22 11/12
突然だが、今日に感謝したいと思う。
何か特別にいいことがあったわけではない。逆に特に書くことがなかったので、こんなことを言い出したのだ。
大切なものは失って初めて気づくという。家族や友人といった人間関係。インターネット、日ごろ食べているもの。確かに私たちが日常的に使っているもののほとんどは非常に高度化した文化や経済によって成り立っている。インフラもそうだ。
今日はそういった当たり前のものを改めて観察し、それらがあることの喜びを再認知しようというちょっと宗教染みた試みである。
さて、目につくもので最初に挙げるならやはりパソコンだろう。これに関しては言わずもがな、どれほどの技術がこの一台に詰め込まれているのだろうか。どれほどの会社が、どれほどの工程を得て、どれほどの人が関わって産まれてきたのか。それらすべて想像することはできないが、自分ひとりで一から作ろうと思えば一生かかってもまったく歯がたたないだろう。それだけチート性能の物を個々人が扱えるようになっているというのだから奇妙なものだ。
次に耳には気持ちの良い音楽が流れている。ネックスピーカーから自分の好きな曲を聞いているのだ。昔は音楽というのは貴族しか楽しめない娯楽であっただろう。そりゃあ民族音楽的なものはあったかもしれないが、これほど複数の楽器を使って調整された音楽が、しかも個人のためだけに好きなように聞くことができるのだ。異常なことではないか。
他にもたくさんある。たくさんあるが、本当に目に入ったものすべてがそうだ。家だけじゃくて外にでてもそうだ。道路も、畑も、どんな施設も一人ではなせず、あるはずのなかったものだ。それらすべてが歴史と文化、そして経済の結晶なのだ。
私たちはそれらを生まれたときからあまりに自然と享受してきた。ゆえにこうして理論として認識しても実際にそれらは実感の伴うものではない。明日には忘れる感謝だ。だからこの試みは初めから意味のないものだと理解していた。人にとって物の価値など相対的なのだから、こうやって昔を持ち出して昔ならこうだったのだからすごいなどと、基本値を下げることでしかその価値の偉大さに気付けない。それですらあまりに不足だ。
だがせめて、こうしてたまに思いだして感謝しておこうではないか。礎を築いた人々に、当然のようにあるものを提供してくれる数えきれないほどの人々に。最近は一人で生きていける、という人が多い。そこには、この社会の中でならという但し書きがある。本当の意味で一人で生きていける人などそうはいないのだ。




