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人は失敗を経て成長する。
ときに失敗とはどのようなものか、それはふさわしい犠牲を伴ったものではないのだろうか。たとえばテストで赤点をとったとしよう。もちろんそれはよろしくないものであるか、その結果を失敗とするか、仕方のないことだと見切りをつけるかは、結果を得た後の当人にゆだねられる。では、そのように失敗と考えるかそうでないかの違いはなにかといえば、その過程に他ならない。
テストに備えてしっかりと勉強していた人は、赤点をとったことにショックを受けることだろう。その努力がどのようなものであれ、その人はその人なりに真摯にテストと向き合い、自分にできることをしてきたわけだ。そこにかけた労力も時間や意識であり、それらを犠牲にしたのに成功しなかったという考えがあるからこそ失敗や悔しさを意識せざるを得ないのだ。
しかし、テストに向けてなにもしなかった人はどうだろうか。その人が失敗と意識するのは、もっと勉強しておけばよかったというただそれだけであろう。私が今までに何度も経験してきたものである。見ようによってはこれも失敗といえるのだろうが、私はこれが失敗であるとは思えない。これはただの自分に対する悔恨であって、喉元をすぎればまるで霞のようにすっと消えてしまうことだろう。その人を成長させる、いやその人を変化させる要因としては、払った犠牲が少なすぎるのである。良くも悪くも、多くの犠牲を払った上での失敗というのは人を変える力があるだろう。
ところで、私たちにもっともわかりやすい犠牲というのがあるのだが、皆さんはご存じだろうか。それはただ絵の描かれた紙でしかないのだが、国家権力により大きな価値を与えられている。私が払った犠牲はおよそ5万円ほどだ。
悔しいので詳細は省くが、私は先日人生で初めてデリヘルを呼んで、先の金額を支払ったわけだ。まあ今日初めに掲げたテーマを鑑みればどのようなものであったかはお分かりだろうが、これは実によい勉強代になったと思うことでしかやり過ごせないほど悲惨なものであった。
だが、この失敗を糧にできるかどうかは、これからの私にかかっているわけだ。もうこりごりだとその道に立ち入り禁止の看板を立てることもできるだろう。だがそれは良いことであろうか? 犠牲を伴う失敗には人を変化させる力があるといった。諦めるのもまた変化ではあるが、それはマイナスの変化ではないだろうか。
そう、私は諦めない。少なくとも、日本人の女の子とイチャイチャするまでは。