24 10/16
知らぬが仏という言葉がある。知らずにいるからこそ心を乱されずにいられる、というものだ。知りすぎると良いことがないという意味でも使われることがある。
よく深く考えすぎるひねくれものと単純思考の馬鹿が対比される。あーだこーだと思考を巡らせるひねくれものに対して、単純な考えの人間がずばりと単純に大事なことをいう描写を見たことはないだろうか。何で見たかは忘れたがどっかでそういう描写を、しかも何回か見た気がする。
物事の本質は欲求にあり、単純な人間は欲求に従うということではないだろうか。そういう話をしたいのではなく、今回は知りすぎるのが良くないのなら、どこまで知るのが良いのかという話をしたい。
極端な例だと、何も知らない家畜として生きる幸せと、あらゆる物事に思考を向け自分の生き方について深く思索する哲学者として生きること、この2つの違いを探り丁度良い落としどころを探してみようという試みだ。
家畜として生きる悦びは単純な欲求が労力なしに得られることだ。食事、睡眠。性交渉はしているのだろうか? そのほか毛づくろいや環境など、様々なものが他人の手で揃えられている。彼らは生きているだけで偉い状態なので、ただ生きていればあらゆる世話が他人によってなされるのだ。当然、外の世界など知る必要もなく、ひとつの牧場で人生を完結させることに何の不満もない。
これは十分な幸せといって問題ないのではないだろうか? あまりに極端な例を出しすぎてしまった。人間社会でそんな生き方ができるのは貴族の令嬢のごく一部かもしれない。
他者から利益を与えられるのは、自分がそれだけの利益を相手に提供できるからだ。家畜はその体自体に価値があるが、人間はそうではない。私たちが社会に馴染み、利益を提供できる人間となるためには一定の「知恵」が必要だ。また社会において、相手に不利益を与えられないためにも一定の「知恵」が必要だ。つまり知るという行為そのものが社会性動物にとって必要になるものなのだろうか。一定の社会を築く生き物は比較的頭が良いのではないだろうかと思ったが、そうでもなかった。蟻とか別に頭がいいわけではない。ただ彼らの生物としての設計図がよくできているだけだ。
個としての生存競争を優先する生物のほうが頭がよくなるのではないだろうか。人間は人間全体の利益よりも各個人の利益を追求しがちだ。蟻とはそこが違う。つまり自分と同等の存在と競争するにあたり、身体的優位性が同レベルなら社会的優位性を獲得しようとするのだ。
ただしこの問題は「社会的な優位性がある」=「幸せ」というわけではないということだ。結局何も答えがでていないじゃないか。。
 




