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 今日また友人に会って日記を書けという旨を伝えた。なぜかといえば、それが自分を反省するのに実に効果的だと私自身の経験則として知っているからだ。


 人間の感情を表現する言葉というのは結構あるように思えて、雑に分けてみるとそんなにないのではないかと思う。ポジティブな面で挙げると、楽しい、嬉しい、気持ちいい。ネガティブなものでいうと、悲しい、苦しい、辛い。そうでなければ、普通とか、退屈とか、それぐらいになるのだろうか。極端な言い方をすれば、快か不快か、通常しかないということだ。

 果たしてそれだけの言葉で私たちの感情が表現できるだろうか。無理だろう。言葉というのはものすごいものに思えるが、感覚的なものを表現するときには意外と力を持たない。言葉が正確に伝えられるものは人間によって定められた杓子だけであって、感情や景色、音のようなこの世界に初めから存在しているものには存外無力である。


 じゃあ日記を書いてもダメじゃんと思うかもしれないが、逆だ。そのように大雑把であるからこそ理解できることもある。以前私はスタンドの案内図を作ろうと思ったのだが、グーグルマップで航空写真をスクショしてそれに各情報を加えて作ろうと思ったのだ。今思えば馬鹿な話だが、当時はそれでよいと思ったのだ。

 すると先輩が案内図ならあるよといって、使われていなかったそれを取り出した。大雑把にどこに何があるというもので、縮尺もおかしければ位置関係も微妙なものだったが、明らかにそちらのほうが分かりやすかった。理解のしやすさと、正確さというのはまったく違うところにあるのだ。

 人間は経験で物を見るが、それはその方が理解がしやすいからだ。「明日も日が昇る」これは私が経験的にそのことを知っているからである。しかしその保証はどこにもない。隕石が降ってきて地球が滅びるかもしれないし、富士山が噴火して火山灰に覆われるかもしれない。それでも「太陽と呼ばれる光ものが現れる」という事実を、あるいは日常で見聞きするあらゆる事実を、改めて新鮮なものとして受け入れていては脳が耐えられない。私たちは一度見聞きしたものは既知のものとして枠組みを作っておき、再度それらに触れたときは、まったく同じものである保証などどこにもないのに、同じものとして扱うのだ。


 ならば繊細で複雑で、とらえどころのない感情というものをそのまま受け入れることの難しさは言うまでもないだろう。加えていうなら思考というのは主観的であって、「私」にとってでしか語ることができない。

 だからこそ日記をつけるのだ。感情という混沌を大雑把に定義し、理解してやることで初めてその原因や解決策を模索する論理を組み立てることができる。ときに嫉妬のような受け入れたくない感情というのは否定してしまいがちなので、文字として定義づけることですっきりすることもあるだろう。

 私も自分の鬱屈としたコンプレックスは理解しているつもりだ。だが世間がどれだけそれを醜いと言おうと、人間であるならば当然に持ちうる感情で、受け入れてやることが大事なのだ。分身した闇の自分を受け入れてあげるアレと同じだ。すると主人公は覚醒し、大きな成長へと繋がる、のかもしれない。

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