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ものすごい寒波がきているらしい。今日明日がとんでもなく寒いようだ。歩いて近くのスーパーマーケットに買い物にいったのだが、確かに寒かった。寒いというより、風がものすごく強い。
先日置き配用の箱を買って、玄関に置いていたのだが、風が強くて倒れていることが頻繁にあった。対策として二リットルのペットボトルを中に入れておくことにして、それで倒れなくはなったのだが、今日外に出ていると倒れていた。それぐらい風が強いということだ。一応置き配BOXは鍵で壁につないであるので、どっか飛んでいってしまうということはないのだが、それでも倒れていると邪魔になるかもしれないし、見栄えも悪い。
今ちょっと見てみたら風速13m/sとかいう時間があったようだ。まるで台風じゃないか。そりゃあなんでもなぎ倒されてしまうわけだ。アパート入口にある注意看板も倒されていた。
私は寒いのが嫌いだ。でも寒い日にお布団にはいってぬくぬくするのは好きだ。そういう意味では今日は実によい一日であった。つまりそういうことだ。でも休みはいつも昼寝をしているような。もう少し外出の予定とかないんですか?
エネルギーというのは実に奇妙なものではないだろうか。それこそ魔法みたいなもので、とらえどころがない。熱ではないらしいが、熱を産めるらしい。あと力とか光とか。それもう魔力だよ。
エネルギーが集まると質量を持つらしい。だから水滴ひとつには原爆並みのエネルギーがあるのだとYouTubeで言っていた。少し怪しい動画ではあったがそういうものであるらしい。そう考えると私一人の体をすべてエネルギーに変換できれば、日本ぐらい滅ぼせるらしい。変換方法がないので無理だが。でもこれは実に面白い話だ。変換方法さえわかれば水の一滴から原子力発電なんてめじゃないほどのエネルギーが抽出できるのではないだろうか? というか、そもそも原子力発電というのがそういうものなのか?
でもちょっと待ってほしい。人間も食べ物からエネルギーを得ている。これってどういうことなのだ? 食べ物も質量を持つ物質であることに変わりがない。だが石をかみ砕いても人間は栄養を得られない。質量を持つ物質はこの世にあふれているが、生物が変換可能なものは限られているということだ。水は身体の構成上必要な素材というだけで、そこからエネルギーを得るわけではない。
そして変換可能な物質は限られているが、そこから変換できるエネルギーも限られているのではないだろか。そう思ったが、やはり違うような気がする。健康に必要な栄養、ビタミンなどは身体の働きを補助するものであってエネルギーではない。潤滑油であってガソリンにはならないのではないだろうか。栄養素というのはエンジンのメンテナンスキットであって、ガソリンさえあれば、つまり主食だけ食っていても人間は生きていけるのだ。
そう考えると人間のエネルギー変換装置はやはり一つしかないようだ。というか、全動物共通でこの変換装置を組み込んでいるのではないだろうか。生物というのは何か自発的な活動を行うものだ。もし一切の活動を行わないのであれば、それはただの石と変わらず、生物とはいえない。しかし活動を行うのならばエネルギーを消費を伴う。ならば自分の外からエネルギーを補給する手段が必要になる。
動物にとってのそれが、食べるということなのだ。しかし食べるという行いをあまりに当然のものに考えていたが、それらがエネルギーに変換されることで私たちが生きることを可能にしているというのは奇妙な感覚がある。泥団子のなかに飴を入れても、泥団子がエネルギーを得ることはない。
つまり私たち皆、体の中に発電機があるということだ。いや電機は作らないので、正確には発熱機というべきか。それがエネルギーを熱に変換しているのか、それともエネルギーを得る変換の過程で熱が発生してしまうのかは分からない。これまた悍ましい考えができてしまう。
生物のエネルギー変換器官を取り外す、あるいは模倣すれば、食料からエネルギーを生み出す変換機器として運用することができるのではないだろうか。
王城の地下深くに神話時代の巨人の内臓がある。
そこに大量の食糧を投下し続けることで王都全体のエネルギー源として活用しているのだ。




