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Chivary2というゲームを購入した。実況動画を見ていてほしくなったのだ。
大人になるとゲームをしなくなるというが、私はそのことを比較的実感しているタイプの人間だ。というようりも、これは小説とかと同じで、ゲームをしているときにその先に何があるのか、どういった展開が待っているのかが予想できてしまうのだろう。
知らないというのは大きな価値でもある。知らないことの分だけ、人生を刺激するものが残っている。もちろん、ただ知らないことといっても本当にどうでもいいような雑学とか、そんなことは刺激たりえないだろうが。各々の本能に訴えかけるような、そんなものこそが知りたい知らないにふさわしい。
わかりやすいものは人気のあるコンテンツなのだろう。ゲームもそうだし、小説もそうだ。知らないストーリー、未知の世界、昂る体験。それらは新鮮な驚きとなって、私たちの本能を刺激する。しかしながら、そういった創作物には一定の法則性ともいうようなものが存在していて、私たちはなんとなくその法則に気づいていく。一度体験した高揚には慣れ、もっともっとと同じものを求めても新鮮な体験ほどの刺激は得られない。そういう意味では麻薬もゲームも、程度の差こそあれ体験する本質は同じなのかもしれない。
小説を読んでいるとおき、主人公は私の代理人だ。だから彼らがチートでハーレムで俺tueeeすれば、まるでその情景を頭のどっかで思い描いて気持ちよくなる。でも私たちは日本人で謙虚や真面目さが美徳とされているから、表立ってそういうことをするのはちょっと嫌がるし馬鹿にする。だからこそ目立ちたくないのに目立っちゃう、俺なんかやっちゃいました? みたいな少し歪んだ主人公ができあがるのだろう。
話を戻すが、そういった経験は一度体験すれば慣れるし、そういったものへと至る筋書きもなんとなく予想できるようになる。そうなると私はまだ読んでもないのに、その先の展開を見たような気分になってきて、その先の展開までお話を進めることにけだるさを覚えるようになる。結果として私はそこで手を止めるのだ。
文字に起こすと本当に阿保みたいなことをしているとしみじみと思うのだが、感情というものは理屈よりも先だってくるものだからこえばかりはどうしようもない。
新しく購入したゲームは中世を舞台に剣で殺し合いをするものなのだが、これもやはりキャラクターを通して相手を殺すという状況に高揚感を覚えている。初めてFPSをやったときもこんな気持ちだったろうか。暴力というのは人の本能の一つなのだろう。というより、動物の本能だろうか。他者を殺すというのは、自分が生き残るための究極的で原始的な手段の一つだろう。だからこそ虐めはなくならないし、戦争の真似事をするゲームや小説が人気なのだ。
だがまあそういった本能と上手に折り合いをつけて生きていくのが賢い生き方であると思う。本能は人生を刺激する喜びとして受け入れるべきだし、その手段は理性的でなければならない。しかし刺激というのは慣れていくものだから、新しい刺激をまた理性的な範囲で追及していかなければならないのだ。




