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友人がホヨバースという会社に入りたいという話をしていた。原神や崩壊スターレイルといった有名ソシャゲを出している会社だ。無論のことだが、入る条件はそこそこ厳しい。そもそも英語か中国語が普通にできないと無理だろう。
私もちょうど一年半前くらいのころ、Nintendoに入りたいといっていたのを思い出した。今でも入りたいかというと微妙だが、でも挑戦していたほうがきっと面白い人生になっているだろうなと思う。冗談だったとしても、彼が少しでもそう思うなら応援したいものだ。
夢を語るというのはいつからか恥ずかしいものになってしまった。私の周りには、なんとなく「現実主義的」であることがかっこいいという、というような雰囲気があった。というより、それが普通で、夢や欲望を見せるのはカッコ悪いといったほうがいい。なんとなくそういう空気が学生のころはずっとあったように思う。改めて開き直る正直な生き方が許されると感じたのは、大学生になってからだった。やはり大学というのは色んな価値観の人が集まってくるからか、集団で授業を受ける高校生とは価値観が大きく変わる。そこが、いわゆる「大人」と「子ども」の境目であるように思えるぐらいだ。
何度も言ったと思うが、私は夢のない人間だ。だから夢を抱く人を羨ましく思うし、それが尊いものだと思うから応援したくなる。
夢という言葉の面白いところは、将来の理想というのが、自分のなりたい理想とほぼイコールでつながっているということだ。将来の夢は何がいい、と聞かれると、誰もがサッカー選手とか、パティシエとか、自分を中心とした理想を語る。世界平和や経済の発展を謳うのは政治家だけで、夢の始まりはいつだって「自分が」どうしたいか、何をしているか、どうみられるか、に偏っているのだ。
あまりにも当然のことだが、夢というのは理想の世界ではなく、理想の自分なのだ。だから世界がどれほど荒んでいようと、それは将来の夢と関係ない。
うまく言葉がまとまらないが、それだけ私たちは自分を愛しているのだろう。では夢のない人間は自分を上手に愛せない人間なのだろうか。あまりそうとは思えない。なぜなら私はかなり自己愛が強い人間だと思っている。でも未来の理想を描けない。
自己愛が強すぎるあまり、理想とすべき自分の有様を見つけられずにいるのかもしれない。あるいは理性が賢しぶって、チーレムみたいな理想を根本から否定してしまっているのかもしれない。
何にせよ、夢や目標というのはあるに越したことはない。この歳になってようやくその有用性に気づいてきた。なんならそれは、他人が決めたことでもいいのかもしれない。
FFDISIDIAでクラウドがフリオニールの夢に乗っかっていたことを思い出す。彼の理想は「野薔薇の咲く世界」だった。夢のないクラウドはそれに乗っかったのだ。自分で思い描けないのなら、他人の理想を共に追うというのは悪くない選択肢に思う。
今の私は夢というほどたいそうなものではないが、音楽を作りたいという目標はある。ただ大事なのは、そのためにどれだけ金と時間を使ったかということだ。




