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 最近少しずつ創作意欲が湧き出している。昨日は一話だけだが書くことができた。動こうと思っても何もしてこなかった今までと比べたら素晴らしい快挙だ。

 そしてそうやって進めていると、夜になって新しい魅力的なキャラクターや展開がぞくぞくと浮かんでくるではないか。やはり創作には「変化」が必要なのだ。この変化というのは、自らの変化というもそうだが、もっと単純に段階的な物語の変化というものだ。

 小説を書きだす前から終わりまで考えるなんていうのは、透明なオブジェクトをくっつけて綺麗な図形を創り上げるようだ。ゴールとなる形はなんとなくしかわかっていないし、その過程は形が曖昧としていて一層不安定だ。

 しかし、例え最初の1ピースでも形を与えてやると、それに合うようなピースを当てはめて形をつくることができるので、その制限がより自由な発想を促す。制限が自由を促すというのは変な言い回しだが、意外と人間は制限があったほうが思考がまわりやすかったりするものだと思う。お題のある大喜利とお題のない大喜利、何か書いてある紙と白紙。思考を広げられるのはどちらだろうか。もしかしするとこれは人によるところがあるかもしれないが、わたしからすると前者のほうがやりやすい。制限が自由を促すというのは少し語弊があったろう、制限が発想を促すというのが正しいか。


 最初に言っていた「変化」というのは、この最初のピースを形作ることである。ちょっと言い方がややこしかったろうか。

 哲学の本を読んでいると、実に独特な言い回しや単語を使用していることが多いと感じたものだ。例えば「恣意的」という単語はよく出てきた気がする。必然性がなく自由であるさまのことをいう。私はよくわからないからよく「意図的」と訳していた。なんかそれでもだいたい読めたし。

 儒教というのは自然であることが重要なものであったから、曲がるところがなければあるがままに振る舞って、それがすべてに適うという信仰みたいなのがあるのだ。あるがままで適うのだから、中庸であることは何も難しいことではないし誰にでもできるというわけだ。でも実際にはそうではない、なぜかというとうんちゃらかんちゃら、みたいになる。

 強制力がないが自然的に選択される、みたいない意味かもしれない。しかし最近はあるがさま=意図的というような訳も普通に使われているようだ。これもうわかんねぇな。

 最初は哲学というのは言葉の正確性が重要なのでみたいなことを言おうと思ったのだが失敗した。

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