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 もうすぐ休みも終わりだ。

 昨日は久しぶりに馴染の友達と会い、大学の友達とも会ってきた。自分の知っている人が自分の知らない場所でちゃんと時間が過ぎているというのは、ちょっと奇妙なものに思える。ちゃんと世界は回っているのだと認識させられる。

 以前馴染の友達のことを愚痴った記憶があるが、彼もそれなりの苦労を抱えて生きていたようだ。それから解放されたから、最近になってすっきりとした様子になったのだろう。以前はどこか、ずっと余裕がないような様子だった。早く帰りたい、人と関わりたくないという気配がありありと出ていたのだ。誰しも一つや二つ爆弾を抱えることはあるのだろう。だがそれに身を焦がされる焦燥感はあまりに耐えがたいものである。人が抱える爆弾は、たいていの場合いざ爆発してしまっても案外なんとかなるものだ。耐えがたいのは、導火線が燻り、いつかは分からずともいつか爆発するのだという焦燥感である。思い切って火をつけられたらどれほど楽か。


 もう一人の馴染もかなり苦労をしてきたようだ。以前に会ったときよりもずいぶんと参ってしまっているようだった。幼いころから貯めてきた負の遺産が、今になってぶり返しているようだ。私もなんとかしたいという思いがあって、彼をあれこれと説得してみたのだが上手くいかない。いつの間にか強情になってしまった。

 なんとかしたいと思うのは、彼のためというより私のためなのだろう。きっと私は良い人でいたいのだ。良い人は友達を見捨てたりしない。でも存外マザーテレサーだってそういう自分に酔っていたのかもしれない。そう書くと俗物にも思えるが、無償の愛などというのものは神にしか赦されないものであって、大事なのは思考よりも現実の行動だろう。

 精神的に苦しんでいる人に「頑張れ」というなとか、放っといてほしいという意見を少し前から見聞きするようになった。主にツイッターとかでそう主張している人がいるらしい。正解かもしれないし、不正解かもしれない。でも心の有様など個々で変わるのだから、一様に正しい言葉などないのだ。

 その人が欲しい言葉を言ってやったら、その人が救われるとも限らない。救われるかもしれないし、ぬかるみの中に沈んでいくかもしれない。負荷をかけてやったら立ち直れるかもしれないし、そのまま倒れてしまうかもしれない。


 じゃあどうするかというと、結局私の経験で正しいと思うことを言うしかないのだ。そして私に言わせれば、苦しんでいる人を放置するのは最悪の選択だ。人は人と関わることでしか、大きな成長も変化も望めない。これは私の信仰といってもよい。

 人間とは怠惰なものだ。だからこそ効率を求め、生物としての生存戦略に勝ってきた。だからやらなければいけないことがなければ、それは常態化し、二度と抜け出せぬ泥濘になる。一日も家から出ないでいると。酷く体調が不安定になる。人間は怠惰でも、体は活動を前提に作られているからだ。

 だから私は思うのだ。私たちに必要なのは拘束であると。自由に制限をかけ、強制的な活動に勤しむことで初めて人生を楽しむスタートラインに立てるのだと。それは学校なり、仕事なり、強制力があればなんでもよい。


 思えばこの日記をつけ始めたのもそんな理由であった気がする。久しぶりに読み返してみるのも悪くないかもしれない。

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