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昨日我が家に母がきた。
母や父の前だと、私はたいそう不愛想になる。母の前で友達といるように笑うということができない。いや、別に一緒にいて居心地が悪いということではないと思うのだが。そういった家族の前では本当に自然体になるのだ。つまり、わざわざ意識して笑ったり、会話を回したりしないのだ。私がもともとそういう気質なのか、それとも家族とそういったやりとりがなかったからそれが固定的になってしまったのか。
では友人といるときの私は自然体ではないのかといえば、そんなことはない。慣れ親しんだ友人とは普通に笑いながら話すし、それも無理のあるものではない。もしかしたら昔は無理をしたりしていただろうか。しかし数年もつきあえば無理も自然となる。だからさっき家族といるとき自然体となるといったが、本来の自然な自分なんてものは一つではないし、変わっていくものなのだと思う。
昔は自分のアイデンティティに一貫性を持っていたというエッセイを読んだことがある気がする。確か高校生の国語の文章読解で読んだのだったか。なるほどなぁ、とおもったものだ。
今では自分が今いるコミュニティに合わせて自分のあり方を変えるというのは、けっこう多いのではないだろうか。私はそういう節がある。さっきも言ったように家族といるときは不愛想であり、親しい友人といるときはしょうもないことを言って笑わそうとしたりすることもある。特に仕事の研修においては、クラスのリーダーのような人格を真似しようとした。私が今まで行ってきた振る舞いとはほとんど真逆であるが、意外と真似事でもうまくいくものだ。
つまるところ、自分というものは存外簡単に作れるし、自然なんてのは一年もすれば作れるのではないかと思うのだ。ならばやはり目指すべきは、意識の高いリーダーのような人格だ。こんなところで綺麗ごとをいっても仕方がないし、私は人間のカースト上位でありたいし、色んな人にちやほやされたいし、もう俺がいないあと世界が回らないぐらいでありたい。
まあそれは無理だろうが、できることならすごい人間でありたいと思っているのだ。プログラミングや会話など、実用的な技術を身に着けたいと思うのはそのためだろうか。だからこんな休みの日には、昼まで無為にだらけるのはやめてとっとと生産的な行動をできるようになりたいものだ。