22 11/10
髪というのが人の容姿にこれほど大きな影響を与えるというのは、なんだか奇妙な話ではないだろうか。髪型によって人の印象はがらりと変わるが、なぜ髪は人にとって重要な要素になったのだろうか。
本来ならば髪の役割は体毛であり、それは重要な部位を衝撃から守ったり、あるいは体温調節等の役割を担っていたはずだ。それが今では容姿における重要なファクターとしての地位を得ている。いったいどういうことだろうか。
そもそも容姿でこれほどまでに好悪の対象を左右される生物というのはどれほどいるのだろうか。ダーウィンがきたでは雌を争う雄という図はそこそこ見かけた。ときに命に関わるのど激しい争いをしたりするのだとか。だがそれなら納得がいくものだ。強いものが子孫を残す。我が子に強くあってほしいというのは生物の摂理だ。しかし容姿が優れていることは、自然という状態においては何の優位性も約束されない。
以前にもこの話はした気がするが、結局容姿というのは社会的な優位性の名残なのではないかと思うのだ。かつての日本ではおたふくのようなふくよかな顔立ち、能面のような白い肌、地面についてあり余るほどの長い髪、こういうのが美しさであったという。当然、現代においてはそれを美しいという人間は少ない。しかしかつてはそうだった。
これが意味するところは、容姿の美醜という価値観は社会的に作られ、左右されるものだということだ。そして優れるとされる容姿の特徴は社会的に高い地位のある者が持つ特徴だった。かつてはその美しさは貴族にしか許されないものだった。ふくよかさは十分な食料がなければ、白い肌はおしろいと清潔な環境や外での労働に従事しなくて済む環境、長い髪もまた従者がいなければまともに行動を許されない。そういった貴族でなければできないような特徴を備えることで、それを美しさとして作り上げたのだ。それが長期的にわたって遺伝子に刻まれたのか、あるいは幼少期からのすりこみのみによって美醜の価値観を養ったのかは分からない。
それで現代でいう「貴族」というのは何にあたるのだろうか。少し前ならテレビに出てくるアイドルや俳優だと言えたのだが、今は何とも言い難いところだ。それゆえに美しさという価値観が多様化しつつあるようにも思える。外国では素のままの美しさ的な運動が起きているらしいし、百人いて全員頷くような美しさというのはなくなりつつあるのかもしれない。
それに反して、醜さというのはしっかりと形が示されているように思う。ちび、デブ、ハゲ、おっさん三拍子だ。他に容姿より性格を指すことも多い。自分中心で要望に忠実な人間のこと。これほど多様化する社会においても醜さが一般化され、共有されている。なんだか社会の歪みのようなものを感じてしまう。




