。
本当にそうか?
その問いかけを私にぶん投げてきた映画が『セッション』だ。
好きだけではたどり着けない世界がある。お前にはたったひとつのことに「人生を賭ける覚悟」があるのか。明示的ではなかったが、私は『セッション』からそのメッセージを強く感じた。今日はそんな『セッション』見たので、感想を語りたい。もちろんネタバレを含むため、見てない人は是非見てきてほしい。
主人公は高名な音楽大学に入学できる程度の実力があるドラマーだ。将来は偉大なドラマーになることを夢見ている。しかし現実は非情で、大学内においては特に優れていることもない。ただの凡庸な生徒の一人だ。
物語が動き出すのは、彼が学内において最高のクラスの教鞭をふるう教師に出会ってからだ。主人公はそのクラスに誘われ、さらには彼女まで出来てと、灰色だった人生が突如として輝きだす。
そして一瞬にして夢から覚める。主人公を呼んだ最高のはずの教師は、とんでもないパワハラ教師だったのだ。生徒に罵声を浴びせ、物を投げ、暴力を振るう。筋肉質な体型もあってその迫力は凄まじい。誰もが委縮し、彼に逆らうことができない。
そんな場所でドラムを叩くことになった主人公の命運やいかに!? おおよそ、このようなあらすじになる。
あとは語りたいことだけ語る。
冒頭に話した「好きこそが最強」という話のアンチテーゼについてだ。
主人公はパワハラ教師と関わっていくなかで、何度も選択を強いられることになる。「ドラムを辞める」か「他を切り捨てる」かだ。他とは「友達」「彼女」「安定した職業」「健康」「その他あらゆる趣味」だ。すべての時間をドラムに捧げる。
手を血まみれにし、果たしてそれほどの代償を払って得られたのは、教師からの「不要」という結論だけだった。次第に主人公はドラムに狂っていくように見えた。事故を起こしても演奏会を優先し、あれほど恐ろしかった教師に怒鳴り返し、自分に叩かせろと吠える。
これが音楽をやる人の姿なのか?
私が見てきた音楽作品はそう多くないが、少なくともここまで屈折した主人公はいなかった。最終的に同じ境地にたどりつく。彼らは紆余曲折を経ても、純粋に音楽を楽しんでいるという結論だ。それこそが原動力だと。
だが『セッション』の主人公は明らかに違った。この作品で主人公がドラムを楽しそうに叩くシーンはほとんどない。むしろずっと苦痛に満ちた顔で、血だらけになりながら叩いている。「夢がある」とはいうが「ドラムが好きだ」とは言わない。
ここからは完全に私の推測になるが、主人公は別にドラムが好きなのではないのだろう。ただ、楽しかった昔にその選択をしてしまい「もうそれしかない」段階になってしまったのではないだろうか。自身のアイデンティティを守るために、彼はひたすらドラムを叩くしかなかった。もうそれしかないのに、それを否定されたら生きていけないのだ。
だから楽しくないし、どれだけ足蹴にされようと戦うしかない。
だが、だからこそ辿りつける領域がある。
果たして「好き」だけの人間がここまで戦えるだろうか。もうしそうだというなら、その人間は本来の生物としては壊れているといっていい。なにせ「好き」のためにそのほかのあらゆるものを切り捨てる選択は、明らかに「賢い」選択とはいえないからだ。
長々と話したが、私は「好きなこと」を否定したいわけではない。ただ「好きこそものの上手なれ」とはいえても「好きこそが最強」とはいえないのではないかという、そういった考えを整理したかっただけだ。
鬱々とした展開のようにばかり話したが『セッション』が名作であることには間違いない。先ほど言った「だからこそ辿りつける領域」ともいえる、魂の震えるようなラストセッションは必見だ。ここまで長く語ってしまったのも、私があの映画に何かを突き動かされたからなのだろう。




